冬に撮った作品を紹介する

<第1の戦車橋>

台枠は埋もれているが全体像は掴める。梁(はり)が一本ある構造だと分かる。小径からはみ出た部分にダクトと思しき穴が開いている。
台枠は埋もれているが全体像は掴める。梁(はり)が一本ある構造だと分かる。小径からはみ出た部分にダクトと思しき穴が開いている。
台枠の端部分はすぼまれている。小さい穴は取付用だろう。
台枠の端部分はすぼまれている。小さい穴は取付用だろう。

<第2の戦車橋>

流路が変わったのか、川は無かった。台枠にダクトがみえる。
流路が変わったのか、川は無かった。台枠にダクトがみえる。
台枠の端部はすぼんでいると思いきや、梁材が出っ張っていた。台枠と梁は肉抜きの穴が開いている。
台枠の端部はすぼんでいると思いきや、梁材が出っ張っていた。台枠と梁は肉抜きの穴が開いている。
ダクト部分。端部はボディ取付用と思しきマウントや、何かの機械を取り付けする部分があった。
ダクト部分。端部はボディ取付用と思しきマウントや、何かの機械を取り付けする部分があった。
横枠部分にも小穴が開いていた。これも何かのパーツを取り付ける穴と思われる。
横枠部分にも小穴が開いていた。これも何かのパーツを取り付ける穴と思われる。

以上で戦車橋の概要は終わりなのですが、ちょっと物足りない感じがしますよね。私もどこか消化不良を感じています。そもそもなぜ横沢入に、こんな台枠が2つも転がっているのか。橋に転用して、一ヶ所は川の流路が変わって用無しとなっている。戦車橋と言うが、台枠は本当に戦車のものなのか。

戦車橋は戦車ではなかった

横沢入の戦車橋は目立たない存在もあって情報量が少ないです。判別したのは、戦車ではなく、牽引車と呼ばれる車両の台枠でした。形式は昭和初期に造られた「九二式試製3トン牽引車」か、「九四式試製3トン牽引車」のどちらかではないか。台枠の寸法から、これらの車両が推測されたようです。牽引車はトン数別に数車種存在し、どの車両も加農砲、貨物などの牽引に活躍しました。

だいたいこんな感じの構造。
だいたいこんな感じの構造。

では誰が推測したのかというと、横沢入里山保全地域で活動する団体「伊奈石の会」によって『伊奈石の会会報誌 伊奈石 第4号 別冊 横沢入の戦争遺跡調査報告』が纏(まと)められました。この報告によると、台枠の寸法と形状から、上記の牽引車が妥当と結論づけたとのことです。以下、記述を要約して引用します。

『戦車であればボディ(装甲部)と台枠は一体構造。小型の九五式軽戦車を例にして、構造材の鉄材は厚さ9~12ミリの特殊鋼。対して戦車橋の台枠はボディ部と一体構造ではない。鉄材の厚さは6ミリ。鉄材を蛍光X線分析した結果はマンガンとケイ素を含んだ鉄で、特殊鋼ではない鉄であった。台枠の全長は約3.3m。戦車は小型でも5m以上。寸法が似ている偵察車は4.5m以上であり、実寸と一致する車両は試作の牽引車だった。』(伊奈石の会会誌 伊奈石第4号別冊 横沢入の戦争遺跡調査報告より抜粋)

私が実寸し、防衛研究所などにある資料を再検証したわけではなく、この調査報告を紹介したのみですが、全長4m未満は軍用車両でも小型の部類となり、牽引車であった可能性は十分高いと言えましょう。

なお、防衛研究所へ問い合わせたのですが、試製牽引車に関する書物は見当たらないとのことで、今後も牽引車のことを思い出したときに調べていきます。もしこの記事によってどなたかが調査して判明なさったら、きっかけを作って有意義なことをしたかなと思う次第です。

想像で恐縮だが牽引車を想像して描いてみた。似たようなトン数の牽引車を基にした。
想像で恐縮だが牽引車を想像して描いてみた。似たようなトン数の牽引車を基にした。

それが里山の小径に置かれていたのは、壕を整備する際に貧弱な木橋を架け替えるため、牽引車の台枠を使用した。戦後まもなく、壕にあった台枠を用いて橋にした。と、2通りの説があります。どれが本当の経緯なのか謎な部分が多いです。ただ分かっているのは、のどかな東京の里山に牽引車の台枠が橋となっていることです。

この季節、少しでも涼を求めて訪れるのも良いでしょう。里山と自然のにおいは、心と体を落ち着かせてくれます。ただし、台枠はほとんど草に埋もれているので、期待はできません。晩秋から春先がおすすめです。

取材・文・撮影=吉永陽一