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「あら、来たの! ここ座りな」

南千住のコツ通りの端にある居酒屋『とんぼ』は、2023年3月から深夜営業を始めた。夕方5時から深夜24時までママ、24時から朝5時まで息子のシゲルさんが営業している。ママは入ったばかりのシゲルさんを心配して、朝方までカウンターの隅に座っていることが多い。今日の客は、常連男性2人。わたしは大好きなママの隣に座る。

「さっき日払いでもらった3000円しかないんです。3000円超えないようにお願いします」と言うと、シゲルさんは大笑いで「いい金の使い方だ」と言い、ママは申し訳なさそうに「いつもありがとねえ」と言った。

キンミヤ焼酎のキープボトルと、氷と緑茶のセットを出してもらう。最初の一杯はママが作ってくれる。ママの作るお酒は格別だ。

「ガールズバーの調子はどう?」

「ガールズ婆バーですよ」

常連の田村さんが、「なにそれ?」と興味深そうに聞いてくる。システムはガールズバーだけど、キャストの女性たちはババア。そうシンプルに説明すると、さらに興味を持ったようで、ババアって何歳だ、料金はいくらだ、ババアも酒を飲むのか、と根掘り葉掘り聞いてくる。どうやら店に来たいらしい。

しかし、カウンター越しの接客だと言うと、「やっぱり隣に座ってほしいよね。寂しいもん」と奥の男性が言った。60歳くらいだろうか。結婚しているようだが、それでも寂しいときがあるのだろうか。だからこうして、深夜の『とんぼ』に来るのだろうか。独身で、実家住まいで、41歳にもなってガールズバーで働くわたしと、この男性とどちらが寂しい人間なのだろうかと考えるも、答えは出ない。

「田村さん、なんでキョロキョロしてるの!」

突然、ママが言った。ふと田村さんを見ると、右を見たり左を見たりという動作を高速で繰り返している。「なんでキョロキョロしているのか」という質問には答えず、一心不乱に真顔で高速キョロキョロする田村さんを見て、わたしは緑茶ハイを吹き出しそうになった。まずい。ここで吹き出したら大惨事だ。ベートーベンのことを考えよう。

子供の頃から、笑ってはいけない場面で笑いそうになったとき、ベートーベンのことを考えるようにしている。ベートーベンの壮絶な人生を思えば、笑っている場合ではないからだ。これが効果てきめんで、わたしは幾度となくベートーベンに助けられてきたのだが、いつの間にかそこまで心から笑う機会も減り、今日、数年ぶりにベートーベンに思いを馳せたことに気づいてハッとする。昔は笑い上戸だったんだけどな。まあ、無駄に皺を増やしたくないから、べつに笑わなくてもいいのだが。

ガールズバーで働き始めてから、笑い皺が増えた。接客業ほぼ未経験で、元々口下手だ。トークスキルは皆無に等しく、ならばひたすらニコニコするしかない。店が閉まると、更衣室の鏡を見ながら、さっきより深く刻まれたほうれい線を指でクイクイと伸ばす。なんでこんなことになってしまったのか……。じっと手を見る。

2021年の夏に一人暮らしを始めた。ライターの仕事とニュース記事チェックの仕事で、生計は立てられるはずだった。しかし、やりくりが下手すぎるせいか、いつもびっくりするほど金がなかった。月末は全財産が数百円というときも多々あった。

2022年の秋、ついに家賃を滞納し、保証会社から鬼電が掛かって来た。怖くて出られずにいたら、着信履歴の間隔が5分、3分、2分と短くなっていく。ホラー映画のようだった。折り返しの電話を掛けると、野太い声の男性にまあまあヤバめのトーンで詰められた。

「いつ払えるんですか?」

払えない――。このときわたしは、初めてリアルに死を意識した。金で人は死ぬし、金があれば人は生きられる。金、金、金……。とにかく金がほしい。

アルバイトをすることにした。スナックが好きで、いつか働いてみたいと思っていたため、スナックの求人を探した。面接に行くと採用されたが、スナックではなくガールズバーだという。いい歳してガールズバーで働くことに抵抗はあったが、体験入店したところ、非常に働きやすい店だった。キャストの女性は40代が中心で、明るく気のいい人ばかり。それよりなにより、早急に金がほしい。ここで働く以外に選択肢はなかった。

キャバクラではないので、セクシーなドレスを着る必要はない。上はシャツ、下はスカートならなんでもいい。なけなしの金で、真っ赤なシャツを買った。暗い色の服を着るキャストが多かったため、店長に「いい色だね、人気出るよ」と褒められた。

しかし、一向に人気は出なかった。緩い指名制なのだが、いつまで経っても指名はゼロ。この店のキャストに求められるものは、とにもかくにもトークスキルだ。若い子の店とは違い、ニコニコしているだけでは指名は取れない。どうしたものかと考えた。

……そうだ、プロレスだ。プロレスの話をしよう。わたしの唯一の趣味。仕事でプロレスラーの取材もしているし、プロレスの本だって2冊出版している。プロレスの話ならそれなりにできるはずだ。

「プロレス好きですか?」と聞くと、ほとんどの客が「昔は観てた」と言う。三沢と小橋はすごかったよ、闘魂三銃士が好きだった、武藤敬司は昔“フサフサ”だったんだよ。プロレスファン歴8年のわたしにとって、昔の話は新鮮で楽しかった。わたしも武藤のプロレスLOVEポーズを披露したりして、喜ばれた。指名も少しずつ増えていった。楽しい日々だった。ガールズバーも悪くない。

そんなある日、いつものように「プロレス好きですか?」と聞くと、「好きだよ」と言われた。好きな選手を聞くと、長与千種だという。キタ、キタ、キタ、キタ! クラッシュ・ギャルズに憧れ、いまも長与の団体・マーベラスを応援しているわたくしですよ? どっからでもかかってきてください! 目を輝かせていると、次の瞬間、その男性はこう言った。

「プロレスは八百長だから」

ふ・ざ・け・る・な。

そんな話がしたいんじゃない。

わたしが「プロレスほどリアルな感情が見えるスポーツはない」と言っても、男は聞く耳を持たず、ひたすらプロレスがいかにくだらないものか、ニヤニヤと語り続けた。ブスだのババアだの言われるのは構わないが、プロレスを馬鹿にすることだけは許せない。酒をぶっかけてやろうかと思ったが、どうにかこうにか堪えた。

今日ばかりは『とんぼ』に寄らずにはいられない。そうしてこの日、日払いの3000円をもらい、わたしは深夜の『とんぼ』に来たのだった。

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深夜3時半、お会計をお願いすると、シゲルさんに小さな紙切れを渡された。「1300円」と書かれている。よし、明日も『とんぼ』に来られる。明日もなんとか生きられる。

文・イラスト=尾崎ムギ子