廃なるものを求めて

廃なるもの、すなわち廃線跡、廃墟、その他うんぬん。写真作家の吉永陽一が朽ちていくものをじっくりしっとり、ときには興奮しながら愛でていく連載。

最新記事

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大村湾ののどかな海に点在する旧海軍の遺構 片島魚雷発射試験場跡その2
前回は射場とポンプ所を中心に巡りました。後編は小山の頂上にある観測所を訪れます。観測所は射場でセットされたテスト魚雷を観測する場所で、発射指示を出して魚雷が発射されると、大村湾の沖合に1000m間隔で設置されたブイを目印にして、そこを通過する魚雷の速度(雷速)を測定したり、雷跡の状態を確認したりと、高所の位置を活かした観測をおこなっていました。

この連載の記事一覧

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再開発真っ只中の渋谷駅で、東急東横線の痕跡を探す ~廃なるものを求めて~
はじめまして。廃なるものと鉄道と線路と飛行機をこよなく愛する、写真作家の吉永陽一です。廃なるものは、廃線跡、廃墟、その他うんぬん。要は朽ちていくものを愛でるのが好きです。普段は小型機やヘリに乗って空撮をする仕事をしていて、ライフワークは鉄道の空撮。「空鉄(そらてつ)」の名で鉄道空撮作品を発表しており、著作や個展で聞いたことがある方もいるかと思いますが、この記事では、私が愛でる「廃なるもの」を紹介します。廃墟や廃線跡、建物の痕跡などといったものに惹かれていったのは小学生のころで、中学生では廃線跡を撮影していました。未来を見つめるより、過去の事柄やモノのほうに惹かれていき、現在では4×5インチ大型カメラで「廃なるもの」を見つめています。
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職場の隣にある「廃」 調布飛行場周辺に残る旧陸軍航空隊の掩体壕3基~廃なるものを求めて第2回~
掩体(えんたい)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。掩体とは、ざっくり言うと敵弾から守る設備のことです。大小様々な掩体があり、とくに航空機を守ったり秘匿したりするのには「掩体壕」というものがあります。これは航空機をすっぽりと覆う、大型の設備です。掩体壕はカマボコ屋根状のコンクリート製が多く、屋根の上に草木を生やして偽装する場合もあります。かつて、旧・陸海軍の基地周囲にはたいてい掩体壕が存在しました。戦後、掩体壕は解体されていきますが、元来空爆などから身を守る設備であるため解体しづらく、そのまま放置されて倉庫となるケースもあります。そして、掩体壕は東京都内にも存在しています。場所は調布市。調布飛行場の周囲に数カ所点在しているのです。
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かつてここは駅だった……。桜の木が立派な廃駅。旧筑波鉄道雨引駅 ~廃なるものを求めて 第3回~
筑波鉄道という私鉄はご存知でしょうか。「つくばエクスプレス(TX)」ではなくて筑波鉄道です。もうかれこれ33年前(1987年)に廃止となった私鉄で、JR常磐線の土浦駅から北上して筑波山の麓を走り、JR水戸線の岩瀬駅までを結んでいました。筑波鉄道は非電化で、ディーゼルカーが走っていました。車両は国鉄や他の私鉄からやってきたものが多かったのですが、廃止になった時は私自身がまだ小学生でして、東京に住む子供には筑波鉄道は遠すぎて、ついぞ訪れることはありませんでした。
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再開発によって激変した晴海と豊洲に埋もれる貨物線の跡 ~廃なるものを求めて 第4回~
今から30数年前の東京臨海部。倉庫群の脇に線路があるのを見たことがあります。何の線路か分からなかったのですが、後に東京湾の埋立地を結ぶ貨物線だと知りました。戦後の高度成長期、東京湾の臨海部には貨物線が張り巡らされていました。この貨物線は「東京都港湾局専用線」。最盛期の1960年代には、汐留〜芝浦埠頭・日の出埠頭(芝浦線、日の出線)、汐留〜築地市場、越中島〜豊洲埠頭・晴海埠頭(深川線、晴海線)を結び、臨海部の貨物線網が形成されていました。その路線群はトラック輸送にバトンタッチして昭和末期に使命を終え、1989年には全面廃止。1990年代に入ると線路のほとんどが剥がされていきました。
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雑木林に同化しながら奥多摩湖のほとりで佇むオート三輪 ~廃なるものを求めて 第5回~
オート三輪は、1970年代前半まで日本各地で活躍した三輪トラックです。東洋工業(現・マツダ)や、ダイハツなどが代表的なメーカーでしたが、製造中止になると、1970年代後半には輸送の脇役となり、現在ではすっかり見かけなくなりました。
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廃線跡の聖地を巡礼する・安比奈線その①~廃なるものを求めて 第6回~
全国津々、廃線跡はたくさんあります。道路になった場所もあれば、人を寄せ付けない山中にひっそりと存在する場所もあって、廃線跡と言ってもその形態は千差万別です。私はまだ訪れていない廃線跡も多々ありますが、いままで出会ってきたなかで、これは聖地に値するなというところがあります。川越市にある、西武安比奈線です。今回はボリュームも多めに、二回に分けて紹介します。
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廃線跡の聖地を巡礼する・安比奈線その②~廃なるものを求めて 第7回~
新年、明けましておめでとうございます。まだ始まったばかりの「廃もの」ですが、今年も宜しくお願いいたします。さて、昨年末は安比奈線その1を紹介いたしました。新年はその2をご紹介いたします!前回は、雑木林の前に立ちはだかる立入禁止看板の前で立ち尽くす……もとい、柵から林を覗いて「こりゃ何も見えないや」と諦めたわけですが、線路はこの林の先にも続いています。回り道をして、物流倉庫の脇を歩き、対面通行の道路へ出ました。ふと右を見やると線路が雑木林から現れて、道路と交差すると鉄橋が見えました。「池辺用水橋梁」と呼ばれる、1スパンの橋梁です。
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国道駅、それは生と廃の交わる空間。生きている駅と静かに眠る高架下。~廃なるものを求めて 第8回~
皆さん、国道駅という駅を聞いたこと、訪れたことがありますか? このストレートなネーミングの駅は、JR鶴見線鶴見駅の隣にある高架駅です。国道15号に面しており、駅名はその国道が由来です。この駅を目的に訪れる人々が絶えることがなく、鉄道ファンや旅人には名が知れた駅です。なぜそんなに注目されているのかというと、国道駅は昭和5年(1930)に開業した高架構造の雰囲気を、今も色濃く残しているから。高架下はコンクリートのアーチ型が続き、「レトロでノスタルジック」な佇まいが人気です。
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高さ170㎝の“行灯殺しのガード(高輪橋架道橋)”の今と、空から見た高輪築堤 ~廃なるものを求めて 第9回~
再開発たけなわの高輪ゲートウェイ駅付近に、通称“行灯殺しのガード”または“首曲がりトンネル”あるいは“おばけトンネル”と呼ばれる、大層古いガードがあります。品川地区が再開発される前、品川〜田町間が車両基地で埋め尽くされていた時代には既に存在し、高さはなんと約170cm、長さは約220mという、洞窟のように大変低くて長いガードです。
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撤去されつつある、住宅地に残されていた旧貨物専用線の遺構。旧・日本製紙北王子線 ~廃なるものを求めて 第10回~
東京都北区の京浜東北線王子駅は、地下鉄南北線と都電の乗り換えだけでなく、東北・上越新幹線の高架橋がそびえ、東北本線(宇都宮線)の線路が並んでいます。常に電車が行き交うにぎやかな走行音が響き、ちょっとした鉄道スポットでもあります。王子駅を北側に歩きます。頭上に聳えるのは新幹線高架橋で、前方に長い跨線橋が見えてきました。跨線橋の階段を上がると、母親と一緒の男の子が欄干にかじりついて電車を見下ろしています。ああ、かつての私もこうだったなどと、目を細めるひととき。でも男の子は、ずらっと並ぶ東北本線と京浜東北線の線路の端っこ、新幹線高架橋の真下に、赤錆びた線路があることには気がついていないかもしれません。
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人里離れ、道路もない山深い秘境駅の周りは全てが朽ちていた。飯田線小和田駅~廃なるものを求めて 第11回~
今回は関東を離れて、ちょっと山深い駅へと足を延ばします。ちょっとと言っても、豊橋駅から飯田線に乗り換えて電車に揺られること約2時間なので、ちょっとどころではありません(笑)。ショートトリップです。(※緊急事態宣言が発令される前の出来事です)飯田線小和田(こわだ)駅は耳にしたことあるでしょうか。天皇陛下と皇后雅子様ご成婚の際、雅子様の旧姓が小和田(おわだ)家だったことが縁で、漢字が同じ小和田駅が一時期有名に。最近では秘境駅ブームで注目されています。なぜ秘境駅かというと、天竜川のほとりの山肌にへばりつくようにしてホームがあり、周囲は県道や国道はおろか車が入れる生活道路もありません。一番近い塩沢集落までは徒歩約1時間。この環境が秘境駅たる所以です。
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オシャレな街を抜けるとぽかんと現れる都営住宅の跡・都営青山北町アパート~廃なるものを求めて 第12回~
表参道、青山。その名を聞くと、オシャレで優雅、流行の先端な場所というイメージを連想します。実際に地下鉄表参道駅を降りて地上に出ると、さっそく洗練されたショップが軒を連ねていますね。かつて表参道の並木にあった、戦前にできた同潤会アパートも表参道ヒルズとなって久しく、きらびやかな世界が広がっています。一歩脇道に入ると、人気店が軒を連ね、人々がゆっくりとお店を見ながら歩き、「映え」なシーンに嬉々とする姿をよく目にします。スイーツが美味しそうなカフェや某有名トンカツ店を横目に歩いていくと、閑静な住宅街になってきました。行列ができているカフェの角を曲がります。左右の住宅が迫る狭い生活道を進んでいくと、前方の道路の中心にポールが立っています。車は通れないけれど、人は歩けます。左手は小さな公園となっていて、ふとポールの先を見ると、サーモンピンク色の壁面をした団地群が、立ちはだかるように現れました。
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美術館の裏手は砲台跡だった――。岬の丘陵には砲台がたくさん。観音崎砲台群<前編> ~廃なるものを求めて 第13回~
桜が満開となった麗(うら)らかな春の日。観たい展示があったので、横須賀美術館へ行きました。初めて行く美術館なので、周りには何があるだろうかと何気なく美術館周囲の地図を見ていると、「三軒家砲台跡」という単語を見つけてしまいました。なに?砲台跡?砲台跡。この単語に興味が惹かれ、美術館を拝観し終わったら散策してみよう。いや、そうするべきだと決めました。横須賀美術館は三浦半島の東側、神奈川県立観音崎公園内にあります。観音崎は東京湾の湾口部にあり、一般的には観音崎灯台や海原が望める丘陵地帯の公園が有名ですが、私にとっては明治期に配備された観音崎砲台群を連想させるものです。明治初期から1945年の終戦にかけ、東京湾要塞のひとつとして、三浦半島の沿岸部には砲台などの防衛施設が多数配備されました。とくに観音崎は日本初の西洋式砲台として旧陸軍が整備することとなり、第一砲台が明治17年(1884)に竣工し、続いて第二砲台、第三砲台と、丘陵地帯の沿岸部のあちこちに砲台が配備されました。「三軒家砲台跡」もその砲台群のひとつで、明治29年(1896)から昭和9年(1934)まで稼働しました。
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散策道を進むと日本初の西洋式砲台が眠っている。観音崎砲台群<後編> ~廃なるものを求めて 第14回~
前回は「三軒家砲台跡」と「腰越堡塁(ほうるい)」を散策しました。まだ日が暮れるには早い時間帯、せっかくなので観音崎公園に点在する砲台群を見て回ります。神奈川県立観音崎公園は、砲台跡がいくつか点在しています。案内板にもしっかりと記されているし、道も舗装されて歩きやすいので、草木をかき分けて見つける廃墟とは違って気軽に散策できます。さらに、遺された砲台跡は遺跡のような佇まいをしており、かなり見応えあります。観音崎には、前回巡った三軒家砲台跡を除くと、北門第一、北門第二、旧第三、北門第三、北門第四、南門が存在しました。そのうち旧第三と北門第四は海上自衛隊敷地内にあるため見学不可です。今回は第一、第二、第三の三ヶ所を巡ります。これらの砲台は三軒家砲台よりも古く、とくに北門第一と第二は、日本初の西洋式砲台として整備されたので、明治初期の砲台をよく観察することができます。砲台は、日清戦争や日露戦争時に敵の上陸を阻止するため造られたものです。やがて大正時代となると、役目を終えるものや、関東大震災によって被災したものもありました。観音崎にあった砲台の全てが第二次世界大戦終了時まで現役だったわけではありません。また海上自衛隊敷地内にある旧第三砲台は、貴賓船用の礼砲台として現役です。砲は戦後に設置されたものですが、衛星写真を見ると馬蹄状の砲台跡と礼砲用の砲座が判別できます(余談ですが、数カ月前のテレビ番組「鉄腕ダッシュ」でこの礼砲台が紹介されました)。それでは巡っていきましょう。
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廃止から約四半世紀、「アプトの道」というハイキングコースになった信越本線の難所~碓氷峠その1
碓氷峠。その名を耳にするとき、JR信越本線横川〜軽井沢間を登り下りするEF63形電気機関車と特急あさま号、おぎのやの駅弁「峠の釜めし」を思い出します。おそらく読者の皆さんのなかにも、碓氷峠のEF63を追いかけたという方がいらっしゃるでしょう。そこで“廃なるもの”碓氷峠編は、じっくりと紹介したく、3回に分けて語ります。来月までかかりますが、しばらくお付き合いください(笑)
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「アプトの道」は旧線跡へ。レンガのトンネルや橋梁が出迎える~碓氷峠その2
前回のその1では、丸山変電所の手前までやってきました。今回は変電所を観察しながら、アプトの道を登って行き、旧線跡の途中までお伝えします。
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高さ31mの4連レンガアーチ「めがね橋」を渡ると、トンネルと橋梁が連続する~碓氷峠その3
前回は旧国道18号のクロスするところまでお伝えしました。第3回目は、いよいよ「アプトの道」が佳境となります。旧国道を潜ります。上り勾配は延々と続いていますね。アプト式終焉の日まで、ラックレールに歯車をしっかりと噛ませたED42形機関車が、客車や気動車を押し上げていた道です。目の前に短いトンネルが連続してあります。第3と第4トンネルです。ここは直線ですね。石積みのポータル(出入り口)に吸い込まれ、てくてくと歩いて行きます。 
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碓氷峠の中間駅であった熊ノ平。いまはアプトの道終点である。~碓氷峠その4
碓氷峠は3回に分けてお話しするつもりでした。案の定、話が延びてしまい、4回目の今回がほんとにラストです。話が延びるほど、アプトの道には見るものがたくさんあるということですね。さて、前回まで「熊ノ平(くまのだいら)」と述べているけれども、そもそも熊ノ平とはなんぞやと言うと、アプト式時代は山中にある中間駅でした。新線に切り替わってしばらくした昭和41(1966)年に信号場となりました。駅とはいっても周辺は鉄道関係者か、玉屋の「峠の力餅」(第2回のレポに登場した力餅)の店舗くらいで、変電所と上下列車の交換設備が狭い山肌にへばりつく形であったのです。
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黄色い海自練習機が保存される場所は十字状滑走路の廃飛行場~旧海軍香取航空基地 前編
千葉県の旭市に十字の滑走路が残る海軍飛行場跡がある。そう聞いたのはずいぶん前のこと。それから20数年。やっとのことで訪れました。旧海軍香取航空基地。場所は千葉県北東部、匝瑳(そうさ)市と旭市の境界です。電車だと総武本線干潟駅が最寄り。ここには海上自衛隊の練習機が保存され、周囲に掩体壕(えんたいごう)も残存しています。今回はちょっと短めですが、海自練習機を見学しつつ香取航空基地跡の全体を観察し、次回は掩体壕を紹介いたします。
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十字状滑走路跡の先の田んぼに残された2基の掩体壕。旧海軍香取航空基地 その2
前回は香取航空基地の保存飛行機と滑走路の雰囲気を見ました。今回はより廃ものらしく、残存する掩体壕(えんたいごう)を見学します。香取航空基地は戦争末期に100基以上の掩体壕がありましたが、現在は3基の掩体壕が残るのみです。そのうち1基は個人宅の敷地内にあるため、見学は差し控えました。掩体壕は第2回調布飛行場掩体壕でも紹介しました。掩体壕とは主に航空機を攻撃から守る防空壕みたいなもので、カマボコ状のタイプや土塁をU字状にしたものなど、いくつか種類がありました。2基の掩体壕は、ブレーキテスト場滑走路跡の北西端の延長線上にあります。前方の畦道を見やると、カマボコ状の物体が二つ、田んぼの中から生えているように見えます。
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【前編】日本初の溶接鉄道橋が残存する横浜港米軍専用線跡
人々がにぎわう横浜みなとみらい地区。そこから横浜港を挟んだ瑞穂埠頭には在日米軍基地があり、基地へは在日米軍専用線の線路が残っています。2回に分けてこの在日米軍専用線を追います。瑞穂埠頭の大部分は在日米軍基地「横浜ノース・ドック」となっており、東海道本線支線の高島貨物線から分岐し、基地へと伸びる在日米軍専用線があります。在日米軍専用線は国鉄が編纂した専用線一覧表によると、東高島貨物駅が接続駅、距離は5.0kmとなっています。もともとは米軍専用線ではなく、戦前の瑞穂埠頭は貿易港で、線路は輸出入品を輸送する貨物線でした。戦後に米軍が接収し、長らく基地間輸送に使用していたのです。
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【後編】日本初の溶接鉄道橋が残存する横浜港米軍専用線跡
前編に続き、横浜港米軍専用線跡を見ていきます。今回は瑞穂橋をメインにレポいたします。低木の茂る線路を横に見つつ、瑞穂橋はすぐ現れました。
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【前編】空撮で見る、横浜博覧会後の臨港線廃線跡
遠い記憶の彼方の話になります。横浜港で開催された「YES’89・横浜博覧会」に、家族で訪れたことがあります。おぼろげなのですが、仮設の駅からディーゼルのレトロ車両に乗って、鉄橋や高架橋を走っていきました。その鉄道は横浜博覧会用の輸送列車で、1986年に廃止となって間もない横浜港の臨港線を使用したものでした。走っていた車両は三陸鉄道へ譲渡され、ミャンマーへ渡ったのち、いまはどうなっているか存じません。横浜博覧会後の臨港線廃線跡は1997年に「汽車道」として整備され、現在は手軽に散策できます。今年4月にはヨコハマエアキャビンというロープウェイも開業し、ゴンドラからドローンと同じような高さで汽車道を観察することができます。
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【後編】空撮で見る、横浜の臨港線廃線跡と海上築堤。
前回は横浜港の臨港線を紹介しました。今回は桜木町駅と横浜駅までの廃線跡を上空から紹介します。空撮日は2021年7月12日と9月7日です。
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高輪築堤を地上から見てみた。9月の見学会レポート3部作~前編
今月14日は鉄道の日です。1872(明治5)年に日本初の鉄道が開通してから149年目となり、来年は150周年となります。前回「廃もの」横浜空撮編では「次回も空撮で」と紹介しましたが、ちょうど「高輪築堤」の見学会に参加する機会がありましたので、その模様を先にお伝えします。今回は前置きが長いです(笑)高輪築堤とは、この数年で注目されている鉄道遺構です。2021年は日本初の鉄道が新橋〜横浜間を結んで開通するとき、品川付近は陸ではなく海上に築堤を築きました。その海上築堤の遺構のことを指します。田町〜品川間の旧車両基地と山手線・京浜東北線の線路跡地再開発中、線路跡地を掘ったら海上築堤と石垣がほぼ完璧な姿で現れたニュースは、人々の注目を浴びることになりました。2019年に最初の確認がされてから、もう2年前近くになります。
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高輪築堤を地上から見てみた!移築保存される信号機跡と石垣構造。9月の見学会レポート3部作~中編
高輪築堤見学会レポ2回目は、信号機跡と築堤構造細見です。では、高輪ゲートウェイ駅目の前で発掘された、信号機跡の土台を含む築堤部分を見ましょう。信号機跡はニュースにもなったので記憶ある方も多いかと思います。信号機跡部分の長さ30mは、第一京浜沿いに移築保存されることになりました。信号機跡はまだナンバリングだけで発掘状態のままです。築堤から少し迫り出した、城の見張り台のような感じになっています。
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9月の高輪築堤見学会レポート3部作~後編。出土遺物の目玉は双頭レールと枕木
高輪築堤見学会レポは今回でラストです。最後は出土遺物を紹介します。出土品は鉄道遺物よりも生活品などが多かったのですが、この度の高輪ゲートウェイ駅前の記録保存作業では、大変興味深いものが出土されました。どんなものが出土されたのか見てみましょう。
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2021年10月の高輪築堤を、上空から観察してみよう~高輪築堤見学会レポ総まとめ~
高輪築堤見学会レポの連載、3回に渡って紹介しました。今号は締め括りとして先月(2021年10月)に空撮した模様を紹介します。前回までの地上編と今回の空撮編と、二つの視点から高輪築堤の現在の様子をご覧ください。なお見学会レポはこちらになります。
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奥多摩に眠る都内随一の廃線跡を道路から愛でる。小河内線跡その1
東京都奥多摩には、遺構がしっかりと残存する廃線があります。その名は小河内線。奥多摩湖となる小河内ダム建設のために敷設された貨物線で、青梅線の終点氷川(現・奥多摩)駅からダム建設現場の水根まで6.7kmの路線でした。小河内線は途中に交換設備のない単線非電化で、東京都が運行する専用線でした。都が国鉄からC11形蒸気機関車と乗務員を借り受けて運行し、専用貨車も製造され、ダム建設資材のセメント輸送に活躍したのです。
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奥多摩に眠る都内随一の廃線跡を道路から愛でる 小河内線跡その2 
前回は第三氷川橋梁までの探索でした。後半は終点の水根まで「奥多摩むかし道」を歩きながら巡ります。緑茂る奥多摩とはいえ、夏場だとかなり暑くなります。訪れたのは6月と11月で、6月はまぁまぁ汗だくになりました。11月はまだ身震いするほどの寒さではなかったから、落葉に近い紅葉と遺構の対比が美しかったですね。奥多摩むかし道は、車一台分の幅の生活道路と合流します。小河内線は第四氷川トンネルで抜けています。むかし道の整備で設置されたトイレで小休止。ここから先はこの生活道路がむかし道となります。たまに車が来るので気をつけましょう。
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茨城県『竹内農場西洋館』。田畑の先の林には、レンガ造りの洋館が眠っていた。
年末、この時期になると取引先の挨拶回りに出かけます。茨城県竜ヶ崎市には空撮でお世話になる竜ヶ崎飛行場があり、そこへ行くついでに何気なくネット地図を眺めていると「竹内農場西洋館」という史跡マークを見つけ、「あ、いつも空撮へ行くときに走るバイパス道路のすぐ近くだ。どれどれ」と史跡マークをクリック。「ヲお……」思わず声を漏らしてしまいます。PC画面に映し出されるのは、朽ちたレンガの建物! 林の中に屋根が崩れ落ちたレンガの廃屋が佇んでいる。ああ、江戸川乱歩の小説に出てくるような「繁栄した一族の栄華が染み込んだ洋館の廃墟」のような風格です。かつては瀟洒な洋館であった廃墟。それが、身近なところの近くにあるとは。飛行場への挨拶の前に、さっそく訪れてみました。
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公園に残存する国内初の常設型西洋式競馬場「根岸競馬場一等馬見所」。
新年早々の根岸森林公園は、数日前に積もった雪が広場に残り、子供たちが雪やボールで遊び、笑い声の絶えない憩いの場となっています。時刻は西日が眩しい夕刻時。子供たちの歓声の向こうに、背の高い建造物のシルエットが逆光の光から浮かび上がります。公園内には不釣り合いなほど巨大な建造物。近づいてみると、柵に囲まれて入れない廃墟です。いよいよ不思議な光景に出会しました。正体は「根岸競馬場一等馬見所」。そう、ここは競馬場の跡地だったのです。
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東京湾要塞の痕跡を辿る。富津公園の元洲堡塁砲台跡
東京湾は、江戸時代末期に外国からの防御のため台場が築かれました。外国船舶の往来が増した明治時代になると、海防の要として、浦賀水道を防御するように要塞が整備されました。
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富津の砲台跡は陸軍富津試験場となり、現在も遺構が点在する~監視台編その1
前号は元洲堡塁砲台を紹介しました。この砲台は除籍後の大正8年(1919)、陸軍技術本部に移管され、第一研究所富津試験場(注)として兵器の試験射場となりました。(注:昭和17年に陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所富津試験場へと整理統合)研究所となった砲台跡は、近距離の兵器を試験する射場となります。扇状の砲台跡の周囲に射場の設備や、数カ所に監的所(警戒哨)や監視所のコンクリート建築物が設置されました。それらの設備は1940年代はじめに建設されたそうですが(続しらべる戦争遺跡の辞典 柏書房による)、富津試験場となった大正時代からポツポツと建設されていったかもしれません。
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監視台編その2。千葉県富津市の松林に埋まる旧ザク~富津の砲台跡は陸軍富津試験場となり、現在も遺構が点在する
前回はのっぺらな監視所を紹介したところで、ボリュームいっぱいになったので終了しました。今回は続きです。監視所を離れて次の場所へ向かいます。小型の見張り施設、監的所(警戒哨)です。これもコンクリート構造とのことで、監視所と同時期に造られたと考えられます。来た道を戻り、ちょうどジャンボプール付近の松林へ入ります。散策道になっているから安全ですね。しばらく東方向へ歩いていると「監的所(トーチカ)」と記載された戦争遺構ガイドの看板がありました。警戒哨、監的哨、監的所、トーチカ。言い方はそれぞれ異なりますが、廃なるものでは監的所で統一します。
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監的塀(かんてきへい)と射入窖(しゃにゅうこう)に出合う。陸軍富津試験場の遺構~その3
前回は旧ザクの頭かと思った監的所の跡を見て終わりとなりました。今回はその続きです。監的所のある場所から駐車場方面へ歩を進め、親子がワイワイとキャッチボールをする憩いの広場へ出ました。南側にある茂みへ向かい、その先にある富津試験場の遺構を目指します。
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海底に眠るプラットホーム。関東大震災で沈んだ根府川駅の遺構をスクーバダイビングで巡る
今回は11年前、2011年に訪れた関東大震災の遺構です。震災遺構を廃なるもの(=廃墟)として括るのはどうなのかなとも考えてしまいますが、この読み物では戦争遺構も紹介しており、歴史の遺構の括りとして紹介します(では城跡は?というと収拾つかなくなるので、明治以降の近代遺構としています) 。今回の場所は地上ではなく、ましてや空からでもなく……海です。11年前の撮影ですが、おそらく現在も変化ないでしょう。JR東海道本線根府川駅は相模湾に迫り出す山腹にあります。ホームからは大海原が望め、温暖な気候と相まって長閑な空気に包まれている大幹線の駅です。駅は大正11(1922)年、東海道本線の前身である熱海線開通と共に誕生しました。駅舎は大正13(1924)年築。その間には関東大震災がありました。大正12(1923)年9月1日の関東大震災は、多くの被害がありました。熱海線の被害も甚大で、数箇所で山津波や地滑りによって、鉄橋を含む線路設備がズタズタに破壊されました。中でも根府川駅は、ちょうど進入してきた下り旅客列車と駅が地滑りによって海中へ没する大惨事となってしまい、駅の西側に架かる白糸川橋梁も地震による土石流によって流され、駅周辺の集落も土石流に飲まれました。
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岬の自然公園には遺構が点在する。大房岬に残る東京湾要塞の痕跡。~大房岬砲台前編~
「廃なるもの」では、神奈川県横須賀市の観音崎砲台群や千葉県富津市の元洲堡塁砲台と、しばし砲台跡を巡ってきました。それらは東京湾要塞として明治13(1880)年から建設、砲台が配備されたもので、他にも神奈川県と千葉県には要塞跡や砲台跡が公園となって点在しています。比較的安全に“廃なるもの”を観察するには、こうした砲台跡は手ごろであり、いわゆるラピュタ的世界も味わえるので、廃墟散策の百戦錬磨からルーキーまで様々な方が訪れるのです。そのうちの一つが、千葉県の大房岬砲台です。南房総市大房岬自然公園内に遺構が点在し、さながら宝探しのオリエンテーションのように巡ることができます。東京湾要塞は昭和に入ってからも建設され、東京湾の南に突き出ている大房岬は、首都防衛のために昭和3年(1928)から4年の月日をかけて建設された砲台です。岬の地形を活かして砲台と付帯設備が築かれ、終戦間際には海岸部に魚雷艇の基地も配備していました。今まで巡ってきた砲台跡は明治期の日露戦争前の遺構で、レンガ構造物が多かったのですが、大房岬砲台は昭和初期に建設されたため、遺構はコンクリート構造物となります。
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遺跡のような入り口に祭壇?大房岬に残る東京湾要塞の痕跡、第1探照灯掩灯所~大房岬砲台後編~
前回は大房岬の砲台跡を巡ってきました。後半はこの遺構の目玉を紹介します。と思って記事を書いていたら、紹介するところが多くて長くなってしまいました。メインは今回紹介し、次回はおまけとその他を紹介します。すいません。
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海岸の戦争遺構。岬の自然公園には遺構が点在する。大房岬に残る東京湾要塞の痕跡。~大房岬砲台・海岸編~
前回、前々回と大房岬のレポートを続けてきました。今回はお伝えできなかった箇所を紹介します。前々回訪れたモーリー池へ戻り、道なりに進みます。林の中を歩くとほどなく前方に、丘が見えてきます。随分と立派な木がすくすくと育っており、その背後に柵で覆われたコンクリート構造物が見えました。「要塞跡発電所施設」 柵にはそう書いていあります。ここは探照灯用の発電施設がありました。インフォメーションセンターで貰った大房岬戦争遺跡には、50馬力27kwのディーゼル発電機が2基設置されていたとのことです。
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武蔵野の谷戸を貫く4つのトンネル、都内に残る水道局の軽便鉄道~羽村山口軽便鉄道跡その1
都内には道路へと姿を変えた廃線跡がいくつかあります。そのうちの1箇所、西東京の武蔵村山市には、自転車道となった水道局の工事用軽便鉄道、羽村山口軽便鉄道跡が残っています。この工事用軽便鉄道は、西武ドーム付近にある村山貯水池(多摩湖)と、山口貯水池(狭山湖)建設工事の資材運搬や、羽村の多摩川で採取された砂利を運搬する目的で、大正時代中頃から太平洋戦争が激化した1944(昭和19)年まで活躍しました。
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生活道路として現役の「廃」~西東京に残る羽村山口軽便鉄道の廃線跡その2
西東京に残る羽村山口軽便鉄道の廃線跡巡りの後編をお伝えします。前編は横田トンネルを潜ったところで終わりました。それでは、この先に続くトンネル群をレポします。横田トンネルを進みます。直線なので出口の明かりが小さく見え、自転車道として整備されているために照明が等間隔に灯っており、暗くて狭い廃トンネルとは全く異なります。いわば自転車道として「現役」なのです。
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立川基地引込線跡~生活道路となった廃線跡を歩くと公園の中に線路があった~
立川駅の北側は、陸上自衛隊立川基地と昭和記念公園があります。この基地は1922(大正11)年の立川飛行場がルーツで、陸軍飛行場と陸軍航空工廠が設置されていました。航空工廠は飛行機の製造などを手掛ける施設でした。飛行機製造はたいてい各メーカーに委託していましたが、立川では陸軍直轄の飛行機製造工場があったのです。航空工廠が整備され、資材運搬用として軍用線が必要となりました。1943(昭和18)年、立川飛行場付近にある青梅線中神駅から、約2kmの線路を敷設。途中で二手に分岐して基地の北側で荷役する軍用線が誕生しました。
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上陸ツアーで巡る軍艦島。外海から島の外観を愛でる【軍艦島観察記その1】
軍艦島。過去には上陸チャンスがあったけれども行くことはなく“憧れの場所”に行きたい行きたいと、ずっと想いを馳せていた島。この度、やっとのことで軍艦島へ上陸しました。廃墟好きではなくとも、その名を聞いたことがある人は多いことでしょう。インパクトある名は通称で、島名は端島(はしま)といいます。南北480m、東西160m、周囲1200mという小さな島は、良質な石炭が採掘される海底炭鉱がありました。
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軍艦島上陸ツアー、島の外観からいよいよ上陸へ【軍艦島観察記その2】
軍艦島観察記その2です。今回は海から眺める島の外観と、上陸地点のお話です。さっそくスタートしましょう。端島(はしま)は1810年頃から佐賀藩による採炭が行われ、1890年(明治23)から三菱合資会社(当時)による本格的な操業が始まり、端島炭鉱となります。島に坑口があって、竪坑(たてこう)で地下を垂直に降下したあと、約1km南西の三ツ瀬という岩礁まで、海底約1000mも坑道が掘り進まれていました。海底の地下は地熱が酷く、気温は30℃、湿度は90%以上。岩盤浴のような蒸し暑い状況下で採掘する過酷な環境でした。その代わり鉱員の給与は破格の高さで、戦後は一般公務員の手取り月収の10倍もあったとのことです。
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軍艦島の竪坑(たてこう)、護岸を観察する。【軍艦島観察記その3】
前号からちょっと間があきましたが、今回は見学コースをじっくり観察しながら堪能します。で、じっくりすぎてこの号では終わらないという、案の定の展開となってしまいました。今号は護岸の構造までご案内し、次号で本当の〆といたします。第1見学広場でガイドさんのトークに耳を傾けつつ、周囲の遺構が気になって仕方ありません。一人落ち着きなく見学場内をフラフラしていると、次の第2見学広場へ移動となります。見学通路はなるべく遺構に影響のないようコンクリートの小道が整備され、柵で仕切られています。遊園地のアトラクションを見学するような感覚です。
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炭坑施設の建物群と、崩れゆく30号棟【軍艦島観察記・最終回】
軍艦島ツアーのレポートは今回の4回目がラストです。さっそく巡っていきましょう。埋立拡張された護岸の構造を見ながら見学通路を進みます。左手は背丈以上の護岸。右手は鍛治工場、製缶場、坑内機械工場など、炭坑を支える工場の遺構があります。これらの建物群は半ば崩壊しているので、現役のころの全容は想像しにくいですが、2~3階建ての工場であったことが判別できます。コンクリート部分以外は、木造や鉄骨の建屋があったのでしょう。それらはすでに風化して消えています。地面は足の踏み場もないほど瓦礫が散乱しています。風雨などによってここまで瓦礫が散乱しているとなると、自然の猛威はすさまじいと思わずにいられません。
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思い出となったお茶の水橋に現れた過去の都電の軌条
今回は撤去されて思い出となった「廃もの」を紹介します。会いたくても会えない、過去の話です。2019年の終わり、ひとつのニュースがありました。千代田区の中央線御茶ノ水駅に隣接した道路橋の「お茶の水橋」補修工事中、アスファルトを剥がしたら2本のレールと御影石の敷石……。都電の軌条が見つかったのです。都心に突如現れた廃線跡の遺構。しかも何十年もアスファルトで覆われていたため、廃止時のほぼ完璧な姿で現れたというものです。まるで高輪築堤のような状況です。
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欧風の駅舎と保存車両が出迎える終着駅の跡、熱塩駅。旧・日中線の遺構をめぐる~前編~
福島県喜多方市。玄関駅の磐越西線喜多方駅には、昭和59(1984)年まで日中線というローカル線が分岐していました。日中線は喜多方〜熱塩間11.6kmの短い路線で、沿線の足や鉱山の輸送に活躍しましたが、当初6往復あった列車も、昭和40年代には既に朝夕3往復のみの運転というものでした。そのため、鉄道ファンからは「日中に走らない日中線」と言われました。
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ほぼ道路と遊歩道となった11.6kmの廃線跡を辿る。旧・日中線の遺構をめぐる~後編~
前編に引き続き、福島県喜多方市の日中線の跡を辿ります。2020年8月26日の撮影がメインで、秋の写真は2016年12月13日の訪問です。熱塩駅を去る前に、構内はずれでぽつんと立つ一対の踏切警報機の脇へ立ちました。警報器は錆び付き、遮断棒はとうになく、蔦も絡まって使用中止の板が掲げられています。昭和59(1984)年の廃止からずっとこのままであったのでしょう。
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大村湾ののどかな海に点在する旧海軍の遺構。片島魚雷発射試験場跡その1
2022年9月23日、西九州新幹線が開業しました。撮影のため私も九州入りし、せっかくだから廃なるものも見てみようと、新幹線の沿線から近い場所をリサーチしていました。大村湾のネット地図を見ていると川棚町に「片島魚雷発射試験場跡」という文字を発見。関連写真には、海に浮かぶコンクリートの建物。「探信儀領収試験場」という施設です。むむ……。この写真は見たことある。ああ、そうだ。いつか行きたいと思っていた場所だ。
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大村湾ののどかな海に点在する旧海軍の遺構 片島魚雷発射試験場跡その2
前回は射場とポンプ所を中心に巡りました。後編は小山の頂上にある観測所を訪れます。観測所は射場でセットされたテスト魚雷を観測する場所で、発射指示を出して魚雷が発射されると、大村湾の沖合に1000m間隔で設置されたブイを目印にして、そこを通過する魚雷の速度(雷速)を測定したり、雷跡の状態を確認したりと、高所の位置を活かした観測をおこなっていました。
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