今月14日は鉄道の日です。1872(明治5)年に日本初の鉄道が開通してから149年目となり、来年は150周年となります。前回「廃もの」横浜空撮編では「次回も空撮で」と紹介しましたが、ちょうど「高輪築堤」の見学会に参加する機会がありましたので、その模様を先にお伝えします。今回は前置きが長いです(笑)高輪築堤とは、この数年で注目されている鉄道遺構です。2021年は日本初の鉄道が新橋〜横浜間を結んで開通するとき、品川付近は陸ではなく海上に築堤を築きました。その海上築堤の遺構のことを指します。田町〜品川間の旧車両基地と山手線・京浜東北線の線路跡地再開発中、線路跡地を掘ったら海上築堤と石垣がほぼ完璧な姿で現れたニュースは、人々の注目を浴びることになりました。2019年に最初の確認がされてから、もう2年前近くになります。
高輪築堤見学会レポ2回目は、信号機跡と築堤構造細見です。では、高輪ゲートウェイ駅目の前で発掘された、信号機跡の土台を含む築堤部分を見ましょう。信号機跡はニュースにもなったので記憶ある方も多いかと思います。信号機跡部分の長さ30mは、第一京浜沿いに移築保存されることになりました。信号機跡はまだナンバリングだけで発掘状態のままです。築堤から少し迫り出した、城の見張り台のような感じになっています。

★出土品★

いままでの見学会では、ご覧のように生活品や茶瓶などが出土されたようですが、今回はなんと!双頭レールと枕木が出土されました。見つかったのは3線化工事で拡幅した箇所で、もう要らないからと拡幅中の工事現場に捨てたのではないかと。こんなデカイものも捨てられていたのか…  現代だったら大問題ですよね。

双頭レールは160cmくらいの長さ。枕木にはチェアもしっかりと固定されていた。

工事関係者が捨ててくれたおかげなのか、双頭レールと枕木は明治30年代当時のままの姿で現れました。双頭レールとは馴染みないですが、レール断面が大文字の「I」の字に似ており、片方の車輪設置面が減ったらひっくり返してまた使えるという構造です。日本では普及しませんでした。本線では明治5年〜10年までの5年間しか使用されず、明治10年頃からは馴染みのある平底レールが主流になりました。双頭レールは明治30年代まで、側線など脇役となっていました。

出土した双頭レールを拡大する。片方の車輪設置面がすり減ったら、反対側の面にひっくり返して使える構造のレールであった。2つの穴はレール同士を繋げる部分。レール断面は一部が破断しているように見えた。今後付着した土砂を除去するという。

双頭レールを枕木に設置する際は、チェアと呼ぶ専用の器具が必要です。写真のようなゴツい鉄の塊で、隙間にレールを挟んで、隙間を木の端材で押し込みレールを固定。チェアはリベットのような鉄杭を打ち、そのままだとグラつくため、チェアと枕木を何かの接着剤で止めていたそうです。

これがチェア。日本では双頭レールは見かけなので、見慣れない設備である。この隙間に双頭レールを差し込み、隙間に木の端材を入れて固定する。

今回の出土では、その接着剤まで付着していたため、当時の保線作業の研究には大いに役に立ちます。たしかに接着剤っぽい、モルタルっぽい何かがチェアと枕木設置部に塗布されていますね。これは逆に手間であったのではないかと思いますが……。

この接着剤の塗布された枕木部分は初見なのですが、古写真にそんなもの写っていたのかなと、書物にある明治初期の鉄道写真を見直しました。すると、枕木部分がバラスト(砂利)で被されており、僅かにレールが頭を出している状態でした。これではチェアと枕木が接着剤で固着されていたのか、窺い知ることができません。接着剤が残されていたのは大変貴重なことです。

出土した枕木とチェア部分を観察。たしかにチェアには接着剤のようなもので盛られているような… 港区教育委員会の今後の調査に期待している。

見学時間はあっという間に過ぎて、退出時間となりました。最後に撤去した石垣の行く末が気になるところですが、現段階では廃棄しておらず保管し、今後どうするのか関係各所と協議していくとのことです。また一部の石垣は、築堤整備を英断した大隈重信の郷里・佐賀県で保存されます。つい最近の報道によると、佐賀城公園内の県立美術館に石垣を復元展示するとのことです。

北工区と呼ばれた田町側の高輪築堤は、札の辻陸橋付近で山手線と京浜東北線の線路へと吸収されていきます。すなわち、電車が走る地中には、まだ築堤が埋まっているのではないかと、私は推測しています。

明治11年内務省地理局作成「実測東京全図」によると、築堤は田町駅の先まで築かれたから、高輪と同じ工程で埋立て事業を行ったというならば、石垣が残った状態で埋まっていることになります。もっとも、この150年間の間に、線路敷きの地中工事をしていなければの話ですが。

高輪築堤は再開発の工事現場の只中にあり、ヘルメット着用など参加者にも順守事項があり、また一度に大勢が見学できる状況ではありません。が、港区は今後も発掘調査を続けながら、見学会などで明治初めの偉業を紹介していきたいとのことです。

なお港区では公式YouTubeで『明治初期の鉄道遺構「高輪築堤」から日本の近代化を学ぶ』を公開しており、小中学生向けの説明ながら大変分かりやすく高輪築堤の概要を学べます。「第七橋梁」の映像も出てくるだけでなく、以前紹介した「行灯殺し」ガードの生い立ちも少し触れられています。

余談ですが、行灯殺しガードは水路跡を転用したものでしたが、「第七橋梁」の水路を埋め立てた代わりに整備されたもので、鉄道開通の頃から存在したものではないことが判明しました。 私が行灯殺しガードの回で「明治初期からの遺構だろうか」と観察した橋台などは、大正期に整備されたものだったということになります。

品川駅から続いた海上の築堤の全容は、まだ解明されていません。埋まっている箇所はどんな状態なのか、レールみたいな大きな遺構が出土するのか、大変気になります。今後も高輪築堤に目が離せません。

再開発たけなわの高輪ゲートウェイ駅付近に、通称“行灯殺しのガード”または“首曲がりトンネル”あるいは“おばけトンネル”と呼ばれる、大層古いガードがあります。品川地区が再開発される前、品川〜田町間が車両基地で埋め尽くされていた時代には既に存在し、高さはなんと約170cm、長さは約220mという、洞窟のように大変低くて長いガードです。
やがてここもビル街となる予定だ。ナンバリングされた石垣が令和の東京を見つめているような気がした。

取材・文・撮影=吉永陽一