吉永陽一
吉永陽一(よしながよういち)
生まれも育ちも東京都だが大阪芸術大学写真学科卒業。空撮を扱う会社にて空撮キャリアを積み、長年の憧れであった鉄道空撮に取り組む。個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真を発表。「空鉄」で注目を集める。ライフワークは鉄道空撮、6x6や4x5の鉄道情景や廃墟である。2018年4月、フジフイルムスクエアにて個展「いきづかい」を開催。2020年8月、渋谷にて個展「空鉄 うつろい 渋谷駅10年間の上空観察」を開催。
跨線橋の網目から王子駅方向を見やると新幹線高架下に北王子線の錆びた線路がある。
跨線橋の網目から王子駅方向を見やると新幹線高架下に北王子線の錆びた線路がある。

錆びて地面と同化しそうな線路は、2014年3月14日まで運行された(廃止日は同年7月1日)日本製紙北王子線の跡です。この貨物線は日本製紙の紙製品輸送に活躍し、7年前まで都区内に残っていた専用線でした。なお、東北本線の支線であるため北王子支線となりますが、ここでは北王子線と称します。

つい最近まで、DE10型ディーゼル機関車に牽引されたコンテナ貨車が走っていたのだけど、高架下の錆びついた線路を見つめていると、貨物列車がもうだいぶ昔のように思えてきました。7年の月日は短いのか長いのか……。跨線橋上で電車に興奮している男の子の声を聞きながら、こちらは感傷に浸っています。

反対側をみる。北王子線の線路は東北本線や新幹線と別れる。折しも引退間際の185系の回送電車が通過。男の子は凝視していた。
反対側をみる。北王子線の線路は東北本線や新幹線と別れる。折しも引退間際の185系の回送電車が通過。男の子は凝視していた。

北王子線はすぐ再開発される都区内にしては珍しく、廃止後も線路が放置され、踏切警報機や線路設備がだいたい廃止時のままの状態で朽ちていました。

「まぁ、いつでも行けるか…。」

しかし、今月はじめに何気なくTwitterを斜め読みしていると、撤去工事が始まって線路が剥がされているとの情報に目が止まります。長年放置されていた線路と警報機などの施設は、随時撤去作業が進んでいるとの情報。“廃もの”取材として、早めに現状を伝えようと思い立ち、現役時代から7年ぶりに再訪しました。今回は、痕跡が消えつつある北王子線のいまです。

北王子線はすぐに工事会社の敷地となる。その先には軍用鉄道跡を転用した都道の高架橋の下を通る。
北王子線はすぐに工事会社の敷地となる。その先には軍用鉄道跡を転用した都道の高架橋の下を通る。

北王子線の線路は新幹線高架橋から離れ、北上するように緩やかな右カーブがあります。すぐに鉄道工事会社の敷地へと飲み込まれ、アスファルト敷きの地面となって、線路が顔を出しています。頭上は都道455号線の高架が覆い、薄暗い空間です。都道455号線は、この一帯に張り巡らせた軍用鉄道の線路跡を転用したもので、軍用鉄道は北王子線と東北本線を鉄橋で渡り、築堤が築かれていました。痕跡は無いものの、都道の高架下は北王子線と軍用鉄道、ふたつの廃線跡がクロスする地点でもあります。

工事会社敷地の先で切断された線路。この先は線路が撤去されていた。
工事会社敷地の先で切断された線路。この先は線路が撤去されていた。

と、北王子線の線路がアスファルトから顔を出したところでカッターにて切断され、そこから先の線路は消滅しているではありませんか。情報のとおり、線路の撤去作業が着々と進行しているのです。線路があったところはつい最近土が掘り起こされた様子で、掘削した重機が傍らで休んでいました。訪れたのは日曜日のため工事が休みで、作業員はいません。現場はシン……としています。警報機も既に撤去された後でした。

踏切部分の線路はまだ残存している。ここは“第一宮江踏切”であった
踏切部分の線路はまだ残存している。ここは“第一宮江踏切”であった

北王子線の線路が撤去されるのは遊歩道のためだそうで、北区の平成29年中期計画、王子駅周辺まちづくりグランドデザイン案、パブリックコメントなどによると、「遊歩道として検討を進める」とのことです。線路の撤去は2月初めから始まりました。

廃線跡は工事の手が入ると、急速に痕跡が消えていくもの。いままさに廃線跡が消えていく。目の前でその事実を実感しています。ですが、踏切部分の線路は健在です。まだ残っていたか、よかった!

おそらく北王子線で使用された踏切だろう。工事会社敷地には警報機などが積まれていた。
おそらく北王子線で使用された踏切だろう。工事会社敷地には警報機などが積まれていた。
“第一宮江踏切”の現状。踏切柵も撤去されている。
“第一宮江踏切”の現状。踏切柵も撤去されている。

「19年(昨年)に来たときはまだ残っていたんだけど、跡が無くなっちゃいましたね……」

私が観察していると、散策中の鉄道ファンのお兄さんが話しかけきて、嘆くように呟きました。彼は一年ぶりに廃線跡を訪れたとのことで、線路が剥がされ、警報機が撤去された姿に大変驚いた様子。数年のブランクがあって久しぶりに訪れた私よりも、昨年の姿を知っている彼の方が、撤去されている姿を目の当たりにして、さぞかし生々しく見えたことと思います。

生活道路にサンドイッチされた北王子線の敷地が北上する。線路が撤去され長細い空き地へと変化していく。
生活道路にサンドイッチされた北王子線の敷地が北上する。線路が撤去され長細い空き地へと変化していく。

先に進みます。北王子線はゆるやかに右へカーブし、左右は車一台分の生活道路となっています。線路が撤去された今となっては、長細い空き地が道路に挟まれた状態で続き、何があったのか想像しにくくなってきます。

つい1ケ月前まで線路があったことが信じられないほど整地されていた。
つい1ケ月前まで線路があったことが信じられないほど整地されていた。

前方に「王子四丁目公園」という三角州状の公園が現れました。地図を見ると、北王子線は北上するのに対し、右の道路が緩やかな右カーブで分岐しています。ここから分岐していた、須賀線という貨物線の痕跡です。須賀線は1971年に廃止となり、いまは立派な二車線道路となっています。

“第2宮江踏切”のあったところ。「踏切」と大きな表示版が掲げられた立派な警報機があった。右にカーブする道は1971年に廃止となった須賀線跡の道路。
“第2宮江踏切”のあったところ。「踏切」と大きな表示版が掲げられた立派な警報機があった。右にカーブする道は1971年に廃止となった須賀線跡の道路。
“第2宮江踏切”の王子方向。背後は東北新幹線の高架橋が望める。
“第2宮江踏切”の王子方向。背後は東北新幹線の高架橋が望める。
同じ踏切の北方向。重機は踏切設備を解体していると思われる。背後は再開発によって誕生したマンション群だ。
同じ踏切の北方向。重機は踏切設備を解体していると思われる。背後は再開発によって誕生したマンション群だ。

―第2宮江踏切―

ここで第2宮江踏切を詳しく見てみしょう

残されていたキロポストと踏切柵。
残されていたキロポストと踏切柵。
左の丸太は踏切設備の傍らにあったものだろうか。
左の丸太は踏切設備の傍らにあったものだろうか。
そのうち古レールで組まれた踏切柵も撤去される。
そのうち古レールで組まれた踏切柵も撤去される。
そして撤去された柵と柱の痕跡。
そして撤去された柵と柱の痕跡。
線路内立入禁止の看板も錆び付いてしまった。
線路内立入禁止の看板も錆び付いてしまった。
週明けにはこの重機が動き出し、淡々と設備解体作業が進行していく。
週明けにはこの重機が動き出し、淡々と設備解体作業が進行していく。
あと少ししたら整地されて細長い空き地となる。
あと少ししたら整地されて細長い空き地となる。

分岐する道路は1970年代に廃止となった廃線跡

須賀線の廃線跡。“第2宮江踏切”から分かれた道路が、この写真の左の道にあたる。写真中央部は王子四丁目公園。
須賀線の廃線跡。“第2宮江踏切”から分かれた道路が、この写真の左の道にあたる。写真中央部は王子四丁目公園。

ここでちょっと寄り道して、1971年に廃止となった須賀線の跡を巡ってみます。もう50年も前に廃止となったため痕跡は期待できません。廃線跡は道路へ転用されました。実際に歩いてみると二車線道路を歩くだけで、痕跡はあるどころか、ここに鉄道が走っていたことを想像するのが困難なほど変貌していました。

軽バンとスクーターが走る道路が須賀線の跡。左の古い家屋は鉄道があった時代を知っているのだろうか。
軽バンとスクーターが走る道路が須賀線の跡。左の古い家屋は鉄道があった時代を知っているのだろうか。
南北線王子神谷駅のある“王子消防署前交差点”。須賀線の線路は写真中央部から手前へあった。都バスが走る道は都電があり、この交差点で平面交差していた。
南北線王子神谷駅のある“王子消防署前交差点”。須賀線の線路は写真中央部から手前へあった。都バスが走る道は都電があり、この交差点で平面交差していた。
対向二車線の道路が須賀線の跡。学校のある場所は陸軍造兵廠、戦後は工場群となり、このあたりで左へ分岐する工場線があった。
対向二車線の道路が須賀線の跡。学校のある場所は陸軍造兵廠、戦後は工場群となり、このあたりで左へ分岐する工場線があった。
紀州神社からみた須賀線。消防車を貨物列車に見立ててみたが、さぞかし昔は絵になったことだろう。
紀州神社からみた須賀線。消防車を貨物列車に見立ててみたが、さぞかし昔は絵になったことだろう。
須賀線の終点部には日産化学工場などがあった。いまは集合住宅が建ち並ぶエリア。
須賀線の終点部には日産化学工場などがあった。いまは集合住宅が建ち並ぶエリア。

線路は公園の先でプツッと途切れていた

北王子線に戻る。王子四丁目公園の傍らに残る“第1北王子踏切”の線路。線路が途中で途切れているのは、以前の踏切敷地がそこまでであり、マンション建設により道路敷地が広がったと思われる。
北王子線に戻る。王子四丁目公園の傍らに残る“第1北王子踏切”の線路。線路が途中で途切れているのは、以前の踏切敷地がそこまでであり、マンション建設により道路敷地が広がったと思われる。

さて、公園へと戻り、北王子線の続きを歩きます。と、勢いづいたのはいいのですが……。公園北側の“第1北王子踏切”部分で線路は途切れてしまい、その先は近年建設されたマンション群が立ちはだかっていました。

“ザ・パークハウス東十条フレシア”マンションの駐車場敷地へと同化する北王子線の跡。
“ザ・パークハウス東十条フレシア”マンションの駐車場敷地へと同化する北王子線の跡。
“第1北王子踏切”の延長線上にあるマンション共有地には線路を模した意匠がある。
“第1北王子踏切”の延長線上にあるマンション共有地には線路を模した意匠がある。

―第1北王子踏切―

こんどは第1北王子踏切の点描です。

踏切の向こうには新幹線が走り去っていく。活躍する鉄路と消えゆく線路。
踏切の向こうには新幹線が走り去っていく。活躍する鉄路と消えゆく線路。
ぷつっと切れた線路は公園脇で静かに時を刻んでいる。
ぷつっと切れた線路は公園脇で静かに時を刻んでいる。
途中で途切れた線路には哀愁が漂う気がする。
途中で途切れた線路には哀愁が漂う気がする。
公園側の線路はつい最近切断された。切り口がまだ新しい。
公園側の線路はつい最近切断された。切り口がまだ新しい。
撤去された警報機の土台。
撤去された警報機の土台。
西側からみた“第1北王子踏切”。脇の踏切柵は撤去されていた。
西側からみた“第1北王子踏切”。脇の踏切柵は撤去されていた。

北王子線の終端部は巨大マンション群となっていた

そして、北王子線の終点であった日本製紙王子倉庫は「ザ・ガーデンズ」という巨大マンション群へと再開発され、痕跡はマンション敷地へ消えてしまっているのです。

王子倉庫は2014年7月に閉鎖されたあと解体され、敷地は巨大マンション群へと再開発されます。分譲開始は2018年ごろだったとか。王子倉庫とその直前の線路は一足先に痕跡が消えていったのですね。

“第2北王子踏切”のあった場所。王子倉庫はこのように真新しいマンションとなった。大樹の横に倉庫内へ伸びる線路のゲートがあった。
“第2北王子踏切”のあった場所。王子倉庫はこのように真新しいマンションとなった。大樹の横に倉庫内へ伸びる線路のゲートがあった。

日曜日ということもあって、マンションからは家族連れや子供たちの団欒(だんらん)が聞こえ、人々が行き来する敷地の隅には桜並木があります。桜並木は王子倉庫時代からあったもので、再開発でもほぼ切られることもなく、人々の憩いの場として再出発しています。北王子線の線路は倉庫内に入ると、この桜並木に沿って側線が延びていました。

“ザ・ガーデンズ”となった王子倉庫のいま。桜並木は枝が剪定されているものの健在である。
“ザ・ガーデンズ”となった王子倉庫のいま。桜並木は枝が剪定されているものの健在である。

マンションのエントランスには、広軌かと思わせるようなやけに幅広い線路が埋められています。北王子線と王子倉庫の名残をオマージュしたものでしょうか。こうやってモニュメントとして残してもらえるのは嬉しいです。

倉庫時代はゲート脇にあった大樹はスダジイという。向こうには“第2北王子踏切”の跡が見える。
倉庫時代はゲート脇にあった大樹はスダジイという。向こうには“第2北王子踏切”の跡が見える。
スダジイの傍らには境界標らしきものがあった。
スダジイの傍らには境界標らしきものがあった。

マンション群となった倉庫敷地の傍らの道路には、踏切の痕跡がまだ残っていました。レール等で組まれた黄色い警戒色の柵です。それを眺めていると、自転車に乗った親子連れが近づき、幼児の男の子がすれ違いざま「ここに線路があったんでしょ?」と、親に尋ねていました。その子は北王子線現役時代を知っているのか、はたまた踏切跡の柵を見てそう言ったのか、直接その親子と話していないので分かりません。もし柵を見ての発言だったとしたら、なかなかな観察眼をお持ちのようです。

“第2北王子踏切”の警報機があった箇所。遮断棒が下りる部分は柵がかき取られている。
“第2北王子踏切”の警報機があった箇所。遮断棒が下りる部分は柵がかき取られている。
“第2北王子踏切”は踏切柵と警報機土台のみ残存している。
“第2北王子踏切”は踏切柵と警報機土台のみ残存している。

別れを惜しむかのように、再び線路の剥がされた跡を撮影する私の姿は、周りの人には不思議に映るようです。おばさんが「何を撮っているの?」と尋ねてきました。たしかに、工事関係者ではないのに、土が掘り返された土地を熱心に撮影する姿は目立ちます。

「線路のあった跡を撮っているんです。」

「ああ、なるほどね。これから出来るものではなくて、今まであったものを撮っているのね。」

そうです。つい最近まで存在したものを追っているのです。

また別の場所で“空き地”へ向けてカメラを構えていると、「ここに何があったんだろう?」と訝しげながら呟いて去る男性がいました。もう貨物線があったことなど知らない人もいるようです。

やがて、ここに貨物線が走っていたことは忘れられていくのでしょう。道路となった軍用鉄道や須賀線とは異なり、北王子線は遊歩道として再生される可能性があるので、少しでも鉄道のあった証が残されるよう願っています。

<おまけ>

2012年と2013年に何気なく撮った北王子線の空撮があります。貨物列車の走る時間帯ではなかったので走行シーンはありませんが、末期の北王子線の状況が分かるかと思います。どうぞご覧ください。

・2012年6月11日空撮

王子駅側から見た北王子線の全容。左端から伸びる単線が北王子線。
王子駅側から見た北王子線の全容。左端から伸びる単線が北王子線。
日本製紙王子倉庫と北王子線。倉庫は巨木の絵がシンボルだった。
日本製紙王子倉庫と北王子線。倉庫は巨木の絵がシンボルだった。
日本製紙王子工場。現在はマンション群へと変貌した。
日本製紙王子工場。現在はマンション群へと変貌した。

・2013年3月30日空撮

満開の桜並木と倉庫内の側線。
満開の桜並木と倉庫内の側線。
積荷が下りたコンテナ貨車が桜の下で休んでいる。
積荷が下りたコンテナ貨車が桜の下で休んでいる。
構内の貨車移動に使用した小さな機関車。線路もポイントが複雑に交差している。
構内の貨車移動に使用した小さな機関車。線路もポイントが複雑に交差している。

写真・文=吉永陽一

全国津々、廃線跡はたくさんあります。道路になった場所もあれば、人を寄せ付けない山中にひっそりと存在する場所もあって、廃線跡と言ってもその形態は千差万別です。私はまだ訪れていない廃線跡も多々ありますが、いままで出会ってきたなかで、これは聖地に値するなというところがあります。川越市にある、西武安比奈線です。今回はボリュームも多めに、二回に分けて紹介します。
掩体(えんたい)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。掩体とは、ざっくり言うと敵弾から守る設備のことです。大小様々な掩体があり、とくに航空機を守ったり秘匿したりするのには「掩体壕」というものがあります。これは航空機をすっぽりと覆う、大型の設備です。掩体壕はカマボコ屋根状のコンクリート製が多く、屋根の上に草木を生やして偽装する場合もあります。かつて、旧・陸海軍の基地周囲にはたいてい掩体壕が存在しました。戦後、掩体壕は解体されていきますが、元来空爆などから身を守る設備であるため解体しづらく、そのまま放置されて倉庫となるケースもあります。そして、掩体壕は東京都内にも存在しています。場所は調布市。調布飛行場の周囲に数カ所点在しているのです。
今から30数年前の東京臨海部。倉庫群の脇に線路があるのを見たことがあります。何の線路か分からなかったのですが、後に東京湾の埋立地を結ぶ貨物線だと知りました。戦後の高度成長期、東京湾の臨海部には貨物線が張り巡らされていました。この貨物線は「東京都港湾局専用線」。最盛期の1960年代には、汐留〜芝浦埠頭・日の出埠頭(芝浦線、日の出線)、汐留〜築地市場、越中島〜豊洲埠頭・晴海埠頭(深川線、晴海線)を結び、臨海部の貨物線網が形成されていました。その路線群はトラック輸送にバトンタッチして昭和末期に使命を終え、1989年には全面廃止。1990年代に入ると線路のほとんどが剥がされていきました。