日本丸メモリアルパークから始まる汽車道。

さて、汽車道は手軽に訪れられる廃線跡なので、散策された方も多いかと思います。私は横浜方面をよく空撮するので、今回は視点を変えて廃線跡の空撮を紹介します。空撮日は2021年7月12日と9月7日。最新の空撮となります。

横浜港は汽車道の廃線跡以外にも鉄道の歴史が点在しています。まず桜木町駅は1872年の日本初の鉄道の横浜駅でありました。桜木町駅から横浜駅間は、2004年までは東急東横線が京浜東北線と並走していました。

初代横浜駅の位置、東横線の廃線跡と、気になるところはあります。今回もまた懲りずに全2回の紹介をいたしますので、お付き合いくださいませ。

前回は横浜港の臨港線を紹介しました。今回は桜木町駅と横浜駅までの廃線跡を上空から紹介します。空撮日は2021年7月12日と9月7日です。

明治時代に開発された新港埠頭と橋梁が残る元臨港線の「汽車道」

汽車道にある2つのトラス橋。複線のプラットトラスという種類。

汽車道のメインといえば新港埠頭に至る海上築堤とトラス橋です。新港埠頭は、明治期から埋立工事と整備が始まった港湾施設のひとつで、地上設備も整ったのは1917年(大正6)です。臨港線は埠頭アクセスとして海上に築堤を築いて線路を敷設しました。臨港線の開通は一足早い1911年(明治44)です。

岸壁部を除いた新港埠頭の全景。海側から撮る。赤レンガ倉庫は左側。現役時代は線路と倉庫だらけであったという。
日本丸メモリアルパーク(左)と汽車道入口。YES’89の臨港線鉄道の駅は汽車道の始まる付近に仮設で建設された。道路や手前のビル群から桜木町駅にかけては東横浜貨物駅であった。

臨港線の海上築堤は横浜港の中をきれいな弧を描いて、新港埠頭へ通じています。二つのトラス橋は、港一号、港二号といい、1907年アメリカ製(アメリカンブリッジ社)です。

港二号橋梁
港一号橋梁
港一号橋梁の反対側

さらに埠頭側のポニーワーレントラス橋はイギリス製で、1906年に製造されたもの。ただし、元から臨港線に架かっていたものではなく、すぐ近くの大岡川に架かっていた旧・生糸検査専用線用の3連橋梁のうちの一つです。廃止後の汽車道整備の時に、わざわざ長さを縮めて架け替えたのです。

これら2枚は港三号橋梁。汽車道整備のために大岡川に架かっていたポニーワーレントラスの1連を架けた。ポニートラスは上部の上横構と呼ぶ斜めの材料などがなく小ぶりなトラス橋である。

それまで架かっていたのはプレートガーダー橋らしいのですが、ネットに転がっている古い映像を見ても、形状はいまいち判明しませんでした。典型的な上路式(鋼板の主桁の上に線路が乗っかる)タイプかと推察しているのですが……。

なおポニーワーレントラスとは、主に短い桁で使用されるトラス橋で、「上横構」と呼ぶ上部にある斜めの補助材や、両端上部の門柱のような「橋門」がなく、左右のトラス主構で構成される種類で、長くても100フィートほどです。

赤レンガ倉庫は左側の棟はテナントが入り右側は美術館などとなっている。『あぶない刑事』のエンディング曲が脳裏に流れてくる……。

新港埠頭を見ましょう。みなとみらい21地区の再整備によってほとんど再開発され、元々埠頭にあった施設はほとんどありません。その中で一際目立つのが、二棟の赤レンガ倉庫です。臨港線と同年に竣工した横浜新港埠頭保税倉庫を保存し、美術館やショッピングモールとして再出発しています。

私はドラマ『あぶない刑事』のエンディングで、タカとユウジが走る8ミリ映像のシーンのほうが印象にあります。たぶん40代以上はそれを思い出す方も多いはず(笑)

この赤レンガ倉庫や埠頭内には、線路が張り巡らされていました。横浜港に突き出ている岸壁には貨物線以外に客船も接岸したので、客船利用者のアクセスのため東京駅と新港埠頭を結ぶアクセス列車「ボートトレイン」が運行され、岸壁には横浜港駅が新設されました。

上から見ているので地面と同系色になって擬態化しかけているが駐輪場右横に短いプラットホームとT字状のホーム屋根が見える。保存された横浜港駅の一部分である。線路も分かる。

ボートトレインは横浜港唯一の旅客列車でした。関東大震災や戦災を経て1960年の廃止まで、客船利用者の足となったのです。横浜港駅の跡にはプラットホームと屋根の一部が残されており、この辺に線路があったんだなぁとおぼろげに想像できます。

埠頭の先も「汽車道」は続き高架橋へとなる

新港埠頭の先を見ます。ちょっと目立たないですが、埠頭南側にポニーワーレントラス橋が掛かっています。これは1912年竣工の新港橋梁で、浦賀船渠株式会社が製造した国産橋梁です。材料の鋼材はアメリカ製で製造は日本という、橋梁が輸入から国産化へシフトする過程に誕生した貴重な橋梁です。

新港橋梁は日本製だ。汽車道にはアメリカとイギリスと日本の橋梁が同居している。

初期の臨港線は新港橋梁の先で終点だったとのことです。その先に高架橋が続いているのが見えます。これは1965年に開通した貨物線です。戦後、横浜港の南に山下埠頭が造成され、その連絡線として臨港線を延伸しました。高架橋となったのは、延伸路線が山下公園内を突っ切るため景観に配慮したとのことです。

外国船員から「クイーン」と呼ばれた横浜税関の尖塔。延長された臨港線高架橋端付近にある。

立派な高架橋が造られた臨港線延伸部分ですが、活躍の機会はそこまで長くありませんでした。せっかく延伸開通したところ、世の中はモータリゼーションで貨物はトラック輸送へとシフトしていき、貨物列車の運行も減ってやがて廃止され、僅か21年の短い生涯を閉じたのです。

延長部分の高架橋を真上から俯瞰気味に。左側が山下公園で中心部が象の鼻パーク。

その短い生涯のなかでは、1980年に横浜開港120周年記念事業の一環で、京都梅小路蒸気機関車館(現『京都鉄道博物館』)所蔵のC58形蒸気機関車1号機を横浜まで回送し、東横浜(現・廃止、桜木町駅北側の日石横浜ビル周辺にあった)〜山下埠頭間の記念列車を走らせたことがありました。C58は当時動態保存されており、高架線と海上築堤をSL列車が走ったのです。

また冒頭で述べたように廃止後にYES’89の旅客列車に利用され、山下公園内の高架橋途中に仮設終点駅が設置されていました。(これに乗ったはずなんですが、山下公園の駅は覚えていないのです。)

限定の臨時列車とはいえ、2度も旅客を運用した高架橋は、現在も半分ほど残されています。先ほどから続いてきた汽車道が、そのまま高架橋へ続いているのです。

象の鼻パークから山下公園を見る。臨港線現役時は高架橋が氷川丸の先にある山下埠頭まで続いていたが廃止後公園内の高架橋は解体された。

場所は「象の鼻パーク」と呼ばれる場所で、明治時代に防波堤が築かれ、その形状が象の鼻に似ているとのことです。この防波堤は関東大震災を経て直線的な形状へと変化をしていきましたが、横浜開港150周年事業の一環で2009年に往時の姿へ復元されました。

象の鼻パークを陸側から。明治時代は手前の道路付近に税関の建物があったそうだ。
象の鼻パークを海側から。特徴ある防波堤は1896年頃にこの形状となった。背後の高架橋が臨港線の廃線跡転用の汽車道だ。

また周辺整備の際は倉庫の基礎や、軌道と小さな転車台も発掘されました。明治中頃に整備されたもので、岸壁から横浜税関の建物へ荷役する際に使用されたものだとか。転車台が見えるよう、再整備された地面の一部がガラス貼りとなり、小さな貨車用転車台が見学できます。

臨港線の傍らで発見された貨車用の軌道と小転車台はこのガラス張りから観察できる。真上から垂直気味に空撮した。
汽車道の終点。高架橋がプツッと途切れている。左は山下公園だ。

廃線跡の高架橋は象の鼻パークと転車台を横目に進み、山下公園のところでプツっと切れています。その先は高架橋も解体され、公園へときれいに整備されていました。

戦後に活躍した山下埠頭の線路群も、いまや跡形もなく、貨物線を偲ぶものは見当たりません。でも、汽車道として現役当時の設備を利用して、海上築堤から山下公園まで歩けるのは嬉しいことです。

左の山下公園から右の山下埠頭へと延長された貨物線の線路はあった。上空からだとその痕跡は判別しにくかった。若干線路跡の道路の色味が異なるくらいだ。

次回は、桜木町駅から横浜駅の上空を見てみましょう。

取材・文・撮影=吉永陽一