吉永陽一(よしながよういち)
生まれも育ちも東京都だが大阪芸術大学写真学科卒業。空撮を扱う会社にて空撮キャリアを積み、長年の憧れであった鉄道空撮に取り組む。個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真を発表。「空鉄」で注目を集める。ライフワークは鉄道空撮、6x6や4x5の鉄道情景や廃墟である。2018年4月、フジフイルムスクエアにて個展「いきづかい」を開催。2020年8月、渋谷にて個展「空鉄 うつろい 渋谷駅10年間の上空観察」を開催。
2012年9月に撮影した“高輪橋架道橋”。上には山手線と京浜東北線の線路があった。

“行灯殺しのガード”の現状

正式名称は“高輪橋架道橋”。“行灯殺しのガード”や“首曲がりトンネル”など、ギョッとする渾名の由来は、タクシーの行灯が擦れて壊れるほど、または身長の高い人は首を垂れないと頭頂部がガード天井にぶつかるほど低い。そんな状況から名づけられました。

制限高1.5mの空間をタクシーがいく。2012年9月撮影。

“高輪橋架道橋”は、泉岳寺・高輪エリアと港南エリアを結ぶ最短ルートで、車の抜け道ルートとして重宝され、タクシー会社の中には行灯を低く製作して、“高輪橋架道橋”通過仕様にした車もあったほど。低くて長いガードは薄暗く、天井スレスレに車が走り、高身長の人は首を垂れて歩く。そんなスリリングな光景はいつしか高輪名物となり、わざわざこのガードへ訪れる人も現れました。一種の観光地みたいなものですね。

地形好きなど数十人で“高輪橋架道橋”を訪れたときの一コマ。“高輪橋架道橋”の真上は京浜東北線北行のオーバークロス高架橋もある。2012年9月撮影。
“高輪橋架道橋”泉岳寺側は第一京浜から曲がる。現在は車両通行禁止のためバリケードがある。2021年2月撮影。

広大な車両基地は廃止となり、跡地は再開発され、“高輪橋架道橋”も段階的に廃止されることになります。2020年4月12日からは車両通行禁止となり、車が通行できる道路としては役目を終えました。車両通行禁止となった日からは、歩道として継続使用されています。ただ、数年後には近接して新たなガードを新設されるため、“行灯殺しのガード”と呼ばれたガードも、余命僅かばかりとなりそうです。

近い将来は“高輪橋架道橋”も新たな道路として生まれ変わる。工事看板に記載されている。2021年2月撮影。

道路としては終了したが廃道ではない。歩道としては現役である。前回の国道駅に引き続き今回も純然たる「廃もの」ではない物件ですが、2019年11月15日に線路が付け替えられた山手線と京浜東北線の橋台跡が観察できるので、廃ものとして紹介します。

泉岳寺側よりスタート。再開発地区のため道路両サイドは工事用の覆いがされている。2021年2月撮影。
ガードへ潜ろうとしたら頭上を羽田空港へ着陸する旅客機が現れた。2021年2月撮影。
現在の“高輪橋架道橋”の姿。2012年9月撮影とほぼ同アングル。2021年2月撮影。

天井が無くなって青空が見えるガード

さっそく“高輪橋架道橋”の泉岳寺側へ到着してみると、ちょっと前まであった重々しい洞窟のような低いガード入り口は無く、現在は青空が広がる清々しい空間となっています。ガードの真上にあった線路が撤去されているのです。あの洞窟のような入り口は何処へ… 天井が無くなってガラッと雰囲気が変わり、なんか塹壕にいるような不思議な感覚です。

山手線の線路と京浜東北線のオーバークロス高架橋が撤去されて、随分と開放的な空間となった。2021年2月撮影。
両サイドの橋台は残存している。2021年2月撮影。

変化したとはいえ、左右の壁になっていた橋台は残存し、石積みや古めかしいコンクリート橋台の形状はそのままです。残っていて良かった。ここもそのうち撤去されていきますが、歩道として通行できるうちは観察できます。

山手線が真上にあったときは気がつかなかったが、古レールで組まれた構造物が露出していた。おそらく線路脇にあった作業用通路の支柱だと思う。2021年2月撮影。
橋台部分に残された注意書き。2021年2月撮影。
山手線の橋台部分は石垣である。右側のコンクリートは京浜東北線高架橋の橋台。2021年2月撮影。
2021年2月の“高輪橋架道橋”の姿。また羽田空港への着陸機が現れた。
2012年9月の“高輪橋架道橋”の姿。古レール支柱の端の部分が見える。こんなに変化した。変わらないのはYAMAHA看板。
先を進む。この先は車両基地があった。いまは再開発地区で空き地だ。2021年2月撮影。

先を進むと、一部分の天井は撤去されているものの、まだ低い洞窟のようなガードは健在で、進むにつれて天井が低くなっていくような感覚になりつつ、幾多のタクシーや車が付けたと推測できる天井の傷も判別でき、「都心の一等地にあった自動車の難所だったんだなぁ」と、傷を眺めながらしみじみ思うのです。

天井がある場所から泉岳寺側を振り返る。2021年2月撮影。
親子連れがいる場所は車道であった。2021年2月撮影。
工事中のため警備員が立って警備している。2021年2月撮影。
自転車は乗らずに押して歩くことになっている。天井部分には擦った傷が多かった。2021年2月撮影。
港南側に出る。この付近は車道が無くなった以外あまり変化なし。2021年2月撮影。
港南側の出入り口。ガードというより洞窟の入り口である。2021年2月撮影。

ということで、約220mの“行灯殺しのガード”散策は、あっという間に港南側へ出て終了です。あっけない(笑)。

ですがこのガード、道路となる前は水路だったのです。言われてみれば高さも低く、なるほど水路の名残はありますね。そこで再び泉岳寺側へ戻ります。旧山手線があった場所へ戻り、品川方面の橋台を見ると、金網越しに水路が望めます。そう、橋台の隣は水路が現役なのです。天井が無くなったおかげで、水路と道路の間は橋台で隔てられているのが、なんとなく分かります。

金網越しから水路を覗く。この部分は以前から覗けたが、左の部分は暗渠になっていた。2021年2月撮影。
写真中心部の橋台の右側部分が水路となっている。2021年2月撮影。

ガードが道路として使用開始されたのは、大正時代のことです。それ以前は道路部分も水路で、船の航行のために整備されました。「はて、地上なのに船?海だったの?」 はい、第一京浜道路より東側は、東京湾だったのです。明治初めまでは第一京浜の辺りが海岸線でした。

鉄道開通のため海上に築堤が造られた

海が埋め立てられるきっかけは鉄道です。日本初の鉄道を建設する際、本来は海岸線に沿って線路を敷設したいが、東海道沿いのために用地買収が困難であり、軍の施設があって測量すら出来ません。そこで陸上の敷設は諦め、海上に築堤を築いて線路を通すこととなり、明治3年(1870)より工事が開始されました。築堤用の土砂は、近隣の八ツ山や御殿山を切り崩して使用し、石垣の中には江戸末期に築かれた“お台場”のものなども転用されました。

海上築堤は2年の歳月で完成し、明治5年(1872)に鉄道が開通。汽笛一声の陸蒸気とともに、築堤も錦絵に描かれています。

先ほどの水路が望める場所。ここは明治初期の水路の名残だった。右の古い石垣は海岸線の名残だろうか? 船が航行するには狭いので、写真左のコンクリート部分は山手線のために増設したものと推理する。2021年2月撮影。

海上に築いた築堤は船が通れるように、数カ所の水路が設置されました。そのうちの一ヶ所がこの“高輪橋架道橋”です。なるほど、ここは日本初の鉄道の築堤に造られた水路跡であり、いま立っている場所はかつて海だったわけだ。“行灯殺し”から、何か壮大なスケールの話になってきたぞ。そろそろ纏めないとややこしいことになりそうな予感。

いやいや、話はここで終わりません。海上の築堤は埋立地増設のため消え、ここを除いた他の水路は埋め立てられ、人々の記憶から遠ざかりました。築堤は埋め立て時に取り壊したのだろうと、たぶん、なんとなくそう伝わっていったのだと思います。明治後期から大正、昭和と、埋立地が造成されていくたびに鉄道敷地は広くなり、汽笛一声の線路があった場所は、いつしか山手線や京浜東北線が走る場所となりました。

山手線の線路を剥がすと現れた高輪築堤

しかし、その山手線の線路を剥がすと、石垣が地中から現れたのです。しかも、築堤がほぼそのままの形状で掘り起こされました。取り壊されたわけではなく、そのまま土に埋もれたのです。

この海上築堤は“高輪築堤”と呼ばれて、現在も発掘作業中です。その中には水路の跡と橋台も発掘され、橋台の石垣の形状から、当初は複線規格だったものが後に増線して三線となり、橋台の増設部分も判別できています。石垣の状態もよく、波から築堤を守る杭も存在したままでした。明治初期の土木技術で造られた築堤が、令和になって誕生した高輪ゲートウェイ駅の目の前に現れたのは、本当に不思議なことです。

高輪ゲートウェイ駅改札外から“高輪築堤”をみる。ショベルカーのアーム部分にうっすらとグレー色の石垣が見えるはず……。2021年2月撮影。

“高輪築堤”は百数十年も地中で眠り、全然気がつかなかったと、誰もがそう思っていることでしょう。でも、ちょっと思い返してみてください。今さっき観察した“高輪橋架道橋”は、“高輪築堤”の水路のひとつだったのです。道路の姿が当たり前だったので気がつきませんでしたが、ずっと前から身近に“高輪築堤”の存在を匂わせていたことにもなります。

旧山手線の橋台跡をもう一度観察してみました。たしかに石積みではあるけれども、これが明治初めから存在したのかはちょっと疑問が残ります。もしも石垣が“高輪築堤”の時代からのものだったとしたら、それは驚くべきことです。そうだったら、我々はガードを通るたびに、明治初めの石垣に触れていたのですから。実際、この石垣はどうなんでしょう?

もう一度“高輪橋架道橋”の山手線と京浜東北線の橋台部。写真右の石垣がアヤシイ……。2021年2月撮影。
上写真の石垣部分をアップで。うーん、明治初期からの石垣かなぁ? 奥は石垣かブロック塀か判別できない。2021年2月撮影。

“高輪築堤”は再開発地区に存在するため、気軽に見ることができません。高輪ゲートウェイ駅から京浜東北線の北行へ乗車し、左側のドアに立って外を見てください。山手線を高架橋でオーバークロスするとき、工事現場にチラッと石垣が見えます。それが“高輪築堤”の石垣です。

京浜東北線北行の車中から。手前の高架橋の壁付近に石垣がみえる。それが“高輪築堤”の石垣だ。2021年2月撮影。

“高輪築堤”は日本初の鉄道の遺構であり、明治初期の土木構造物が、完璧に近い形で出土されました。ただし場所が再開発地区のためにどこまで保存されるか、現段階では分かりません。

イチ鉄道ファンとしては、新たな街区と築堤がうまく調和できたら… 例えば、令和に誕生した高輪ゲートウェイ駅を降りたら、明治初めの鉄道遺構に触れられるという、歴史を感じさせられるように保存されたらなと願っています。

<おまけ>

最後に、地上からの写真だけでは分かりづらいので、私の本業である空撮写真で“高輪築堤”と“高輪橋架道橋”部分の空撮をお見せします。2020年12月11日に空撮しました。現在はもうちょっと発掘作業が進んでいるはずです。築堤は、空撮でないと判別できない究極の「廃もの」ですね。どうぞご覧ください。

品川駅から高輪ゲートウェイ駅方向をみる。“高輪築堤”は一直線に並ぶビル群の右脇に存在している。堀状になっているのが築堤発掘現場。
品川駅は手前。京急電車の右隣に築堤が埋まっている。赤白色の大型クレーンの近くでも発掘調査をしている。
上記写真の発掘現場。層になっている部分に石垣が埋まっている。
高輪ゲートウェイ駅の隣で発掘作業が進む。令和になって誕生した駅のすぐ隣には日本初の鉄道の遺構が出土されているのだ。この一枚には明治から令和までの鉄道の歴史が凝縮されている。
高輪ゲートウェイ駅の隣にある“高輪築堤”の石垣。
上よりちょっと引いたカット。
発掘された水路と橋台部分。“第七橋梁”とのこと。
“第七橋梁”を泉岳寺側からみる。ショベルカーがいる側に増線して3線となった。よく見ると、橋台部分は増設したのが判別できる。石垣脇にポツポツとある杭は、築堤が波でさらわれないための防止策。
“第七築堤”は高輪ゲートウェイ駅の北側にある。写真右の水路は、今回紹介した“高輪橋架道橋”部分だ。
“高輪橋架道橋”と築堤の位置関係が一目瞭然。山手線の橋台のすぐ隣には築堤が発掘されている。この部分は”第二東西連絡道路”という新たなガードが造られる予定。そのためなのか、一部の石垣は撤去されている模様だ。発掘調査が終了して工事に入ったのだろうか。
“高輪橋架道橋”の北側に続く築堤石垣。
京浜東北線の高架部分から望めるのはこの辺り。田町駅寄りである。
田町駅からみた“高輪築堤”。築堤は品川駅から田町駅付近まで続いている。写真中心より上に写る道路のすぐ近くに“第七橋梁”があり、写真中心に“高輪橋架道橋”がある。再開発の予定図と照らせ合わせると築堤部分は道路予定地になりそうだが、どこまで保存されるのか今後の推移に注目である。

写真・文=吉永陽一

掩体(えんたい)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。掩体とは、ざっくり言うと敵弾から守る設備のことです。大小様々な掩体があり、とくに航空機を守ったり秘匿したりするのには「掩体壕」というものがあります。これは航空機をすっぽりと覆う、大型の設備です。掩体壕はカマボコ屋根状のコンクリート製が多く、屋根の上に草木を生やして偽装する場合もあります。かつて、旧・陸海軍の基地周囲にはたいてい掩体壕が存在しました。戦後、掩体壕は解体されていきますが、元来空爆などから身を守る設備であるため解体しづらく、そのまま放置されて倉庫となるケースもあります。そして、掩体壕は東京都内にも存在しています。場所は調布市。調布飛行場の周囲に数カ所点在しているのです。
全国津々、廃線跡はたくさんあります。道路になった場所もあれば、人を寄せ付けない山中にひっそりと存在する場所もあって、廃線跡と言ってもその形態は千差万別です。私はまだ訪れていない廃線跡も多々ありますが、いままで出会ってきたなかで、これは聖地に値するなというところがあります。川越市にある、西武安比奈線です。今回はボリュームも多めに、二回に分けて紹介します。
今から30数年前の東京臨海部。倉庫群の脇に線路があるのを見たことがあります。何の線路か分からなかったのですが、後に東京湾の埋立地を結ぶ貨物線だと知りました。戦後の高度成長期、東京湾の臨海部には貨物線が張り巡らされていました。この貨物線は「東京都港湾局専用線」。最盛期の1960年代には、汐留〜芝浦埠頭・日の出埠頭(芝浦線、日の出線)、汐留〜築地市場、越中島〜豊洲埠頭・晴海埠頭(深川線、晴海線)を結び、臨海部の貨物線網が形成されていました。その路線群はトラック輸送にバトンタッチして昭和末期に使命を終え、1989年には全面廃止。1990年代に入ると線路のほとんどが剥がされていきました。