どこかで見たことがある海上廃墟は魚雷発射試験場跡
早岐で一泊し、レンタカーで片島へ向かいます。大村湾は閉鎖性海域と言われ、佐世保湾に隣接しているものの、西海市の針尾瀬戸、早岐駅前の早岐瀬戸のみが外洋と繋がって、まるで湖のように穏やかな湾です。訪れた日は夏日でしたが、大村湾は陽光が降り注いで青々とした海原が静かに波を立てていました。防波堤に座って佇んでいたい、そんな陽気のいい日です。
穏やかな大村湾は鎮守府の置かれた佐世保にも近く、旧海軍の施設が点在していました。今回目的地の魚雷発射試験場は、佐世保海軍工廠などで製造された魚雷を海軍へ納品する前に性能試験を行う施設で、大正7年(1918)に片島という小島に設けられ、昭和17年(1942)に埋め立てられて陸続きとなった場所です。現在はいくつかの遺構が点在し、平成27年(2015)に川棚町が片島公園として整備して、駐車場や遊歩道も設置しました。藪漕ぎの必要もない、手軽に訪れられる遺構です。検索すると、川棚町のホームページにも載っており、史跡として定着した感はありますね。
公園となった試験場跡に踏み入れるといきなり遺構が!
国道205号線から片島へ。海蝕崖を下り、平坦な土地の集落を抜けます。この辺りが戦時中に埋め立てられた場所か。前方にこんもりとした小山が見えてきます。片島です。あそこに遺構が点在しているのか。心がうずうずしてきます。
海沿いの指定駐車場に車を止め、いったん町並みを抜けて漁師町を散策。朝の清々しい空気と穏やかな海が素晴らしいです。片島公園の入り口に立つと「公園内での釣り禁止」看板の向こうに塔屋が見えますね。これが「射場」と呼ばれる遺構です。海と塔のコントラストが眩(まばゆ)い。なんともフォトジェニック。遠くに見える遺構を前に浮き足立って、ついつい小走りになります。落ち着け自分。
と、左手に現るは石積みの2階建て建屋。
おおっ……!
「空気圧縮ポンプ所」の遺構です。こちらは逆光ながら背後が森で、しかも屋根がなく、あろうことか建物内に大樹へと育ちつつある木が鎮座しているではないか。枝葉は青々として、たいそう元気な木です。
右を振り向けば穏やかな湾に3階建ての射場が浮かぶように聳え、堤防と思ったのは塔屋へ至る桟橋であり、アーチ場の構造となっています。
右に左にと、いきなり素晴らしい遺構が現れ、過呼吸気味です。
遺構に挟まれた空間に立っていると、江戸川乱歩の小説に出てきそうな無人島の廃墟にも見え、だんだんと妄想が膨らんできます。
いろんなシーンが浮かび上がってきますが、さてさてどうしよう。
あまりにも素晴らしいロケーションと、いかにも廃墟らしい理想的な朽ち加減を前にして悩み始めました。
“ここは廃墟に撮らされてしまう場所だ”と。
長年廃墟を撮影してくると、廃墟に撮らされてしまうときがあります。このように立派な遺構はそれ自体の主張が強く、漠然とレンズを向けたら遺構のフォルムに吸い込まれるような、自分自身の想いが負けて遺構に踊らされてしまうような……。
出来上がった写真には自分の魂や想いが入ってなく、“ただ単に廃墟を撮っただけ”になってしまうのです。
撮影者によりますが、私の場合はそうなんです。なので、時間をかけて遺構を見つめ、それからシャッターを切らないといけません。(主観です)
ポンプ所と射場の遺構だけでも眼福になるロケーション
まずは便利なスマホのカメラでパシャパシャと、周囲を散策しながら巡ります。空気圧縮ポンプ場は、裏手の部屋も木々が茂っていました。やはりここもか……。
ポンプ所は2階建て構造でしたが、もともと2階部分があったのか疑問です。というのも壁面に床面を支えていた痕跡が見当たらず、ポンプ所であったことから巨大な機械が設置されていたのだろうなと想像しました。建物は大正6(1917)年竣工で、当初は機械場及び水雷調整場でした。巨大機器が並ぶ機械室だったのでしょう。
ポンプ所の周囲は遺構が点在しています。裏手は「第二魚雷調整場」、建物正面から向かって右隣は「冷却水槽跡」、左隣は「第一魚雷調整場跡」。戦後しばらくまでは建屋がありましたが、すでに解体されています。ここまで細かく分かるのは、川棚町が戦跡案内のガイドマップを作成しているからで、目の前の遺構がどういう施設だったのか判別できて便利です。
次は海にそびえる射場を見ましょう。大正時代に竣工した施設は一部が崩落しているものの、アーチ桟橋はしっかりと残っています。発射試験を行うとき、魚雷は桟橋を伝って運ばれ、塔屋のある場所でクレーンに懸架されて海中に沈ませ、発射準備を整えたのちに発射。雷速測定や雷跡追跡、魚雷が逸脱しないかなどチェックをしました。
この場所に試験場が設置されたのは、佐世保鎮守府に近かっただけでなく、閉鎖性海域の大村湾は穏やかで、なおかつ水深も確保できたからだそうです。
桟橋は線路みたいな溝が複線で掘られていますね。この溝に魚雷を載せた台座(トロッコ?)を転がしたのでしょう。
途中でポイントみたいに溝が片分岐していて、鉄分の多い私はそれだけで興奮してしまいます。ただし足元はゴツゴツしているので、つまづいて海の中へドボン……とならないように。
塔屋が気になります。中はどうなっているのだろう? しかしながら桟橋の先は崩落している箇所もあって、立入禁止の看板がどんと構えています。その先へ行きたい気持ちはありますが、遺構保全と自身の安全のためにも遠くから拝む程度に留めておきましょう。
それにしても、外観を見るだけでも絵になりますね。ちょうど休日であったため、湾内はヨットやパドルボートを操る人々が行き交っています。それに昼間になるにつれて戦跡巡りの観光客が次々と散策しに来ていました。家族連れのお子さんや友達同士がポンプ所内のシンボリックな木の前でモデルになったり、家族で遺構のいわれを学びながら巡ったりと、和気あいあいな空気に包まれていました。
のどかな時間の流れる湾内の遺構は、70数年前まで数々の魚雷が発射された場所。現在と過去のコントラストが強く、ずっしりとくるようなものを感じました。
魚雷発射試験場の遺構はまだ続きますが、ここで気になっていた海中に浮かぶ遺構「探信儀領収試験場」について注意があります。
今回の最大の目的でありましたが、現地へ行くと手前に立入禁止の看板があります。川棚町へ確認すると、「法面が崩れる恐れがあるため、当分の間立入禁止となりました」とのことで、復旧がいつになるかも現段階では分からないそうです。
事故があってはいけないので、残念ですが遠くから眺めるだけにしましょう。訪れる際はお気をつけください。
次は小山の上の観測所をお伝えします。
取材・文・撮影=吉永陽一