2019年の冬に発見された都電の軌条

これはすごい!と、SNSでそのニュースが拡散されると廃墟・廃線跡愛好界隈はざわつき、私もソワソワして、いても立ってもいられませんでした。道路工事中の最中に現れた遺構を一目見ようと、あっという間に見物人が湧きます。私もすぐに行きたかったのですが、場所は御茶ノ水駅に隣接し、車はバンバン走り、工事の邪魔になりそうで、ちょっと躊躇していました。

横断歩道が青の時に撮影。76年の眠りから蘇った軌条。
横断歩道が青の時に撮影。76年の眠りから蘇った軌条。

日が経っていけばいくほど、遺構の去就も気になってきます。しかし現地での保存は難しく、撤去されることが明白でした。渋谷駅の再開発や高輪築堤などでも経験していますが、工事中に現れた遺構や古いものは1ヶ月も経たずに消えてしまいます。早いところ行かなければと思っていたところ、ちょうどスタジオ撮影業務があり、撮影が長引いて帰りが深夜となり、遠回りだけれども遺構を見てみるかと現場へ訪れてみたのです。2020年1月のことでした。

静まり返った深夜、見学者はいなかった。一部はネットで覆われていたが、おそらく解体されている箇所だと思う。
静まり返った深夜、見学者はいなかった。一部はネットで覆われていたが、おそらく解体されている箇所だと思う。

訪れたのはさすがに深夜ということもあって、橋を往来する車の数は僅か。日中はたくさんいたであろう人々も全くいません。夜間の遺構探索は暗く危険なためにやらないのですが、ここは都心部で灯りはじゅうぶんにあります。観察するのにも問題ありません。

警備員さんが「歩行者信号が青のときに見学してください」と仰ってくれます。軌条はお茶の水橋の中心部にあるため、橋のたもとにある横断歩道が青のとき、軌条へ一番近づけます。

この軌条は、工事で露わになる以前から、横断歩道付近にある橋の繋ぎ目のアスファルトが一部剥げて、レールが顔を出していたとのことです。この話はネットで調べているときに知ったのですが、廃止後の路面電車の軌条は剥がされずにアスファルトで覆われるという話をときおり耳にするので、この遺構も同じ状況だったのでしょう。

軌条は戦時中の不要不急路線指定によって廃止となった区間だった

お茶の水橋の軌条は、都電の前身である東京電気鉄道が明治37年(1904)に開通した路線のもので、翌年に延伸開通した際、この橋に線路が敷設されました。路線名は錦町線と呼び、現在の「明大通り」と「千代田通り」を通り、外濠に架かる錦橋の「錦町河岸」交差点から都道402号線「錦町有楽町線」へ向かうルートでした。

しかし太平洋戦争中の昭和19年(1944)に不要不急路線に指定されてしまい、御茶ノ水~錦町河岸間(明大通りと千代田通りの部分)が運行休止され、この橋の軌条も用済みとなりました。戦後になっても運行再開されず、昭和24年(1949)に正式廃止となった後、いつしか軌条はアスファルトで埋められました。

2本のレールと御影石の敷石が工事照明によって浮かび上がる。一部は掘り返されている。撤去直前なのか、既にカッターで刻まれていた。
2本のレールと御影石の敷石が工事照明によって浮かび上がる。一部は掘り返されている。撤去直前なのか、既にカッターで刻まれていた。

お茶の水橋は明治時代に架橋されたものの関東大震災で被災し、いったんは軌条も含めて橋を解体。錦町線はしばらくお茶の水橋手前側が暫定的な終点となりましたが、昭和6年(1931)に2代目お茶の水橋が架橋された際に再び軌条も敷設され、元のルートへ戻りました。

お茶の水橋は2018年から補修と耐震補強工事が開始されました。その過程でアスファルトを剥がしたら軌条が76年ぶりに現れたことになります。心情としては現地でありのままを保存してほしいですが、この補修工事は耐震性向上も兼ねており、橋桁部分の基礎まで舗装を剥がします。よって軌条を撤去しないと工事が進行できません。残念ながら現地保存は出来ないのです。

撤去前の軌条は溝付きレールも。一部は数ヶ所の機関に保存される。
撤去前の軌条は溝付きレールも。一部は数ヶ所の機関に保存される。

さて、深夜に訪れた軌条ですが、細かく線が引かれているのに気がつきます。既に撤去前の準備段階として、カッターで切れ目が入れられています。この時点で全面保存は無理だなとショックでしたが、撤去される前に現地で見ることができてホッと一安心。複雑な心境が絡み合います。

この軌条は1931年の架橋から使用されていたもので、戦局が悪化しつつあった1944年の空気を敷石とレールに閉じ込めているように感じました。横断歩道から見る軌条は、錆びついたレールと白く濁った敷石が、明るい都心の照明に反射して鈍く輝いています。76年ぶりに外界へ解き放たれた軌条は、煌々と輝く現代のお茶の水の姿を見て何を想うのか。レールが人だったら聞いてみたいと、少々感傷的になってきます。

照明で浮かび上がる軌条。重機が待機しており、いつでも撤去されそうな状況であった。
照明で浮かび上がる軌条。重機が待機しており、いつでも撤去されそうな状況であった。

信号が変わります。赤信号で歩道へ戻り、軌条全体を観察。橋の長さ分、約55mある軌条は2本のレールが輝いていて、路面電車が走ってきてもおかしくありません。同じ線路幅の都電荒川線の電車をここに置いてみたらどんな光景だろう。ちょっと妄想も膨らんできます。

歩道と横断歩道から、無理のない範囲で観察してはひき返す。冬の寒さも忘れて橋の上をウロウロしてこの目に焼き付けます。興味深いのは2本のレールのうち、外側のレールは通常の断面ではなく、路面電車用の「溝付きレール」と言われるものでした。これは車輪の逸脱を防ぐ特殊な構造です。断面は見えないものの、レール頭部分をよく見ると溝があるのが確認できました。

外側のレールは「溝付きレール」という特殊な形状。レール頭部分が溝になっている。これはアスファルトか何かで溝が埋まっているようだ。
外側のレールは「溝付きレール」という特殊な形状。レール頭部分が溝になっている。これはアスファルトか何かで溝が埋まっているようだ。

軌条は複線分あり、見学時にはまだアスファルトで覆われていた部分も、やがて掘り起こされて軌条が出てくることになりますが、残念ながら2線とも撤去されます。千代田区は、遺構は大変貴重なものだから何かしらの保存を模索する意向を示し、なんとか保存できないものかと有志が集まって発足した「お茶の水橋都電レール保存会」が、レールや石畳を保存すべく、千代田区と相談しながら保存先を探しました。

千代田区と保存会に関する報道によると、レールなどは複数の大学、京都鉄道博物館、岡山シティミュージアムに保管されることになりました。保存会の発表によると、普通のレールは1930年官営八幡製鉄製、溝付きレールは英国ボルコウ・ボーン社製の輸入品であったとのことです。

ローアングルで観察するとカッターで刻まれた状況が目立たなくなり、一瞬現役の軌条に見えた。敷石は表面が滑らかに感じた。
ローアングルで観察するとカッターで刻まれた状況が目立たなくなり、一瞬現役の軌条に見えた。敷石は表面が滑らかに感じた。

現場からは撤去されてしまった軌条ですが、一部分が複数の機関に保存され、後世に語り継がれていくことでしょう。今回は過去の廃なるものをお話ししました。今後も唐突に追憶シリーズを紹介するかもしれません。ではでは!

取材・文・撮影=吉永陽一