明けましておめでとうございます。2023年も、“廃なるものを求めて”をよろしくお願いいたします。年末の廃なるもの記事UPから、あっという間に年明けとなりました。新年の2回はちょっと豪華に空撮で捉えた廃なるものをお伝えします。私、吉永陽一の本業は空撮であり、ライフワークの鉄道空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しています。空撮はドローンではなく小型機やヘリコプターに搭乗して撮る方法で、2004年に空撮の会社に入って飛び始めてから、今年で19年となります。長年空撮していると廃墟や廃線跡にも出合うことがあり、その中から2ヶ所の廃トンネルを前後編で紹介します。

東海道本線の明治期のトンネルが海岸へと崩壊する

大崩海岸は山々が駿河湾へと迫り出している。昭和期の土木技術発展で内陸側に長いトンネルが掘削されたが、明治時代は海岸線ギリギリにトンネルと線路を敷設せざるを得なかった。出典:国土地理院電子国土WEB。
大崩海岸は山々が駿河湾へと迫り出している。昭和期の土木技術発展で内陸側に長いトンネルが掘削されたが、明治時代は海岸線ギリギリにトンネルと線路を敷設せざるを得なかった。出典:国土地理院電子国土WEB。

私は毎年静岡県を空撮する業務があり、大崩海岸付近へ飛行することもありますが、石部トンネルを間近で撮影する機会は2016年の一度だけでした。というのも、大崩海岸より西側の焼津市内は自衛隊静浜基地の管制圏で、この圏内は許可なく飛行できないルールとなっています。(基地、空港などは軍民問わず管制圏というエリアがある)

圏内を飛行する事前申請と、管制官の許可が無いと飛べないため、用事がなければこのエリアを迂回して飛行します。石部トンネルは許可を得たときのわずかな時間で撮影しました。

北東方向から見た大崩海岸。山塊が海岸線ギリギリに迫り出している。写真右下付近に石部トンネル旧西側坑門がある。東海道本線は崖にへばりつくように線路があった。2016/11/30撮影。
北東方向から見た大崩海岸。山塊が海岸線ギリギリに迫り出している。写真右下付近に石部トンネル旧西側坑門がある。東海道本線は崖にへばりつくように線路があった。2016/11/30撮影。

大崩海岸は静岡市の安倍川の西側に位置し、高草山や日本坂峠のある山々が駿河湾まで迫り出す地形です。静岡市内と焼津市内との間に山々が迫り出しているため古来より難所で、海岸部は急峻な崖。国土地理院地形図を見ると、周囲は開けているのに「なぜここだけ?」と思うほど、大崩海岸部分は等高線が詰まっています。その名称からして崩落が絶えず、実際に海岸線沿いを縫う県道416号線(旧国道150号線)は、過去に崖崩れによって車が巻き込まれる死亡事故が発生してしまいました。

用宗駅側から大崩海岸を望む。貨物列車と東海道新幹線の列車が走っている。海中に飛び出た道路は、かつて崖沿いにあった国道150号線が崖崩れに遭い、車一台を巻き込む死亡事故が発生した現場で、危険個所をルート変更するためにこの道路となった。旧国道もまた廃道となり、死亡事故の発生した箇所は崖が崩れ、洞門が押しつぶれた状態のままである。2022/11/17撮影。
用宗駅側から大崩海岸を望む。貨物列車と東海道新幹線の列車が走っている。海中に飛び出た道路は、かつて崖沿いにあった国道150号線が崖崩れに遭い、車一台を巻き込む死亡事故が発生した現場で、危険個所をルート変更するためにこの道路となった。旧国道もまた廃道となり、死亡事故の発生した箇所は崖が崩れ、洞門が押しつぶれた状態のままである。2022/11/17撮影。

空撮は東京方面から飛行し、安倍川が見えるころになると前方に山塊と表現するのが適切なほど、山々が平地を遮って海岸部へ迫り出しているのが望めました。内陸側は標高500mクラスの山々がどこまでも連なり、地形の悪戯か、はたまた意地悪か、ここを行き交うのは容易ならざることだと分かります。

北東から望む大崩海岸。駿河湾へとストンと落ちる地形は、否応なしに交通の難所だと分かる。ここに東海道本線があったのが信じられない。写真中に崩落したトンネルの残骸が転がっている。2022/11/07撮影。
北東から望む大崩海岸。駿河湾へとストンと落ちる地形は、否応なしに交通の難所だと分かる。ここに東海道本線があったのが信じられない。写真中に崩落したトンネルの残骸が転がっている。2022/11/07撮影。

海岸線ギリギリに造られたトンネルが崩壊していく

出典:国土地理院電子国土WEB。吉永陽一が加筆加工。
出典:国土地理院電子国土WEB。吉永陽一が加筆加工。
旧版地形図が間に合わず、現行地形図からの加筆でご了承願いたい。加筆した黒い線が明治22年~昭和19年の線路の位置である。この時代は他にトンネルがなく、やがて昭和初期の弾丸列車計画(いわゆる新幹線)によって、日本坂トンネルの掘削が開始された。出典:国土地理院電子国土WEB。吉永陽一が加筆加工。
旧版地形図が間に合わず、現行地形図からの加筆でご了承願いたい。加筆した黒い線が明治22年~昭和19年の線路の位置である。この時代は他にトンネルがなく、やがて昭和初期の弾丸列車計画(いわゆる新幹線)によって、日本坂トンネルの掘削が開始された。出典:国土地理院電子国土WEB。吉永陽一が加筆加工。

石部トンネルの転機は、戦前の弾丸列車計画によって内陸部に掘削された日本坂トンネルです。戦争によって弾丸列車計画は中止したが、複線規格の日本坂トンネルを東海道本線へ活用しようと、昭和19(1944)年に線路を切り替えました。日本坂トンネルは2kmあまりある直線で、戦後に電化するまで蒸気機関車が行き交っていたことになります。

東海道本線は昭和19年から日本坂トンネルのルートを使用開始。海岸線ルートは廃線となる。日本坂トンネルは東海道新幹線に使用するため、日本坂トンネルのルートは昭和37(1962)年までとなった。出典:国土地理院電子国土WEB 吉永陽一が加筆加工。
東海道本線は昭和19年から日本坂トンネルのルートを使用開始。海岸線ルートは廃線となる。日本坂トンネルは東海道新幹線に使用するため、日本坂トンネルのルートは昭和37(1962)年までとなった。出典:国土地理院電子国土WEB 吉永陽一が加筆加工。

石部トンネルと磯浜トンネルは遺棄され、戦後の昭和23(1948)年のアイオン台風によって西側の坑門がゴッソリと崩落してしまいました。海岸線沿いの線路の路盤も立派な石積みでしたが崩落してしまいます。

やがて東海道新幹線建設によって、東海道本線日本坂トンネルを新幹線用にすることとなり、海岸線ルートの石部・磯浜両トンネルを再利用します。とはいえ海岸部は崩落している。そこで石部トンネル東側、磯浜トンネル西側部分を再利用し、両トンネルの内部から新規に掘削して一つのトンネルとして繋げました。海岸部分だけ遺棄した状態での再復活です。一つのトンネルとなって、名称は「石部トンネル」になりました。

廃線状態となっていた海岸線ルートを途中まで活用する。石部トンネルと磯浜トンネルの途中から新規に掘削し、一本の長いトンネルにして、新しい「石部トンネル」となった。出典:国土地理院電子国土WEB。吉永陽一が加筆加工。
廃線状態となっていた海岸線ルートを途中まで活用する。石部トンネルと磯浜トンネルの途中から新規に掘削し、一本の長いトンネルにして、新しい「石部トンネル」となった。出典:国土地理院電子国土WEB。吉永陽一が加筆加工。

両トンネルの残りの部分は遺棄されたままとなり、今回の主役である石部トンネルの旧西側坑門は、大崩海岸の崖下で眠っています。多くの愛好者がこの崖を降り、朽ちていく坑門とトンネルを見つめてきました。それをブーンとひとっ飛びして現場上空へ訪れるのは簡単すぎやしないかと、心のどこかで引っかかる気持ちもありましたが、空撮でないと見られない姿もあるのです。

坑門は長年の風雨と波に晒され、打ち寄せる波の影響なのか、土台となる地面ごとさらわれてしまい、上下線の石積坑門はポッキリと折れています。

県道416号線用宗街道の直下に、崩落した石部トンネル旧西側坑門が確認できる。坑門だけでなく、トンネル内部の側壁はもげるように海岸へ落下し、写真中~左にかけて存在した石積の路盤も崩壊して、残骸だけが海岸部へ散乱している。2016/11/30撮影。
県道416号線用宗街道の直下に、崩落した石部トンネル旧西側坑門が確認できる。坑門だけでなく、トンネル内部の側壁はもげるように海岸へ落下し、写真中~左にかけて存在した石積の路盤も崩壊して、残骸だけが海岸部へ散乱している。2016/11/30撮影。

下り線トンネルは海岸に迫り出しながら石積の擁壁で覆われ、城壁の様相です。上り線の坑門は「鉄道廃線跡を歩くⅧ」(JTBパブリッシング)の取材だと壁柱や迫石まで残存していましたが、2016年の空撮では巨人の手でもぎ取ったがごとく斜めに損壊しており、石積坑門が地面に叩きつけられてバラバラになっています。

石部トンネル西側坑門をアップで。レンガの側壁が地面に叩きつけられて割れ、石積の立派な坑門も崩れて跡形もない。奥側の上り線トンネルは斜めに崩壊している。下り線は擁壁が城壁のようで、地面から積まれていたのが分かる。おそらく擁壁から延長して坑門が造られたのだと推測する。上り線の延長線上には橋台と思しき構造物も見られる。2016/11/30撮影。
石部トンネル西側坑門をアップで。レンガの側壁が地面に叩きつけられて割れ、石積の立派な坑門も崩れて跡形もない。奥側の上り線トンネルは斜めに崩壊している。下り線は擁壁が城壁のようで、地面から積まれていたのが分かる。おそらく擁壁から延長して坑門が造られたのだと推測する。上り線の延長線上には橋台と思しき構造物も見られる。2016/11/30撮影。

こうして侵食しやすい海岸の遺構は、砂上の楼閣の如くボロボロとなって海岸の石場と同化していく運命……。月日を追うごとに形を変えていきます。その姿を上空から捉えると、崩壊しているパーツが生々しく客観描写され、胸が締め付けられるような、しかしながら崩壊していく美に取り憑かれたような複雑な感情が織り混ざり、心の中で波を立てて渦巻きました。空から見るだけでも強烈な印象を与える旧西側坑門。これが地上ではどんな感情に支配されるのだろう。

磯浜トンネル旧東側坑門の行方

そしてもう一つ気になる存在の磯浜トンネル旧東側坑門は、上空から見つけられませんでした。地上を探索したレポを読んでも見つからなかったというより、その場所は現在産廃処理場となって埋められてしまっているのです。完全に山の斜面へと没してしまい、その名残りを見つけることは不可能となっています(それに、私有地ですし……)。

石部トンネルの先にあった磯浜トンネル東側坑門は土砂で埋められ、どこにトンネルがあったのか判別できない。
石部トンネルの先にあった磯浜トンネル東側坑門は土砂で埋められ、どこにトンネルがあったのか判別できない。

想像図を描いてみた↓

こんな感じだったのだろう。仮に今も現役の線路であったとしたら、なかなかに風光明媚な場所であったに違いない。県道付近は鉄道撮影地となっていたことだろう。2016/11/30撮影。
こんな感じだったのだろう。仮に今も現役の線路であったとしたら、なかなかに風光明媚な場所であったに違いない。県道付近は鉄道撮影地となっていたことだろう。2016/11/30撮影。

では、自宅で出来る追憶の遺構探しとして、地図・空中写真閲覧サービスの航空写真を追います。戦後すぐの1946年米軍撮影と1977年地理院撮影の写真を観察すると、崩れかけた石部トンネル旧西側坑門から石積の上を線路跡の路盤が続いて、緩い弧を描いて陸側へ分け入り、ぷつっと途切れています。途切れている箇所が磯浜トンネル旧東側坑門の位置ですね。

<国土地理院ウエブサイトの航空写真からトンネル部分の変遷を追う>

1946年撮影。出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1176178
1946年撮影。出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1176178
1977年撮影。出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=305522
1977年撮影。出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=305522
1987年撮影。拡大部分のみ 出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=296436
1987年撮影。拡大部分のみ 出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=296436
1988年撮影。拡大部分のみ。出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=857519
1988年撮影。拡大部分のみ。出典:国土地理院ウエブサイト https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=857519

1987年の写真ではその位置が確認でき、1988年の写真では業者が土砂を流入させているのが確認できたので、この2年間に旧東側坑門は土中に埋まったのでしょう。

どんな形状の坑門であったのか、それは反対側の坑門を見れば分かります。磯浜トンネルは東西どちら側の坑門も同じ形状でした。反対側は東海道本線として現役で、抗口部分がコンクリート補強されていますが、石積の単線トンネルが2つ並んでいます。

ということで、前後編と2ヶ所の廃トンネルの空撮を紹介してきました。たまには空から見る視点も新鮮です。次号は再び地上からお伝えします!

取材・文・撮影=吉永陽一