炭坑に必要な施設の建物群と埋もれかけた憩いの場のプール

1897年まで現役だった護岸(右)に寄り添うようにして鍛冶工場の建物がある。護岸と工場の壁にはわずかな隙間があった。
1897年まで現役だった護岸(右)に寄り添うようにして鍛冶工場の建物がある。護岸と工場の壁にはわずかな隙間があった。
鍛冶工場を別角度から。2階に上がる階段が辛うじて残る。手前にせり出した部分は木造の建屋があったのか、いまは躯体だけが残っている。
鍛冶工場を別角度から。2階に上がる階段が辛うじて残る。手前にせり出した部分は木造の建屋があったのか、いまは躯体だけが残っている。
左手前の小ぶりな建物は鉄材工場だそうだ。坑道に必要な鉄材を製作していたのだろうか。
左手前の小ぶりな建物は鉄材工場だそうだ。坑道に必要な鉄材を製作していたのだろうか。
一面瓦礫となっているが、かつては木造建屋などが建ち、人々が行き交い、仕上がった製品が並んでいたのだろう。
一面瓦礫となっているが、かつては木造建屋などが建ち、人々が行き交い、仕上がった製品が並んでいたのだろう。
鉄材工場に開けられた、あるいは開口部であった空間から奥を覗く。30号棟がチラッと望めた。
鉄材工場に開けられた、あるいは開口部であった空間から奥を覗く。30号棟がチラッと望めた。

やがて左手にはプール跡が見えてきました。瓦礫で埋まりつつありますが、ちゃんと白線も残りプールと判別できます。25mプールだったそうで、真水ではなく海水を使用していました。いわゆる海水プールというやつですね。四方を海に囲まれているとはいえ、外海の波にさらわれるから遊泳禁止であったとか。プールは体力作りや憩いの場として人気のスポットだったそうです。

島民憩いの場のプール。1958年に完成した。プールは端島小中学校に設置されたが台風により破壊されたため、この場所へ整備された。25mプールである。
島民憩いの場のプール。1958年に完成した。プールは端島小中学校に設置されたが台風により破壊されたため、この場所へ整備された。25mプールである。
底部にはコースを表す白線も残っている。
底部にはコースを表す白線も残っている。
プールサイドの部分。プールは一段せり上がる構造であった。
プールサイドの部分。プールは一段せり上がる構造であった。
プールを取り囲む護岸は随分と分厚く頑丈である。こちらは南側に面している。コンクリート護岸からチラッと天川の護岸が望めた。ここも当初は天川工法で護岸が整備され、後年にコンクリート製となったのだろう。
プールを取り囲む護岸は随分と分厚く頑丈である。こちらは南側に面している。コンクリート護岸からチラッと天川の護岸が望めた。ここも当初は天川工法で護岸が整備され、後年にコンクリート製となったのだろう。

崩れゆく大正時代のRC造高層アパート「30号棟」

第3見学広場の目の前に広がる光景。30号棟は下請けの鉱員社宅で、竣工から106年経過(2022年時点)している。左隣の1957年築31号棟と比較すると柱と梁が壁面に浮き出ているように凹凸がある。残念なことに近年目に見えて崩壊が酷くなっている。
第3見学広場の目の前に広がる光景。30号棟は下請けの鉱員社宅で、竣工から106年経過(2022年時点)している。左隣の1957年築31号棟と比較すると柱と梁が壁面に浮き出ているように凹凸がある。残念なことに近年目に見えて崩壊が酷くなっている。

第3見学広場に到着です。と、目に飛び込んでくるのは、日本初のRC造7階建ての大正5年(1916)築「30号棟」です。日本のコンクリート建築の礎を築いた高層アパートの遺構が目の前に……。思わず息を飲みます。ツアー参加者も、感嘆の声を漏らしながら見入っています。

30号棟は狭い間隔の柱と梁が特徴的で、左隣の1957年築31号棟ののっぺらとした外観と比較すると、随分とゴツゴツとした印象です。外観からはわかりませんが、建物の中心部は吹き抜け構造となっており、真上からだと「ロ」の字となっているのです。

これがRC造黎明期の構造なのか。しばらく感心していると、ガイドさんは心配そうに「2020年3月に発生した強風が原因で大規模な崩壊が確認された」と話します。

30号棟は長年の風雨に晒されて劣化が激しく、長崎市は保存が困難として、補修せずに現状のままとなっています。また島内全体の建物群を補修して維持するのには、一千億円以上の予算が必要との見込み (長崎新聞2021年11月23日の記事から)。海に囲まれ、風雨、塩害、台風、時には地震に晒される建物群は、常に劣化していきます。朽ちていく遺構とどう向き合っていくか、課題は残されているのです。

30号棟の崩壊箇所を見る。2020年までは梁がしっかりと残っていたが強風により折れてしまい、アンバランスな状態となっている。
30号棟の崩壊箇所を見る。2020年までは梁がしっかりと残っていたが強風により折れてしまい、アンバランスな状態となっている。
30号棟の低層部分。小窓は便所のあった位置。柱と梁がほぼ正方形に組まれていて四畳半の部屋が連なっていた。崩壊しかけている部分を見ると建物の内部がチラッと望める。
30号棟の低層部分。小窓は便所のあった位置。柱と梁がほぼ正方形に組まれていて四畳半の部屋が連なっていた。崩壊しかけている部分を見ると建物の内部がチラッと望める。

30号棟は、パンフレットでは完璧な姿の写真が載っていますが、目の前で見る同じ建物は、2階から7階まで一部の梁が折れ、床板と壁面、屋上の屋根も崩壊しています。

今見ている面は南側です。西側も6〜7階の一部が梁ごと折れて崩壊しています。一部の梁が折れて崩壊するということは、建物全体にかかる負荷もバランスを欠いていき、再び強風などで崩壊箇所が広がることも考えられます。前出の新聞記事では余命半年と書かれていました。記事から半年以上経った現在でも形は残っていますが、今後の状況は油断なりません。

広場の手前には瓦礫が散乱している。鉄材工場の柱は鉄筋が覗き、30号棟もいつ大規模に崩壊するか分からない。これらの建物を現状維持しながら補強するのはかなり困難だという。
広場の手前には瓦礫が散乱している。鉄材工場の柱は鉄筋が覗き、30号棟もいつ大規模に崩壊するか分からない。これらの建物を現状維持しながら補強するのはかなり困難だという。
30号棟と31号棟の間は狭い道となり、奥に職員社宅の25号棟がチラッと顔をのぞかせている。31号棟が竣工する前は木造建屋が連なっていた。
30号棟と31号棟の間は狭い道となり、奥に職員社宅の25号棟がチラッと顔をのぞかせている。31号棟が竣工する前は木造建屋が連なっていた。

軍艦島上陸は天候と波次第。朽ちる前に早めの来訪を

見学ではこの場所が一番時間を取ってくれたので、柵越しにじっくりと崩壊しつつある30号棟を目に焼き付けました。隣の31号棟も一部の壁面は剥げて鉄筋が剥き出しとなり、地面は落下したコンクリート片が無数に飛散しています。ときおり建物の崩壊調査が行われているとのことですが、いつ上から降ってくるかわからないコンクリート片に注意しながら作業を行うのは大変なことだと察します。

帰り道は名残り惜しい。願わくば夕方まで滞在したいがツアーなので致し方ない。第二竪坑入坑桟橋付近から端島のコア部分である山頂と幹部職員用3号棟を見る。山頂へ続く道には幾多の島民が行き来したことだろう。第1見学広場のコンクリートが真新しく目立っていた。
帰り道は名残り惜しい。願わくば夕方まで滞在したいがツアーなので致し方ない。第二竪坑入坑桟橋付近から端島のコア部分である山頂と幹部職員用3号棟を見る。山頂へ続く道には幾多の島民が行き来したことだろう。第1見学広場のコンクリートが真新しく目立っていた。

私が参加したツアーでは、帰りの船の時間まで観察する人は少し残れました。6月にしては真夏並みの暑さでしたが、当然、私は時間いっぱいまで軍艦島に滞在していたのは言うまでもありません。

見学できる場所、撮影可能な角度や時間は限られますが、崩壊しつつある軍艦島の建物群を間近で見ると、柵越しに観察できることがどんなに安全で、見学が出来るだけでもうれしいです。

帰りがけに、もう一度端島小中学校を見る。校舎の屋上は植物が自生していた。手前右は貯炭場のベルトコンベヤー橋脚。柱にはうっすらと石炭が貯まって黒ずんだ跡が残る。
帰りがけに、もう一度端島小中学校を見る。校舎の屋上は植物が自生していた。手前右は貯炭場のベルトコンベヤー橋脚。柱にはうっすらと石炭が貯まって黒ずんだ跡が残る。
上陸は、晴れていても波の状況によっては必ずしも可能ではありません。が、直前まで天気アプリなどで波予報もチェックして、時間が許されるのであれば何度かチャレンジする気持ちで訪れてみてはいかがでしょうか。

念願の軍艦島上陸はあっという間でしたが、見学から2ヶ月経った今でも、眼前に広がる遺構のか姿が目に焼き付き、やはり私は「朽ちていくものが自然と共生する姿」に感銘を受けるのだなと、しんみり感じております。

取材・文・撮影=吉永陽一