元日、ふと「レズビアンバーに行こう」と思い立った。男に懲(こ)りてレズビアンになる。安易すぎる発想かもしれないが、そのときのわたしにとってはその安易さが救いに思えて、思い立ったが吉日。マッチングアプリで繋(つな)がったレズビアンのトランスジェンダー女性を誘い、レズビアンバーに行くことになった。

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待ち合わせ場所の新宿東口に現れたトランス女性は、割かしゴツめの体格をしていた。ウィッグをつけて化粧をし、フリルのスカートを履いているが、男性にしか見えない。新宿2丁目に向かいながら「心は女性なんですか?」と聞くと、「自分でもよくわからない。女の子が好きだし、ただの変質者のような気もする」と言われ、言葉を失った。

店に入ると、女性客の異物を見るような視線が痛かった。そりゃそうだろう。わたしの隣にいるのはどう見ても男なのだ。もしかしたらわたしも、レズビアンには見えなかったのかもしれない。女性たちに話しかけてもそっけない態度をされ、すっかり意気消沈してしまい、1杯で店を出た。

外で煙草を吸いながら、自称トランス女性に言われた。「この街では女としてのアドバンテージが通用しない」――。普段、女というだけで男にチヤホヤされるが、ここでは女というだけじゃモテないということらしい。「この人は男にチヤホヤされているのだろうか……」と疑問に思いつつ、一理あるなと思った。常日頃、飲み歩いていて、男性に声を掛けられたり奢(おご)られたりすることを当然と思っている節はある。男女平等だのなんだの言いながら、わたしは無意識のうちに女であることを利用して生きているのかもしれない。

「このまま帰るわけにはいかない」と、Googleマップで別のレズビアンバーを探して入ってみた。開店したばかりで客はわたしたちだけ。カウンターの中にはボーイッシュな女性が一人で立っている。名前はゆうさん。ボーイッシュな女性のことをレズビアン用語で「ボイ」、フェミニンな見た目の女性のことを「フェム」と言うらしい。「フェムはフェムが好きだから、ボイは需要がないんですよ」と嘆いていた。

ゆうさんに「男に凝りてレズビアンバーに来ようと思った」という話をすると、「そういう人は多いですよ」と言う。ゆうさん自身もろくでもない男に引っ掛かって傷ついた経験があり、たまたま女性と付き合ってみたらハマり、それ以来、レズビアンになったそうだ。

続々と女性客がやって来る。わたしの隣に一際(ひときわ)目を引く美女2人組が座り、なんだかドキドキしていると、「お姉さん、デュエットしましょう!」と声を掛けられ、デュエットした。続いて四目並べというゲームをすることになり、わたしは負け続けてテキーラショットをガンガン飲んだ。なんだこれ、めちゃくちゃ楽しい。

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酔いが回り、ぼんやりと店内を見渡して、ハッとした。この空間には、男がいない――。レズビアンバーなのだから当たり前だが、そのときのわたしにとって「男がいない」ということがものすごく重要だった。年末のゴミ男の一件以来、男を見るのも、男と同じ空気を吸うのも嫌になっていた。

数年前、夜道で見知らぬ男に背後から抱きつかれ、刃物を突きつけられたことがある。治安の悪い町に生まれたわたしは、子供の頃から「いつか襲われたらどうしよう」と怯えながら暮らしていたが、ついにそのときが来てしまったのだ。襲われたら声も出せないだろうと想像していたものの、思いのほか、腹の底から「ギャアアアアア!」と大声が出て、男は驚き、刃物を落として逃げ去った。

男性にまつわる嫌な思い出のあれこれが、走馬灯のように脳裏に浮かんだ。しかしここには、男はいない。わたしを傷つける者は、だれもいない。もちろん女性同士で傷つけ合うことだってあるが、肉体的な恐怖心は男性に対してよりも遥かに薄い。楽園に思えた。こんなにも心から安心して酒を飲むのは、いつ以来だろう。ひょっとしたら初めてかもしれない。

そろそろ帰ろうとすると、美女2人組に「えー、帰っちゃうの? 明日も来るよね?」と聞かれた。なんだこれ、完全に明日も来たい。

次の日、また行くかどうか相当悩んだが、なんだか自分の大事なものがガタガタと音を立てて崩れていく気がして、行くのをやめた。異性愛者として41年間生きてきて、べつにそこにプライドもなにもないが、いきなり同性愛者になるかという場面に直面すると、なかなかすぐには受け入れがたい。

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レズビアンバーに行ってみて、男だから好きとか、女だから好きとか、そういうことではない気がした。人として好きかどうかが自分にとって大事な気がする。そんな話を自称トランス女性にLINEで送ったら、「パンセクシャルかもしれませんね」と言われた。

パンセクシャルとは、相手の性のあり方に関係なく人を愛するセクシュアリティのこと。自分がそうかと聞かれたら、そんな気もするしそうじゃない気もする。正直、なんでもいいと思った。わたしはジェンダーに縛られず、何者にも傷つけられず、自由に、楽しく生きたいだけなのだ。

文・イラスト=尾崎ムギ子

週1回アルバイトしている『荒井屋酒店』の角打ちコーナーに、ある日、ファンキーなお姉さんが現れた。名前はあつこちゃん。鼻ピアスにへそ出しルック。アバンギャルドな雰囲気の彼女は、明らかに千住大橋では浮いている。美大卒でいまは洋服を作っているという経歴もまたカッコよく、初対面でも距離をぐっと縮めてくる感じは九州人ならでは。店の全員がすぐにあつこちゃんのことを大好きになってしまった。