極寒と豪雪地帯を走った深名線は鉄道ファンに人気な路線であった

深名線の主力はキハ53形気動車だった。この写真は廃止直前の定期運行列車で、さよならヘッドマークを掲げ、キハ40形とキハ54-500形を増結して運転していた。ホームから外れた場所でもドアが開閉されていた(朱鞠内駅 1995年8月)。
深名線の主力はキハ53形気動車だった。この写真は廃止直前の定期運行列車で、さよならヘッドマークを掲げ、キハ40形とキハ54-500形を増結して運転していた。ホームから外れた場所でもドアが開閉されていた(朱鞠内駅 1995年8月)。

深名線は全線タブレット閉塞でワンマン化されておらず、交換駅の幌加内駅と朱鞠内駅は腕木式信号機で、か細いレールが続き、朱鞠内を除く駅は全て木造駅舎でした。また幌加内町は北母子里地区で-41.2度を記録したほどの極寒地域であり豪雪地帯のため、冬季の深名線はラッセル車だけでなく「特雪」と呼ばれたDD14形ロータリー式除雪機関車による除雪作業が冬の風物詩でした。鉄道ファンからは「最後の国鉄」と親しまれ、多くの旅人や撮影ファンが魅了し、私もその1人だったのです。

幌加内駅と朱鞠内駅は廃止までタブレットによる通票閉塞で、信号機は昔ながらの腕木式を使用し、駅員が駅舎脇に備えられていたテコを操作して信号機を変えていた(幌加内駅 1994年7月)。
幌加内駅と朱鞠内駅は廃止までタブレットによる通票閉塞で、信号機は昔ながらの腕木式を使用し、駅員が駅舎脇に備えられていたテコを操作して信号機を変えていた(幌加内駅 1994年7月)。
朱鞠内駅にて上下列車交換。駅長が手にするのはタブレットを収納したキャリア。1990年代は深名線以外でも全国数ヶ所のJR路線でタブレットの閉塞が行われていた。到着したのはキハ53形の代走で運用についたキハ54形(1994年7月)。
朱鞠内駅にて上下列車交換。駅長が手にするのはタブレットを収納したキャリア。1990年代は深名線以外でも全国数ヶ所のJR路線でタブレットの閉塞が行われていた。到着したのはキハ53形の代走で運用についたキハ54形(1994年7月)。

当時の私は高校生で、廃止のときまで可能なかぎり訪れ、廃止後も幌加内町へ旅を続けています。廃線跡は断続的に28年間見続けてきましたが、この数年はコロナ禍でご無沙汰していて、2023年4月に約4年ぶりに幌加内町へと訪れました。

廃線跡は廃止後しばらくして沿線の自治体へ移管され、平地部分は農地に転換されてほぼ跡形もなく消えています。山間部は成長著しい草木に覆われてあっという間に飲み込まれ、痕跡は大地へと没し、大自然に埋もれたトンネルや橋台を探すのは大変な労力がかかります。ヒグマも生息しているため、生半可には訪れられません。

久しぶりの廃線跡巡りは、一箇所見ておきたいところがありました。添牛内駅跡です。同駅は縦に長い幌加内町の中ほどに位置し、町の南北を貫く国道275号線から羽幌方面へ分岐する国道239号線の分岐地点にあります。

残された駅舎のうち沼牛駅舎に続いて添牛内駅舎がよみがえる

深名線の廃線跡は多くが大地へと還っているなか、鷹泊、沼牛、政和、添牛内の各木造駅舎が残存し、天塩弥生駅跡には木造駅舎を新たに建てた旅人宿「天塩弥生」が営業しています。沼牛駅舎は倉庫として利用していた地元の方が中心となって「おかえり沼牛駅実行委員会」を立ち上げて修繕し、現役当時の姿を再現した美しい姿となって保存され、維持管理やイベントを行っています。

沼牛駅はクラウドファンディングの援助もあって修繕作業を実施し、2016年11月に修繕完了お披露目となった。豪雪地帯のため毎年の除雪作業は欠かせない(2023年4月)。
沼牛駅はクラウドファンディングの援助もあって修繕作業を実施し、2016年11月に修繕完了お披露目となった。豪雪地帯のため毎年の除雪作業は欠かせない(2023年4月)。

沼牛駅はもちろん立ち寄ったのですが、今回紹介するのは添牛内駅です。この駅舎も地元の方が中心となってクラウドファンディングを実施し、2022年に美しい姿となったばかり。沼牛駅舎に続き添牛内駅舎も蘇ったので、その姿を拝みに向かいました。

添牛内駅が現役のころは、冬が思い出されます。雪壁は駅舎を覆い尽くすようで、出入口のみが除雪され、駅名標も埋もれかけていました。東京から訪れてきた高校生には、その光景だけでも絵になり、いや、絵になると思って無我夢中にシャッターを切るだけで未熟な表現でしたが、とにかく雪と駅舎が強く記憶に残っています。

添牛内駅には廃止の年の冬に訪れた。雪の多い年では駅舎が隠れるほど雪壁がそびえ立ったそうだが、最初で最後に訪れた冬は暖冬だった。
添牛内駅には廃止の年の冬に訪れた。雪の多い年では駅舎が隠れるほど雪壁がそびえ立ったそうだが、最初で最後に訪れた冬は暖冬だった。
雪が少ないといいつつも、駅名標はご覧のとおり埋もれていた。夜になると駅名標とホームを照らす白熱電灯が暖かく、雪壁も白熱灯のオレンジ色に染まっていた。
雪が少ないといいつつも、駅名標はご覧のとおり埋もれていた。夜になると駅名標とホームを照らす白熱電灯が暖かく、雪壁も白熱灯のオレンジ色に染まっていた。
ホーム側を見る。雪壁が駅舎を覆い、出入口部分だけが除雪されていた。列車の発着は雪によってエンジン音や走行音が吸収されて静かだった。
ホーム側を見る。雪壁が駅舎を覆い、出入口部分だけが除雪されていた。列車の発着は雪によってエンジン音や走行音が吸収されて静かだった。
添牛内駅は一面一線ホーム構造であったが、当初は交換設備可能な駅であった。奥のほうは深名線を渡る国道の跨線橋で、この橋は今も残っている。
添牛内駅は一面一線ホーム構造であったが、当初は交換設備可能な駅であった。奥のほうは深名線を渡る国道の跨線橋で、この橋は今も残っている。

紹介した写真は1995年2月で、この状態でも雪が少ない年でした。「特雪」も運転されず、ラッセル車は雪かきをしない回送運転のみ。しかもカメラの露出を間違え、貴重なポジフィルムで撮ったラッセル車の写真がかなりアンダーでダメだった散々な結果も、ついでに記憶されています…… デジカメの言葉すら生まれる前の時代でした。

倉庫として使用されなくなってからは、添牛内地区に住む人々によって除雪作業が行われていたが、外壁は徐々にくたびれていった(2015年12月)。
倉庫として使用されなくなってからは、添牛内地区に住む人々によって除雪作業が行われていたが、外壁は徐々にくたびれていった(2015年12月)。

悲喜こもごもの記憶の詰まった添牛内駅舎は、廃止後も残されたことが嬉しかったです。しばらくは農業倉庫として使われていたようですが、後年は放置状態なのが気がかりでした。このまま朽ちていくのかと心配でしたが、あるときSNSで添牛内駅舎復活プロジェクトのクラウドファンディングを知り、ささやかながら応援をしました。これで復活できることをと祈りながら……。

まるで新築のような輝きとなって出迎えた添牛内駅舎

屋根が朱色に輝いている!

レンタカーを運転しながら前方に見えてきた駅舎は、曇天の空模様でも輝く朱色のトタン屋根でした。遠景でも美しくなっていることに心躍ります。“駅前”に立つと、木造駅舎の屋根と壁が新築のように輝いています。

見事に蘇った添牛内駅舎。くたびれていた外壁も張り直した。窓は冬季なので雪囲いされている。屋根は見違えるように朱色に輝き、損傷していた箇所もきれいに直っていた(2023年4月)。
見事に蘇った添牛内駅舎。くたびれていた外壁も張り直した。窓は冬季なので雪囲いされている。屋根は見違えるように朱色に輝き、損傷していた箇所もきれいに直っていた(2023年4月)。

“廃なるもの”は朽ちていく美しさがあって、経年とともに劣化する姿に魂が宿っていくというか、年輪のようなものを感じて惹き込まれるのですが、こうして美しくなる姿にも「ほんとうに良かった……」と胸に込み上げてくるものを感じます。朽ちていくばかりが廃墟ではなく、ただ大事なのは単なる復元ではなく、現役当時に敬意を表しているかだと思うのです。

添牛内駅舎は窓に雪囲いがされていますが、その姿も初々しさがあって、これから深名線が開通するのではと錯覚めいた気持ちになってきます。添牛内駅は昭和6(1931)年に開業したのですが、その当時はこのような輝きをもって地域住民達に祝われたことでしょう。いまにも駅舎の背後に蒸気機関車がやってきそう。

ホームはそのままの状態で残されていた。雪が覆っているから分かりづらいが背後には跨線橋が残り、そこから手前へと線路が伸びていた。廃止時のままのホームと、修繕が完了して蘇った駅舎の姿が印象に残る。
ホームはそのままの状態で残されていた。雪が覆っているから分かりづらいが背後には跨線橋が残り、そこから手前へと線路が伸びていた。廃止時のままのホームと、修繕が完了して蘇った駅舎の姿が印象に残る。

駅舎を一まわり。土台もしっかりとしていて、何より壁面の柱が薄緑色になっていることに目が止まります。そういえば現役のころはこのような色合いでした。ホーム側へまわると、廃止後も残されてきたホームと側壁のコンクリートが雪から覗いていました。背後の国道239号線は深名線を渡っていた跨線橋が残り、まっすぐと線路が続いていたことが思い出されます。年季の入ったホームに美しく蘇った木造駅舎。このコントラストもまた良いものですね。

交換設備があった時代はホームが向い合せにあった。反対側のホームへと渡っていた階段部分が蓋をされて残る。
交換設備があった時代はホームが向い合せにあった。反対側のホームへと渡っていた階段部分が蓋をされて残る。
駅舎のホーム側には交換設備のポイントや信号機を操作したテコが設置されていた。ゼブラカラーに塗られた操作台が残っている。
駅舎のホーム側には交換設備のポイントや信号機を操作したテコが設置されていた。ゼブラカラーに塗られた操作台が残っている。

駅舎が復活するに至った経緯を蕎麦店の店主から伺う

駅舎ホーム側のヒサシ部分は廃駅後に撤去されましたが、かつての駅務室部分の窓もきれいに整っています。これだけ修復するのは大変であったことだろうと推察します。

修繕前は土台部分の柱も全て腐っていて、一体どうやって駅舎の形を保っていたのか不思議な状態だったとのこと。添牛内駅舎は地元の方々が引き継ぐ形で管理され、屋根の雪下ろしといった除雪作業などを行ってきました。

外壁の板も張り替えた。木造駅舎ゆえに見えない箇所は相当腐っており、修繕では骨組みに近い状況まで解体してつくりかえたという。
外壁の板も張り替えた。木造駅舎ゆえに見えない箇所は相当腐っており、修繕では骨組みに近い状況まで解体してつくりかえたという。

また近隣から個人的に修繕をする鉄道ファンの姿もあり、全く放置されていたわけではありません。しかし、自然崩壊するのも時間の問題でした。そして、添牛内に住む有志がどうにかしたいと相談したのがきっかけで繋がりが広がり、駅舎復活プロジェクトが立ち上がりました。

駅舎の工事進捗状況はクラウドファンディングの報告やSNSから知りましたが、根元から腐っていた駅舎が見違えるまでの復活工事は驚嘆です。詳しい経緯は長くなってしまうので……すいません、ここでは割愛します。

土台部分。基礎の上に乗っていたとはいえ、柱は全て腐っていた。施工会社と打ち合わせ、約1年半に渡って図面を引き、材料を検討してくれたという(2023年4月)。
土台部分。基礎の上に乗っていたとはいえ、柱は全て腐っていた。施工会社と打ち合わせ、約1年半に渡って図面を引き、材料を検討してくれたという(2023年4月)。

駅舎をじっくり観察した後は、斜向かいにある蕎麦屋『霧立亭』へ伺います。店構えは旧添牛内郵便局の建物で、それはそれで気になるのですが、添牛内駅舎プロジェクトの中心となる山本昭仁さんが店主であり、名物である幌加内蕎麦をいただきながらお話を伺いました。

「沼牛駅の復活工事をする際に助っ人的に参加した大工さんが、添牛内駅を請け負って下さった建設会社に勤めていて、その繋がりで工事をお願いしました」と山本さん。

幌加内町育ちの山本さんは添牛内で蕎麦店を切り盛りしながら、廃止後も脈々と維持されてきた駅舎を蘇らせたいと、地元の有志3人で相談したのが始まりで、その輪は徐々に広がっていき、7人のメンバーが集う保存会となりました。

駅舎の照明は現役時代から残存していた。駅名標は当初木目に黒文字であったが、黒地に白文字となったという。駅を個人的に修繕してきた鉄道ファンが塗色し掲げられていた(2023年4月)。
駅舎の照明は現役時代から残存していた。駅名標は当初木目に黒文字であったが、黒地に白文字となったという。駅を個人的に修繕してきた鉄道ファンが塗色し掲げられていた(2023年4月)。

ネックは資金ですが、偶然に繋がってきた人々の輪の中から、クラウドファンディングを立ち上げ、SNSのシェアが広がって実現へと漕ぎ着けました。文章では簡単な経緯ですが、駅舎が復活するに至るまで、お店を営業しながら幾多の試行錯誤と出会いがあったことでしょう。

山本さんから提供された写真。昭和50年代の駅員がいた時代の姿である。添牛内駅無人化は昭和57年だ。柱と梁、屋根の再現イメージはこの時代である(提供:添牛内駅保存会)。
山本さんから提供された写真。昭和50年代の駅員がいた時代の姿である。添牛内駅無人化は昭和57年だ。柱と梁、屋根の再現イメージはこの時代である(提供:添牛内駅保存会)。

「添牛内駅は柱と梁の色が変わり、利便性のためか入口を変えたり、外壁を変えたりした痕跡があります。この駅舎は時代の流れで変化しながら残されてきた姿を再現しています」

柱と梁の色合いは昭和50年代当時の姿をイメージしているとのことです。駅舎は保存会が年に数回草刈りをしており、駅前にある花壇は元添牛内の住民の方が世話をし、地域のみんなで見守っています。今後は駅舎内を整備して、駅前も整えていく予定です。

添牛内駅舎は人々に愛されながら集う場所として、これからも活躍していくことでしょう。また訪れるのが楽しみです。

<添牛内駅舎の変化をまとめました>

取材・文・撮影=吉永陽一