吉永陽一(よしながよういち)
生まれも育ちも東京都だが大阪芸術大学写真学科卒業。空撮を扱う会社にて空撮キャリアを積み、長年の憧れであった鉄道空撮に取り組む。個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真を発表。「空鉄」で注目を集める。ライフワークは鉄道空撮、6x6や4x5の鉄道情景や廃墟である。2018年4月、フジフイルムスクエアにて個展「いきづかい」を開催。2020年8月、渋谷にて個展「空鉄 うつろい 渋谷駅10年間の上空観察」を開催。

そんな秘境駅小和田の駅前は廃屋があるだけとのことで、駅に降り立ってみました。下りで到着して電車を見送ったとき、時刻は13時すぎ。次に豊橋へ戻る電車はすぐ来ますが、それだと散策できないため、16時台の上りで帰ることにします。3時間ほどの駅前散策です。

小和田駅の木造駅舎。傍らにスーパーカブが朽ちていた。

木造駅舎は既に無人で、駅事務所は閉鎖されています。駅舎を出るや、いきなりスーパーカブの廃車体が目に留まります。遊園地アトラクションのオブジェのごとく、ボディはすっかり赤錆び、前輪はホイールのみ。サドルすら消えています。

この壊れたスーパーカブは誰かがオブジェのために置いたと思えるほど、木造駅舎横にさりげなく朽ちていて、それがまた絵になること。のっけから、いい情景に出会えました。

スーパーカブの観察が済んだら、駅前の細い坂道を降ります。と、「塩沢まで1時間」の真新しい立札が。小和田駅周辺は秘境駅ブームで来訪者がちょくちょくいるため、どなたかが立札を整備するなど手入れをしているようです。塩沢は、駅から徒歩小一時間の距離にある集落です。

空き家になっている家屋。雅子様ご成婚に関連した小和田駅婚礼イベントを行ったとき、この家屋が使用されたという。

で、この立札の背後に木造家屋が二棟あるのですが、右の家はまだ住んでいそうだけど空き家になっていました。左はというと、トタン屋根が枯れ草で埋もれかけ、所々穴が空いています。完全に廃屋ですね。

小道から見える工場跡の屋根は朽ちていた。

小道を下ると工場跡でした。外から内部がしっかりと見えます。内部は様々なものが崩れたり投げられたりして荒れていて、容易に近付けられません。壁と梁はいまにも崩れそうです。決して内部に入ることはせず、外から眺めるだけに留めておきましょう。

製茶工場の跡。

この工場跡はかつて製茶工場でした。現役時代は製茶の機械が活躍していたようで、崩れかけた建物はどこか哀しみが漂っている気がします。周囲はすっかり木々が生え、あと何年もしたら、建物は崩れてしまいそうです。

小道を降りた先は猫の額ほどの広場があり、目の前は天竜川です。佐久間ダムによって堰き止められるまでは、対岸の山肌に集落がありましたが、いまはその面影もありません。広場は小道となって続き、川縁へ続く木立に何やら白い物体が見えました。

廃屋の下にある広場の先を見ると、何やら白い物体が見える。

一瞬何かの家電かと思ったら、オート三輪“ダイハツ・ミゼット”が転がっている姿でした。おお……いきなりミゼットが! 昔の小和田駅には車が走ってこられたのか?

おお!ダイハツ・ミゼットだ!

倒れたミゼットの廃車体はヘッドライトも欠損し、両眼がえぐられたようにポッカリと穴が開いていて、遠目に見たらちょっと恨めしそうな雰囲気が漂います。

すぐ背後は背の高い樹木で、前後輪は外されています。事故に遭ってこうなったのかなと思いましたが、外装はぶつかった痕跡が分からず、不動となった際に遺棄したのかもしれません。後輪の駆動部が外れて、近くに転がっています。

あちこち壊れているが事故で破壊された感じはしなかった。
ハンドルなどは無くなっている。
背後から。成長する木々に挟まれているようだ。
外された後輪と「エ」の字が刻印された国鉄の境界標。
後輪はごっそりと外されたようだ。

駅前のスーパーカブ、次いで現れた二棟の廃屋、そして木立に転がるミゼット。誰もいない空間に人の居た痕跡と残り香だけで、秘境駅周辺はシン……とした空気が漂っています。

道を進む。振り返って小和田駅周囲にある廃屋をみる。車が通れないほどの小道が駅前道路。

ミゼットをしげしげと観察し、先に続いている小道を進みます。この道を歩いていけば塩沢集落へ至り、そこまで行こうかと悩んだけれども、駅周辺の散策が主なので適当なところで引き返すことにしました。

小道は先ほどのミゼットが通れるくらいの幅はありそうです。もっとも、ガードレールすらなく、仮に通れたとしても、かなり怖い思いをしながらの運転だったのではなかろうか。

道の脇の石垣は苔むしていて、これが造られたのは戦前なのか戦後すぐなのか、パッとみた感じでは判別できません。

飯田線の法面には碍子(がいし)が遺棄されていた。
山の斜面には住居跡と思しき石垣があった。

また斜面を見上げると、木々の合間から石垣が散見でき、そこには家屋が立っていたのかと推察できます。先ほどの製茶工場跡を思い出し、この辺には茶畑があったのだろうか、あのミゼットは茶葉の輸送につかわれたのだろうかと、推理してみました。

廃屋も残っていた。
突如として現れる索道跡の鉄塔。
鉄塔上部は草が生えていた。

前方に鉄塔が見えました。送電線にしては低く、経験上これは索道の支柱ではなかろうかと。鉄塔の先を見上げると、何やらウィンチの格納されていそうな木造建屋が、木々の合間から確認できました。では逆側はどうなのかと崖下を見下ろすと、天竜川の対岸に道路があります。後日知ったところによると、その道路から索道を伝って物資輸送をしていたとのことです。

鉄塔の先を行くと、突如道が二股に分岐していました。左手は通行止めの柵がしてあり、「この先 高瀬橋通行不可」と記されています。右はさらに細い道となって続いています。塩沢へはこの小道を伝って行くことになります。高瀬橋は気になりますが、通行不可なので行くことは諦めました。

先はどうなっているのか、試しに文明の力を使ってみると(=スマホのGoogleMap)、ストリートビューがあるではないですか。誰得?と思いつつ、高瀬橋の画像を見ると、吊り橋の主塔はあるものの肝心の橋が無くなっていました。これは通行不可ですね。佐久間ダムができる前は、高瀬橋を渡った先に集落がありました。

右の小道を進みます。立派な民家が見え、道はその脇を通っています。道幅はミゼットでも通れないほど狭くなり、ではあのミゼットは塩沢まで走っておらず、どこか別の場所と駅を往復していたのだろうか?と、新たな疑問が浮かびます。

小道を進むと現れる小さくて貧弱な橋。渡るのに勇気がいる。

と、前方に金網で作られた頼りない橋が現れました。細い鉄骨で組まれていて、おや? 欄干にはトロッコや軽便鉄道用の細いレールが使われています。ここに軽便鉄道があったのかと一瞬ときめいてしまいましたが、冷静に考えてみればレールは資材として入手できるものなので、期待して損しました(笑)。

トロッコ用のレールが使われていた。

小道はしばらく続いています。このまま歩いて塩沢まで行くと帰りの電車に間に合わないため、引き返すことにしました。

しばし歩いていくと橋が崩れて窪地へ降りる迂回路となった。この先で引き返す。

来た道を引き返しながら周囲を観察していると、洗濯機やバイクが放置されています。おそらくこのまま朽ちていくのでしょう。まだ夕方には早いものの太陽は傾いてきて、すっかり影となった道の中、自然と歩みも速くなります。

先ほどの分岐道に遺棄されたバイク。苔むしてきているようだ。

再び小和田駅へ到着。まだ帰りの電車まで時間があります。駅へと登る小道の途中に小さな広場があり、土台の痕跡が点在しています。ここにも建物が存在していました。

小さな広場に残る建物の跡。広場の先にも廃車体があるものの、敷地内なのか曖昧なのでここでは紹介しない。

電車が来るまでの間、先ほどのミゼットはどこを走っていたのか気になっていました。わずか3時間ほどの散策では答えは見つからず、モヤモヤした気分のまま帰路についたのです。

帰りの電車から。左の側線は貨物ホーム跡。小和田駅前はかつては商店もあり、そこそこ賑わっていたという。

帰ってからも気になって調べてみると、その昔は大嵐駅と小和田駅の間に林道があり、佐久間ダムができる前は対岸に渡る道路橋が存在しました。戦後すぐに米軍が撮影した測量航空写真に写っています。気になるのは、ミゼットがデビューしたのが1957年。佐久間ダムが竣工したのが1956年。小和田にあるミゼットはダム完成後に走っていたことになるので、おそらく林道を走っていたのだと考えられます。

まだまだ謎の多い小和田駅周辺。廃車体は他にも存在し、また大嵐まで至る林道はとうに廃道となり、そちらも興味があります。林道はどうやら崖崩れなどがあって、踏破するのは困難な道のりのようですが……。

写真・文=吉永陽一

全国津々、廃線跡はたくさんあります。道路になった場所もあれば、人を寄せ付けない山中にひっそりと存在する場所もあって、廃線跡と言ってもその形態は千差万別です。私はまだ訪れていない廃線跡も多々ありますが、いままで出会ってきたなかで、これは聖地に値するなというところがあります。川越市にある、西武安比奈線です。今回はボリュームも多めに、二回に分けて紹介します。
掩体(えんたい)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。掩体とは、ざっくり言うと敵弾から守る設備のことです。大小様々な掩体があり、とくに航空機を守ったり秘匿したりするのには「掩体壕」というものがあります。これは航空機をすっぽりと覆う、大型の設備です。掩体壕はカマボコ屋根状のコンクリート製が多く、屋根の上に草木を生やして偽装する場合もあります。かつて、旧・陸海軍の基地周囲にはたいてい掩体壕が存在しました。戦後、掩体壕は解体されていきますが、元来空爆などから身を守る設備であるため解体しづらく、そのまま放置されて倉庫となるケースもあります。そして、掩体壕は東京都内にも存在しています。場所は調布市。調布飛行場の周囲に数カ所点在しているのです。
今から30数年前の東京臨海部。倉庫群の脇に線路があるのを見たことがあります。何の線路か分からなかったのですが、後に東京湾の埋立地を結ぶ貨物線だと知りました。戦後の高度成長期、東京湾の臨海部には貨物線が張り巡らされていました。この貨物線は「東京都港湾局専用線」。最盛期の1960年代には、汐留〜芝浦埠頭・日の出埠頭(芝浦線、日の出線)、汐留〜築地市場、越中島〜豊洲埠頭・晴海埠頭(深川線、晴海線)を結び、臨海部の貨物線網が形成されていました。その路線群はトラック輸送にバトンタッチして昭和末期に使命を終え、1989年には全面廃止。1990年代に入ると線路のほとんどが剥がされていきました。
東京都北区の京浜東北線王子駅は、地下鉄南北線と都電の乗り換えだけでなく、東北・上越新幹線の高架橋がそびえ、東北本線(宇都宮線)の線路が並んでいます。常に電車が行き交うにぎやかな走行音が響き、ちょっとした鉄道スポットでもあります。王子駅を北側に歩きます。頭上に聳えるのは新幹線高架橋で、前方に長い跨線橋が見えてきました。跨線橋の階段を上がると、母親と一緒の男の子が欄干にかじりついて電車を見下ろしています。ああ、かつての私もこうだったなどと、目を細めるひととき。でも男の子は、ずらっと並ぶ東北本線と京浜東北線の線路の端っこ、新幹線高架橋の真下に、赤錆びた線路があることには気がついていないかもしれません。