廃墟となった団地群が目の前に広がる。大都会にぽつんと取り残された空間。一部のフェンスは透けて内部が見える。
廃墟となった団地群が目の前に広がる。大都会にぽつんと取り残された空間。一部のフェンスは透けて内部が見える。

この団地群は“都営青山北町アパート”。周囲は最近出来たばかりの洗練されたビルがあちこち建っているのに、目の前の団地群だけが、昭和時代から時が止まっているかのような空間になっているのです。

団地のメインストリートであった道路も行き止まりとなり、路駐スポットとなっている。
団地のメインストリートであった道路も行き止まりとなり、路駐スポットとなっている。

それに団地の周囲は、2mくらいの銀色の工事用フェンスで取り囲まれています。都営青山北町アパートは、すでに全住民が転出し、解体を待つばかりの廃墟となっていました。

先ほど歩いてきたオシャレな街並みとは打って変わって、昭和時代の遺構が解体の時を静かに待っている。いきなり不思議な空間に迷い出た気分で、しばらくの間その場で立ちつくすしかありません。なんだこの空間は……。

周囲には真新しいタワーマンションなどが建ち、路駐の多い道路を隔てて、工事用フェンスで覆われた昭和時代の団地遺構が残され、左右で対照的な姿が広がっています。ああ、カメラを持って来ればよかった。訪れたときはカメラも持っておらず、スマホのカメラ機能しかありません。今回は散歩しながら見つけた「廃もの」として、スマホで撮ったものを紹介しましょう。

左側の植栽されているのは再開発されて真新しい施設となった場所。道路を隔てて対照的な光景が広がっている。
左側の植栽されているのは再開発されて真新しい施設となった場所。道路を隔てて対照的な光景が広がっている。

時刻は17:40。もう暗闇になりつつあるブルーモーメントです。私のAndroidはカメラ機能が時々微妙になりますが、このときは頑張って描写してくれました! 団地遺構を前にして、Androidの小さなレンズはツブサに記録し、ブルーモーメントの僅かな時間帯に、サーモンピンクの壁面が浮かび上がりました。

夕刻の日が沈むわずかな時間に姿を浮かび上がる団地群。墓標のようにも感じてしまう。
夕刻の日が沈むわずかな時間に姿を浮かび上がる団地群。墓標のようにも感じてしまう。

またフェンスは所々透明板となっていて、フェンスの中の様子が克明に見えます。廃墟好きのために用意されたような窓ではないかと嬉しくなりました。もっとも、この透明板は団地内部への侵入者防止のためでしょう。この団地を囲むフェンスは背が高く、要所要所でフェンス内部が見えるようになっています。これだと侵入防止になりますね。

透明板から覗いた都営青山北町アパート敷地内。16号棟と17号棟。人間だけが居なくなって静まり返っている。
透明板から覗いた都営青山北町アパート敷地内。16号棟と17号棟。人間だけが居なくなって静まり返っている。

都営青山北町アパートは、1957年から1968年にかけて整備された都営団地です。団地ができる以前、すなわち戦前は教師を育てる青山師範学校や、旧制中学校などがありました。しかし1945年5月の山の手空襲により学校は焼失。戦後、学校は移転しました。

師範学校時代から残されていたと思しき国旗掲揚塔。
師範学校時代から残されていたと思しき国旗掲揚塔。

戦後すぐの米軍撮影航空写真を見ると、学校跡地には長細い建物と小さな建物が等間隔で並んでいます。詳細は分かりませんが、何がしらの集合住宅と見受けられます。やがて1960年代前半の航空写真では、長細い建物群は既に取り壊され、同じ場所に真新しい団地がズラッと並んでいるのです。都営青山北町アパートです。

都営青山北町アパートは中心に道路があって、左右に10数棟の団地が並び、合計25棟586戸の団地となりました。そして平成の中頃、都営青山北町アパートは“北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト”として再開発され、団地群は高層化されることになったのです。

そう、先ほど見た真新しいタワーマンションは、先に再開発されたエリアだったのです。いま目の前でフェンスに囲まれている団地群はこれから解体され、新たに高層化されることとなります。

都営青山北町アパートの周囲は小道になっているので、グルっと観察することが可能。
都営青山北町アパートの周囲は小道になっているので、グルっと観察することが可能。
北青山三丁目緑地から見た22号棟。
北青山三丁目緑地から見た22号棟。

後日、再びフラッと都営青山北町アパートの廃墟へ訪れました。今度は日中でしたが、相変わらずカメラを持っていなかったので、またもやスマホです。フェンスに囲まれた外周は小道になっているので、容易に近づいて観察できます。

透明板から覗いた21号棟。周囲のビル群とのギャップが……。
透明板から覗いた21号棟。周囲のビル群とのギャップが……。
このように要所要所で内部が見られる。
このように要所要所で内部が見られる。
手前が21号棟で奥が19号棟。
手前が21号棟で奥が19号棟。
北青山三丁目緑地と22号棟。静まり返っていたのでゴーストタウンのようだった。
北青山三丁目緑地と22号棟。静まり返っていたのでゴーストタウンのようだった。

変化著しい大都会のど真ん中で、ポカンと時代に取り残された広い空間を見ていると、90年代によく見た、これから大規模再開発がされる直前の都会の街の姿と重なってきます。戦後高度成長期や戦前から残ってきたエリアが、すっぽりとフェンスで囲まれて消える直前の、なんとも言えない時代の止まった空気感。それが、令和となった今の表参道駅至近で見られるとは。

団地を囲むフェンスの壁ができていて、90年代の大規模再開発のエリアを思い出した。
団地を囲むフェンスの壁ができていて、90年代の大規模再開発のエリアを思い出した。

もうしばらくしたら、この団地群も解体が始まると思います。解体されることが分かっている廃墟というのは、より一層儚さがあります。近いうちにちゃんとカメラを持っていこう……。

写真・文=吉永陽一

全国津々、廃線跡はたくさんあります。道路になった場所もあれば、人を寄せ付けない山中にひっそりと存在する場所もあって、廃線跡と言ってもその形態は千差万別です。私はまだ訪れていない廃線跡も多々ありますが、いままで出会ってきたなかで、これは聖地に値するなというところがあります。川越市にある、西武安比奈線です。今回はボリュームも多めに、二回に分けて紹介します。
掩体(えんたい)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。掩体とは、ざっくり言うと敵弾から守る設備のことです。大小様々な掩体があり、とくに航空機を守ったり秘匿したりするのには「掩体壕」というものがあります。これは航空機をすっぽりと覆う、大型の設備です。掩体壕はカマボコ屋根状のコンクリート製が多く、屋根の上に草木を生やして偽装する場合もあります。かつて、旧・陸海軍の基地周囲にはたいてい掩体壕が存在しました。戦後、掩体壕は解体されていきますが、元来空爆などから身を守る設備であるため解体しづらく、そのまま放置されて倉庫となるケースもあります。そして、掩体壕は東京都内にも存在しています。場所は調布市。調布飛行場の周囲に数カ所点在しているのです。
今から30数年前の東京臨海部。倉庫群の脇に線路があるのを見たことがあります。何の線路か分からなかったのですが、後に東京湾の埋立地を結ぶ貨物線だと知りました。戦後の高度成長期、東京湾の臨海部には貨物線が張り巡らされていました。この貨物線は「東京都港湾局専用線」。最盛期の1960年代には、汐留〜芝浦埠頭・日の出埠頭(芝浦線、日の出線)、汐留〜築地市場、越中島〜豊洲埠頭・晴海埠頭(深川線、晴海線)を結び、臨海部の貨物線網が形成されていました。その路線群はトラック輸送にバトンタッチして昭和末期に使命を終え、1989年には全面廃止。1990年代に入ると線路のほとんどが剥がされていきました。
東京都北区の京浜東北線王子駅は、地下鉄南北線と都電の乗り換えだけでなく、東北・上越新幹線の高架橋がそびえ、東北本線(宇都宮線)の線路が並んでいます。常に電車が行き交うにぎやかな走行音が響き、ちょっとした鉄道スポットでもあります。王子駅を北側に歩きます。頭上に聳えるのは新幹線高架橋で、前方に長い跨線橋が見えてきました。跨線橋の階段を上がると、母親と一緒の男の子が欄干にかじりついて電車を見下ろしています。ああ、かつての私もこうだったなどと、目を細めるひととき。でも男の子は、ずらっと並ぶ東北本線と京浜東北線の線路の端っこ、新幹線高架橋の真下に、赤錆びた線路があることには気がついていないかもしれません。