24年前まであった信越本線の難所、碓氷峠越え

碓氷峠は急勾配の峠でした。この難所を走るため、列車の後ろに機関車が連結され、その作業の間のわずかな時間、立ち売りの峠の釜めしを買いにホームを走る乗客の姿。碓氷峠の現役時はまだ高校生で、EF63の走行写真は数えるくらい。そうこうするうちに長野新幹線(現在の北陸新幹線)開通で廃止となってしまいました。廃止は今から24年前の1997年のこと。

もう約四半世紀も経ったのですね。横川駅周辺で撮ったカラーネガがあるので、少しお見せします。

1996年10月17日に自転車を輪行して碓氷峠の撮影に遠征した時の写真。横川駅ホームには立ち食いそばもあった。横川駅にて、特急あさま号(489系白山色)と入れ換え中のEF63。
1996年10月17日に自転車を輪行して碓氷峠の撮影に遠征した時の写真。横川駅ホームには立ち食いそばもあった。横川駅にて、特急あさま号(489系白山色)と入れ換え中のEF63。

現在、高崎から北上する信越本線は横川駅で途切れています。24年前まではこの先の軽井沢まで線路が繋がっていて、群馬と長野の県境を挟んだ約552mの高低差を、66.7‰(1km進むのに66.7m上がる)急勾配で克服していました。列車が66.7‰を克服するため、専用の機関車を列車最後尾に連結して押し上げ、下り坂は機関車を先頭に連結して慎重に下っていました。それが365日、夜行列車もあったのでほぼ24時間行われていました。

1992年8月23日の横川駅軽井沢方面。構内はEF63のねぐらである横川機関区となっており、信越本線はすぐ上り勾配となっていた。
1992年8月23日の横川駅軽井沢方面。構内はEF63のねぐらである横川機関区となっており、信越本線はすぐ上り勾配となっていた。
1992年8月23日の横川駅。EF63が特急あさま号を押しながら勾配を駆け上がっていく。EF63は2両繋がった「重連」で任務についた。横川機関区から撮影。
1992年8月23日の横川駅。EF63が特急あさま号を押しながら勾配を駆け上がっていく。EF63は2両繋がった「重連」で任務についた。横川機関区から撮影。

碓氷峠に鉄道が開通したのは明治26年(1893)。急勾配を克服するのにアプト式という特殊な方式を採用しました。線路の中心部にラックレールというギザギザの板(ノコギリの刃や、食品ラップの刃の部分に似ている)があり、機関車にはラックレールのギザギザと噛み合う歯車を装備し、これらが噛み合うことで線路を滑らずに登り下りできる仕組みです。補助装置みたいなものですね。

アプト式時代最後の機関車ED42。線路の間に見える筋状のものがラックレール。横川機関区にて。1992年8月23日。現在は「碓氷峠鉄道文化むら」に保存されている。
アプト式時代最後の機関車ED42。線路の間に見える筋状のものがラックレール。横川機関区にて。1992年8月23日。現在は「碓氷峠鉄道文化むら」に保存されている。
ED42に装備された歯車とラックレールが噛み合った箇所。車輪の下部分に歯車があり、ラックレールと噛み合うことで急坂を滑らずに登り下りできる。
ED42に装備された歯車とラックレールが噛み合った箇所。車輪の下部分に歯車があり、ラックレールと噛み合うことで急坂を滑らずに登り下りできる。

アプト式は昭和38(1963)年に廃止。変わって粘着式という、一見して普通の鉄道と同じ方式に変更となりました。アプト式の線路敷は一部が廃止され、新たに粘着式用の「新線」を建設します。ただし勾配を克服するため、国鉄は碓氷峠専用の力強くて特殊なブレーキを装備したEF63形電気機関車を製造。貨物から特急まで全ての列車は、この機関車が補助となって峠を克服しました。EF63は「峠のシェルパ」と呼ばれていたのです。

1994年4月17日撮影の横川機関区。ヘッドマークは撮影会での特別仕様。碓氷峠が廃止された後、機関区跡を生かした「碓氷峠鉄道文化むら」として生まれ変わった。
1994年4月17日撮影の横川機関区。ヘッドマークは撮影会での特別仕様。碓氷峠が廃止された後、機関区跡を生かした「碓氷峠鉄道文化むら」として生まれ変わった。

アプトの道として再出発。廃線跡は登りやすい散策道となった

碓氷峠はアプト式の旧線と、粘着式の新線、両方の線路が廃線跡となっています。険しい山間部の廃線跡は大抵の場合自然へと還りますが、碓氷峠の場合は廃線跡が撤去されずにほぼ残存しています。そして横川駅から旧熊の平信号場までの旧線廃線跡は、手軽に歩けるハイキングコース「アプトの道」として整備され、鉄道の歴史を感じながら歩くことができ、ハイカーに人気のコースとなっています。“廃なるもの”としては幸せな部類となりましょう。なお新線の廃線跡は手付かずのまま残っており、普段は立入禁止なのですが、年に数回新線廃線跡ウォーキングが開催されています。

アプトの道はあまりにメジャーな廃線跡なので、2007年ごろに取材で訪れたとき以来、意外と訪れたことがありませんでした。18きっぷですぐ行けるからいつでもいいかなぁと思っていたのですが、この際良い機会だからと超久々に訪れました。

現在の横川駅。駅前の側溝には使用済みのラックレールで作られた蓋が現役(?)だ。
現在の横川駅。駅前の側溝には使用済みのラックレールで作られた蓋が現役(?)だ。
横川駅は線路が途切れているが一本だけ残されており、横川駅構内から碓氷峠鉄道文化むらへ通じている。動態保存されているEF63をJR大宮工場で整備するため、この線路を走ったことがある。写真左手の白い建物は機関区の詰所であった。
横川駅は線路が途切れているが一本だけ残されており、横川駅構内から碓氷峠鉄道文化むらへ通じている。動態保存されているEF63をJR大宮工場で整備するため、この線路を走ったことがある。写真左手の白い建物は機関区の詰所であった。
1994年4月17日、イベント列車(旧型客車)後部から撮影した横川駅。上写真と(線路の位置は若干右だが)ほぼ同じアングル。こんなに激変した。
1994年4月17日、イベント列車(旧型客車)後部から撮影した横川駅。上写真と(線路の位置は若干右だが)ほぼ同じアングル。こんなに激変した。

アプトの道のスタートは横川駅です。線路は途切れていますが、EF63のいた旧横川機関区は『碓氷峠鉄道文化むら』として再出発し、駅前は鉄道の要衝だった面影を随所に残しています。ふと、家族連れが次々と碓氷峠鉄道文化むらへ吸い込まれていくのに目が止まりました。どうやらアニメ「新幹線変形ロボ シンカリオンZ」の影響らしく、ここがアニメの舞台になったそうです。アニメ聖地巡礼?みたいなものですね。親子が和気あいあいとする光景を横目に、敷地の右側を歩きます。

廃線跡はアプトの道として活用されている。碓氷峠鉄道文化むらの脇からスタートする。
廃線跡はアプトの道として活用されている。碓氷峠鉄道文化むらの脇からスタートする。
碓氷峠鉄道文化むらの屋外保存車両群。碓氷峠を走った車両だけでなく、全国から集められた車両が保存され、時々修繕を受けている。
碓氷峠鉄道文化むらの屋外保存車両群。碓氷峠を走った車両だけでなく、全国から集められた車両が保存され、時々修繕を受けている。

ほどなくして踏切跡を発見。足元はアプト式時代のラックレールが側溝敷板に使われています。まだ碓氷峠現役の頃にEF63を撮影しにきたとき、このラックレールを見つけて「遺構だ♪」と浮き足立っていました。高校生の頃から既に廃ものへ目覚めていたもので、ついつい遺構の方へ目がいっていました……。

現役時代は踏切だった場所。側溝の蓋にラックレールが活用されている。警報機の機械も残されていた。
現役時代は踏切だった場所。側溝の蓋にラックレールが活用されている。警報機の機械も残されていた。

アプトの道は、踏切跡付近から旧上り線の線路を活用しています。このあたりは明治時代の開通時からあった線路敷きで、粘着式の新線となるまではアプト式でした。旧線と新線が別れていたのは2.6km先の地点であり、そこは温泉施設『峠の湯』になっています。アプトの道は分岐箇所から旧線のほうへ行きます。

アプトの道として遊歩道化するため、上り線の線路はそのまま残されて、アスファルトで舗装されています。トレッキングシューズではなくても容易に歩けるのが嬉しいです。隣にある下り線は現役時のままバラストが残り、『峠の湯』までトロッコ列車が運転されています。いわば現役の廃線跡ですね。

踏切跡から、上り線の跡を活用した道が始まる。
踏切跡から、上り線の跡を活用した道が始まる。
下り線はトロッコ列車の線路として活用。廃線跡が現役というのは、ちょっとややこしい。「シェルパくん」と名付けられた列車が坂を下ってきた。
下り線はトロッコ列車の線路として活用。廃線跡が現役というのは、ちょっとややこしい。「シェルパくん」と名付けられた列車が坂を下ってきた。
桜の木や擁壁(ようへき)は現役時代から変わらない。架線柱も残され、下り線にはまだ架線も張られており、動態保存されているEF63のために通電している。
桜の木や擁壁(ようへき)は現役時代から変わらない。架線柱も残され、下り線にはまだ架線も張られており、動態保存されているEF63のために通電している。

廃線跡に現れるEF63の動態保存車。前方に見えるのは懐かしき丸山変電所

峠の湯までは下り線をトロッコ列車が走り、上り線はアスファルト舗装が続き、草ボーボーのいわゆる廃線跡の姿とは全く異なる姿です。現役のような廃線のような、なんとも微妙な立ち位置ですよね。遊歩道化されているので、拍子抜けするくらい簡単に歩けます。

さらに、碓氷峠鉄道文化むらでは保存車両に触れられるだけではなく、EF63が数両動態保存され、学科から実技まで行う本格的な体験運転プログラムがあります。タイミングが良いと「フォォォーン」という走行音が聞こえ……。

動態保存されて体験運転中のEF63がやってきた。下り線の僅かな区間しか走らないものの、架線も生きているので、24年前の姿が今に蘇ってくる。このときは重連で体験運転しており、1両で運転する時もある。
動態保存されて体験運転中のEF63がやってきた。下り線の僅かな区間しか走らないものの、架線も生きているので、24年前の姿が今に蘇ってくる。このときは重連で体験運転しており、1両で運転する時もある。

おっ、ちょうど体験運転中のEF63が下り線を登ってきました。超低速とはいえ、今でもこの機関車が走っていることに感動です! やはり懐かしの映像で見るよりも、目の前の動態保存機を五感で感じられる方が良いですね。散策を忘れてついつい見入ってしまう。廃線跡を散策しているときにそこを走っていたものが目の前に動いてやってくるというのは、じーんと感動しちゃいます。

EF63が戻っていく姿に目を細め、こちらは登り坂を進みます。たしかこの辺りはまだ66.7‰勾配ではなかったと思いますが、歩きながら登り坂を感じさせます。我々人間にとっては急坂というほどではないけれども、鉄道車両にとっては辛い坂ですね。

キロポストや信号機が撤去されずに残っている。廃止後は最低限の設備だけ撤去し、上り線だけ歩きやすいように舗装したという感じだ。
キロポストや信号機が撤去されずに残っている。廃止後は最低限の設備だけ撤去し、上り線だけ歩きやすいように舗装したという感じだ。
上り勾配を歩いていくと、目の前に現れる旧丸山変電所の2棟の建物。24年前は線路脇にある小道を歩いてここまでやってきた。
上り勾配を歩いていくと、目の前に現れる旧丸山変電所の2棟の建物。24年前は線路脇にある小道を歩いてここまでやってきた。

やがて前方にレンガ製の建物が2棟見えてきました。旧丸山変電所です。明治45年(1912)に建てられた変電所で、碓氷峠が明治末期に電化されるとき造られたものです。丸山変電所は長らく朽ちた状態で放置され、1997年まではEF63の撮影地の一つでした。私も高校時代に訪れたことがあり、そのときはレンガ建物のガラス窓が割れ、屋根が朽ち、中も荒れ放題でした。

私はその姿を見て逆にグッときて、丸山変電所でEF63を撮るよりも、廃墟となった変電所建物を撮る方に夢中になっていました。今から思うと、もうちょっと生きている鉄道であるEF63に目を向けてもよかったな……。まだ遠くに見えている丸山変電所の姿に目を細め、そんなことを思い出しちゃいました。たしかあのときは、旧線跡の遺構にも興奮していたんだっけ。

丸山変電所と碓氷峠旧線は、廃墟好きが開花してのめりこんでいったきっかけの場所と言っても過言ではありません。私にとっては原点へ戻ってきた気分です。今の丸山変電所がきになるところですが、続きは次回にお伝えします!

1994年8月、高校の写真部合宿で撮影した丸山変電所から見たEF63。この構図は当時手に取った鉄道趣味月刊誌「Rail Magazine」表紙がカッコよくて真似た。たしか、ヨドバシカメラで売っていたコダックトライエックスの100フィートフィルム詰め替え品で撮ったと思う。
1994年8月、高校の写真部合宿で撮影した丸山変電所から見たEF63。この構図は当時手に取った鉄道趣味月刊誌「Rail Magazine」表紙がカッコよくて真似た。たしか、ヨドバシカメラで売っていたコダックトライエックスの100フィートフィルム詰め替え品で撮ったと思う。

取材・撮影・文=吉永陽一

前回のその1では、丸山変電所の手前までやってきました。今回は変電所を観察しながら、アプトの道を登って行き、旧線跡の途中までお伝えします。
前回は旧国道18号のクロスするところまでお伝えしました。第3回目は、いよいよ「アプトの道」が佳境となります。旧国道を潜ります。上り勾配は延々と続いていますね。アプト式終焉の日まで、ラックレールに歯車をしっかりと噛ませたED42形機関車が、客車や気動車を押し上げていた道です。目の前に短いトンネルが連続してあります。第3と第4トンネルです。ここは直線ですね。石積みのポータル(出入り口)に吸い込まれ、てくてくと歩いて行きます。 
碓氷峠は3回に分けてお話しするつもりでした。案の定、話が延びてしまい、4回目の今回がほんとにラストです。話が延びるほど、アプトの道には見るものがたくさんあるということですね。さて、前回まで「熊ノ平(くまのだいら)」と述べているけれども、そもそも熊ノ平とはなんぞやと言うと、アプト式時代は山中にある中間駅でした。新線に切り替わってしばらくした昭和41(1966)年に信号場となりました。駅とはいっても周辺は鉄道関係者か、玉屋の「峠の力餅」(第2回のレポに登場した力餅)の店舗くらいで、変電所と上下列車の交換設備が狭い山肌にへばりつく形であったのです。