弾薬庫は児童遊園施設となり軍用線はアクセス路線となった
今回は前編と後編に分けて、こどもの国線とこどもの国を紹介します。廃なるものと結びつかないように思えますが、こどもの国の前身は『東京陸軍補給廠田奈部隊填薬所』、通称田奈弾薬庫と呼んだ軍の施設でした。田奈弾薬庫は終戦後に米軍の弾薬庫となり、1961年に日本へ返還。その2年前に皇太子殿下(現在の上皇)がご結婚され、その記念事業の一環として、弾薬庫跡を平和利用しようと児童施設、こどもの国として整備されたのです。そのため、園内には弾薬庫の遺構が点在しています。
また、田奈弾薬庫から横浜線経由で砲弾を輸送するため、長津田駅からきつめのカーブで分岐して北上する軍用線が敷設されました。軍用線が整備されたのは1942年頃です。終戦と米軍接収によって軍用線の役目は終え、線路は草生して錆びていきましたが、こどもの国のアクセス路線に最適だとのこと。
単線の線路はそのまま活用して非電化から電化となり、1967(昭和42)年に長津田〜こどもの国間が開業しました。
当初は社会福祉法人こどもの国協会が鉄道施設を保有し、東急が運行していましたが、1997年からは横浜高速鉄道が鉄道施設と車両の保有、東急が運行する路線となっています。途中には東急長津田工場があって、工場の回送列車が運転することもあり、2000年には長津田工場に隣接して恩田駅が開業。
こどもの国へのアクセス路線だけでなく、通勤通学路線としての顔もあります。
なお軍用線は、現在の恩田駅の先で左右へと分岐していました。
田奈弾薬庫へと二手に分かれた線路は、谷戸地形の谷間へと延びていき、それぞれの終点には弾薬を積み込む貨物駅がありました。こどもの国線は左手へ延びていた線路を活用し、右手へ分岐していた線路は遺棄されたのです。この号では、遺棄された線路を“軍用線支線”として表すことにします。
踏切脇にある陸軍の標石は軍用線であった証
こどもの国線の散策は2回目です。以前訪れてから15年以上も経っていますが、記憶を辿りながら、沿線に陸軍の境界標石があったよなぁと、長津田駅西口から住宅地を歩いて線路へ向かいます。
前方に長津田1号踏切が見えました。ちょうどこどもの国行きの『うしでんしゃ』が走り去っていきます。乳牛カラーのY001系を見送ってふと踏切脇に目を向けると、コンクリートらしい棒があるではないか。
「あ、陸軍あった」
私の傍らで誰か聞いていたら、何言ってるんだこの人? と思うだろう(笑)
言葉をはしょりすぎた独り言ですが、陸軍の境界標石が土盛りからニョキっと立っているのが目に入ったのです。
陸軍見つけたのです。
たいていの標石は大部分が土に埋もれていますが、これはかなり地表に出ています。地面からニョキニョキ。まるで筍みたい。いとも簡単に陸軍の標石が見つかりました。
と、定期列車ではない時間に踏切が鳴ります。もしや長津田工場への回送列車では? 案の定そうでした。田園都市線で活躍する10両編成の電車が、キツめのカーブをゆっくり走ってきます。大型車両が車輪を軋ませて走ってくる様は、少々狭苦しそうに感じます。
踏切脇にはいくつか標石がありました。ほとんどが土中に埋もれ、かろうじて陸軍と読める程度でした。標石は線路との境界に沿ってあり、こどもの国線が軍用線であった歴史を静かに語っています。
長津田駅へと戻り、次の電車で恩田駅へと向かいます。駅を発車した直後から車窓を見ていると、点々と標石が確認できました。人様の敷地内がほとんどなのですが、まだまだ陸軍標石が残っているのですね。
踏切には軍用線時代の遺構がしっかりと残されていた
長津田工場が近づいてきて、恩田駅で下車します。奈良川に沿って北上すると、昨今の鉄道路線では見かけなくなってきたコンクリート製の鉄道柵が続きます。矢剣橋の付近で柵が不自然に広がり、単線幅から複線幅となって長津田4号踏切へ至っているのが見えました。
踏切へ行くと、南側には錆きった細いレールが草に埋もれ、北側には短いガーダー橋が見えます。いかにも線路が分岐していた跡。ここも前回訪れていたので「まだ残っていた……」と安堵しました。
廃線跡は十数年も経過すると跡形もなく消え失せる、そんなことはしょっちゅう。踏切脇の遺構は邪魔にならないのか、まだ残されたままで良かったです。
橋桁は枕木の置かれていた跡すらないほど、すっかりと赤錆びており、川縁から育つ樹木に覆われつつあり、夏ともなれば桁は緑へと没してしまいそう。複線幅の橋台は、古さを感じさせる粗目のコンクリートです。
これらの遺構は、こどもの国線内でもっとも残されているものとなります。軍用線時代の鉄道施設は旅客化によって更新され、遺構も宅地化や奈良川の改良で消えていったのです。
分岐点の場所とガーダー橋の位置の謎
ガーダー橋がある付近は、右手へ分かれた軍用線支線の分岐点となります。少し歩くと、再びこどもの国線が奈良川の支流を渡っています。が、橋台は複線幅ではなく単線幅です。ということは、歩いているうちに分岐点を過ぎたのか? しかし古地図を見ると、奈良川支流との位置関係から、川の北側で線路が分岐しています。
戦前戦中の地形図は防諜の意味で意図的に改変されましたが、弾薬庫をぼかさずに線路の位置だけ改変することがあるのかな、いやあったかもなぁ。それに以前訪れたときは、もう一カ所北側の小さな踏切脇で、分岐した線路の一部が埋もれていたのを記憶しています。あれは記憶違いだったのかと不安になり、文明の利器・Google mapの航空写真を見てみると、たしかに小さな踏切脇で右手に分岐する、怪しい道のような空間があるのです。
まだ分岐地点に達していない。先へと進み、小さな踏切脇から斜め方向へと分かれていく、道路のような空間に到着しました。いかにも鉄道の分岐のように、踏切脇からゆるやかなカーブで分かれていく空間があります。うん、ここに違いない。残念ながら、埋もれていた線路はアスファルトで覆われています。ですが、軍用線時代のものと思われる細いレールが、駐車場の柵代わりに使用されていました。
では先ほどのガーダー橋はなんだろう?と、新たな疑問が浮きます。帰宅後に国土地理院『国土変遷アーカイブ』米軍空中写真を凝視すると、ガーダー橋の地点で複線となって、再び渡河する手前で単線となり、川を渡ってすぐ右へと分岐している線形に見えました。
複線のままではなく一旦単線となって分岐するのは、なんか二度手間のように感じます。当初は単線で分岐していたものが、弾薬輸送増強により待避線が必要となり、分岐点手前の敷地で増線したのか、あるいは開通時からそういった線形だったのかと、現場で見た感覚と空中写真から想像しました。
分岐していた支線の終点へ行く
右手へ分岐していた軍用線支線の跡が気になります。もう痕跡は残っていないそうですが、終点までいかないと気になって仕方ない。進んでみましょう。
小さな踏切から分かれる怪しい線路跡の空間は、すぐに道路の信号で途切れてバス停となり、そこでプツっと痕跡は途切れました。バス停の裏手には奈良川が流れており、何か残っているか淡い期待をしたものの、立派な河川工事によって何も残されていません。戦後すぐの米軍撮影空中写真では、蛇行する奈良川を線路が渡る姿が確認取れましたが、川そのものが直線へと大規模に整備されているのです。それは見つかるはずがありません。
ただ、なんとなく住宅地の道路が“鉄道線路らしい緩やかなカーブ”を描いているのです。
長年の勘で、この道が線路跡だろうとニオイました。やがて交通量の多い道路と交差し、反対側に渡ると目の前は丘陵です。これが田奈弾薬庫のあった谷戸地形の端部分となります。右手に駐車場と書かれた看板と小道があって、たぶん支線の跡だろうなと思いました。とは言っても、細い空間があるだけです。
丘陵手前で右へ折れて、生活道路を進みます。すると前方にこどもの国臨時駐車場が見えてきました。そこが支線の終点、弾薬積み込みホームがあった空間です。駐車場は車が6列ほど駐車できる幅があり、長さも数百メートルあります。規模の広い積み込み施設だったと想像できます。
「終戦まで線路がありましたよ。その川の向こうに線路があってね」
近くの農家で菜の花を摘んでいたお婆さんに声をかけると、教えていただきました。たしかに住宅地の合間に小川があります。この川の向こう側が線路だったのか。軍用線の痕跡は残っておらず、駐車場の敷地が物語るだけでした。
こどもの国が開園した直後はこの駐車場はまだ整備されておらず、積み込み施設のホームと屋根が残され、廃止直後の東急玉川線(通称、玉電)の電車が数両置かれていました。その光景はネットでよく見かける写真で、検索するとすぐに出てきます。玉電の車両は再使用されることなく、全て解体されていったようです。
次回はこどもの国へと入園して、弾薬庫を散策します。時間はもうそろそろ夕方、入園時間に間に合うのか……。
取材・文・撮影=吉永陽一