吉永陽一
吉永陽一(よしながよういち)
生まれも育ちも東京都だが大阪芸術大学写真学科卒業。空撮を扱う会社にて空撮キャリアを積み、長年の憧れであった鉄道空撮に取り組む。個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真を発表。「空鉄」で注目を集める。ライフワークは鉄道空撮、6x6や4x5の鉄道情景や廃墟である。2018年4月、フジフイルムスクエアにて個展「いきづかい」を開催。2020年8月、渋谷にて個展「空鉄 うつろい 渋谷駅10年間の上空観察」を開催。
3階部分まである広いコンクリートアーチ空間。人の流れはそこそこある。
3階部分まである広いコンクリートアーチ空間。人の流れはそこそこある。

とはいえ、このシリーズは「廃なるもの」。戦前から現役なのは嬉しいけど“廃墟”ではないため、ここで紹介するのは筋違いなのでは? と思いますが、国道駅は現役ながらも階下の商店街は一軒を除いて廃業し、住居として使用されているとはいえ、商店街としては役目を終えて静かに眠っているのです。

いわば、生と廃が交わる空間と言えましょう。国道駅は中学生の頃から何度か訪れてきましたが、生きている空間と廃墟の空間がミックスされている、そんな不思議な光景に惹かれてきました。なので、今回は「廃なるもの」として紹介します。

鶴見駅からJR鶴見線へ乗り換えます。京浜東北線が地上で鶴見線が高架ホームなのは、前身の鶴見臨港鉄道からの名残で、昭和5年(1930)に開通した当時の高架橋を使用しています。3両編成の電車は、ほどなくして発車。高架橋を進むと、すぐに島式ホーム部分と階段だけが残った駅跡を通り過ぎます。

本山駅跡。鶴見駅から500mくらいの位置にある。手前は階段跡だ。
本山駅跡。鶴見駅から500mくらいの位置にある。手前は階段跡だ。

これは旧・本山駅で、至近にある總持寺へのアクセスのため開業したものの、戦時中に不要不急として廃駅となりました。国道駅より本山駅の跡のほうが「廃もの」的にはもってこいなのですが、駅があった場所は川崎鶴見臨港バスの営業所となっていて立入禁止のため、車窓から望むのが精一杯です。(十数年前にバス営業所を取材したことがあり、そのときは階段跡などが残存していました)

車窓から見る本山駅跡はコンクリートが剥がれかけ、高架下へ降る階段のタイルもボロボロです。205系はゆっくりと走るため、数秒ですが観察することができました。本山駅跡を過ぎると、ゆっくりと左へカーブして東海道本線をオーバークロスします。その先にはカマボコ状のホーム上屋が見えました。相対式構造の高架駅、国道駅です。

国道駅を発車する205系3両編成。山手線を走っていた車両だ。
国道駅を発車する205系3両編成。山手線を走っていた車両だ。

国道駅に到着。ドアが開くや、いきなりの試練です。国道駅はきつい曲線上にホームがあり、電車とホームの間が広いのです。駅に気を取られて足元を見ないと、ストンと落ちてしまうほど広い。曲線標には半径200mと記されています。20m級車両ではかなりきつかろう。気をつけないと。

電車が去って聞こえるのは、直下にある国道15号線を行き交う車の音です。3両編成ぶんのホームには、鉄骨が組まれた屋根があり、戦前の開業時から変わらぬ姿をしています。

飾り気のない階段を降りると、目の前には3階分の高さがあるアーチの柱、地上へと降りる階段。2階部分には上りホームへの渡り廊下。それらの光景が一気に視界へ入り込み、エッシャーの騙し絵かと錯覚するほどの空間です。3階分の高さがある広い空間なのに、中途半端な高さで渡り廊下があるという少々不思議な構造です。

アーチ空間は、かつて「臨港デパート」という商店街でした。いまや焼き鳥屋一軒以外は閉店となり、戦前からのコンクリート建造物の空間がガランと広がっているのみです。役目を終えた商店街というのは静かなもので、行き交う車の音が止むとシン……としており、洞窟のように遠くの明かりが差し込んで、薄らと形状が浮かび上がります。その姿を眺めていると、まるで、遺跡となった神殿にいるかのような……そんな感覚。

国道駅の鶴見川方面は高架下住居となっている。鉄骨はホームの支柱。
国道駅の鶴見川方面は高架下住居となっている。鉄骨はホームの支柱。

現役で使用している駅ながら、遺跡のような風格を醸し出していて、ずっと前に訪れたときから「生と廃が同居しているような、複雑に絡み合っているような、そんな不可思議な空間」と感じていました。

戦時中、機銃掃射を受けた痕跡が残る。点々とした穴がそうだ。
戦時中、機銃掃射を受けた痕跡が残る。点々とした穴がそうだ。
高架下の一部は裏道へ通ずる細い抜け道となっている。
高架下の一部は裏道へ通ずる細い抜け道となっている。
その抜け道の上部には、支柱の意匠が残されていた。
その抜け道の上部には、支柱の意匠が残されていた。
鶴見川の出入り口はアーチ状となっている。さぞかし昔はモダンであったことだろう。
鶴見川の出入り口はアーチ状となっている。さぞかし昔はモダンであったことだろう。
上りホーム。この日は雰囲気を味わって帰宅する。
上りホーム。この日は雰囲気を味わって帰宅する。

さて、今回久しぶりに国道駅へ訪れたあと、鶴見臨港鉄道時代に竣工した当時の写真をネットで見つけました。Wikipediaなどに掲載されている改札口の竣工写真です。最初何気なく眺めていましたが、ふと気になったのです。階段と改札口の位置が現在と逆だと。

ネガの裏焼きかと思いましたが、どうやら違います。改札の奥ではアーチ空間が左へカーブしており、現在の改札口辺りから撮影したことに間違いありません。はて?改札口が移った? 気になってきました。これは再訪するしかない。

再び国道駅。私は竣工時の写真と現況を見比べます。竣工時の写真には、あの中途半端な位置にある渡り廊下が存在していません。こう推測します。「鶴見臨港鉄道時代は上下ホーム用にそれぞれ改札があって、階段も独立していたが、何かのきっかけで改札口を一か所にするため、上り線側を廃止して渡り廊下を新設した。」と。

竣工時の図面があれば解決しますが、今回は学術的調査ではなく、“廃もの”を愛でるのが目的です。構造を推測し、使われなくなったモノを想像しながら現場を観察する、そういう楽しみに留めておきます。

ホームから階段を降ります。渡り廊下の結合部を観察すると、古い手摺(す)りの跡は確認できたものの、うまく接合されているためか、増設した感じはしませんでした。

よくよく観察すると、渡り廊下部分はやけに天井が低い。増設した証か?
よくよく観察すると、渡り廊下部分はやけに天井が低い。増設した証か?

でも、「綺麗に纏まっているアーチ空間に、ズバッと一本の渡り廊下があり、しかも中途半端な高さにある」のは、いかにも後で増設したという匂いがします。

焼き鳥屋の上の部分は、窓が板で塞がれている。壁も板でできているようだ。
焼き鳥屋の上の部分は、窓が板で塞がれている。壁も板でできているようだ。
渡り廊下を渡って上りホーム側からみる。
渡り廊下を渡って上りホーム側からみる。

廊下を渡り、上りホームの踊り場に着きます。竣工写真ではこのまま階下へ続く階段があったようで、壁となった部分をコンコンすると板の感触がしました。

この壁の向こうに階段が続いていたのではなかろうか……。
この壁の向こうに階段が続いていたのではなかろうか……。

一部崩れている部分には木目が露出しており、他の壁面も板の感触がしました。戦前から残存する壁はコンクリートであり、この部分は後で塞いだ?と推測できます。ということは階段が眠っているのだろうか。覗き穴みたいなものがあればいいのですが、そういったものはありません。

渡り廊下と壁の接合部。
渡り廊下と壁の接合部。
上りホームの階段途中から踊り場をみる。やはり階段が続いていた雰囲気がする。
上りホームの階段途中から踊り場をみる。やはり階段が続いていた雰囲気がする。
上りホーム踊り場の壁面。斜めになった部分はかつて階下まで続いていたのか?
上りホーム踊り場の壁面。斜めになった部分はかつて階下まで続いていたのか?

この板壁の真下は、ただ一軒だけ営業している焼鳥屋です。再訪時は休みのため、店内で確認することは叶いませんでした。

改札を出ます。竣工写真の撮影位置は、現在の改札口付近です。同じような画角にしてファインダーを覗くと、右端の出札窓口があった場所は商店の跡になっていました。その基礎部分は古く、現改札口の基礎部分と似ています。この位置に出札窓口があったのでしょう。

これが竣工写真と同じ位置から撮ったカット。右の商店跡部分に出札口があった。
これが竣工写真と同じ位置から撮ったカット。右の商店跡部分に出札口があった。

竣工写真では、飾りを施した柱に電灯が掲げられ、モダンな空間だというのが伝わってきます。その柱は変わらずに現役で、飾り帯の部分には電灯があった痕跡が確認できました。

柱に残る電灯の跡。正方形でくり抜かれた部分に電灯がぶら下がっていた。
柱に残る電灯の跡。正方形でくり抜かれた部分に電灯がぶら下がっていた。
柱に巻かれているタイルも開業時からのもの。
柱に巻かれているタイルも開業時からのもの。

肝心のホームへ続く階段があった場所は、残念ながらベニヤ板で密封されて確認できません。この板の向こう側には階段が眠っているのか?と思いましたが、記憶ではここも商店だったような気がします。これも後ほどネットで写真を見かけると、商店が2店舗連なっていました。

現在の階段から上り側をみる。ベニヤ板で塞がれている先に階段があったと思う
現在の階段から上り側をみる。ベニヤ板で塞がれている先に階段があったと思う

店舗内に階段があるのは邪魔ですよね。となると、店舗にしたとき、あるいは改札口を現在地へ集約したとき、階段は解体したのではなかろうかと。そう推測したのです。

現在の改札口からみた階段。竣工写真にはあの渡り廊下が無かった。
現在の改札口からみた階段。竣工写真にはあの渡り廊下が無かった。

国道駅は「生と廃」が絡み合う空間で、その姿そのものに癒やされます。今回の訪問で旧出札口と階段の存在や、あの不思議な渡り廊下の増設といった、国道駅の歴史を推測することができました。いつもの“廃もの探訪”とは異なる視点でしたが、推測しながら観察するのも楽しいものです。

写真・文=吉永陽一

掩体(えんたい)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。掩体とは、ざっくり言うと敵弾から守る設備のことです。大小様々な掩体があり、とくに航空機を守ったり秘匿したりするのには「掩体壕」というものがあります。これは航空機をすっぽりと覆う、大型の設備です。掩体壕はカマボコ屋根状のコンクリート製が多く、屋根の上に草木を生やして偽装する場合もあります。かつて、旧・陸海軍の基地周囲にはたいてい掩体壕が存在しました。戦後、掩体壕は解体されていきますが、元来空爆などから身を守る設備であるため解体しづらく、そのまま放置されて倉庫となるケースもあります。そして、掩体壕は東京都内にも存在しています。場所は調布市。調布飛行場の周囲に数カ所点在しているのです。
全国津々、廃線跡はたくさんあります。道路になった場所もあれば、人を寄せ付けない山中にひっそりと存在する場所もあって、廃線跡と言ってもその形態は千差万別です。私はまだ訪れていない廃線跡も多々ありますが、いままで出会ってきたなかで、これは聖地に値するなというところがあります。川越市にある、西武安比奈線です。今回はボリュームも多めに、二回に分けて紹介します。
今から30数年前の東京臨海部。倉庫群の脇に線路があるのを見たことがあります。何の線路か分からなかったのですが、後に東京湾の埋立地を結ぶ貨物線だと知りました。戦後の高度成長期、東京湾の臨海部には貨物線が張り巡らされていました。この貨物線は「東京都港湾局専用線」。最盛期の1960年代には、汐留〜芝浦埠頭・日の出埠頭(芝浦線、日の出線)、汐留〜築地市場、越中島〜豊洲埠頭・晴海埠頭(深川線、晴海線)を結び、臨海部の貨物線網が形成されていました。その路線群はトラック輸送にバトンタッチして昭和末期に使命を終え、1989年には全面廃止。1990年代に入ると線路のほとんどが剥がされていきました。