瀬古賛歌~なぜ瀬古利彦以上に有名なマラソンランナーは現れないのか?
今の若い人はスポーツ新聞を買うことなどないだろう。うちは一般紙の他にスポーツ新聞も購読していた。僕が子どもの頃、中京や関西地区だとまた違うだろうけど、スポーツ新聞の一面は決まってジャイアンツ。大人の時候の挨拶は天気か野球だった。ほんとに。巨人の監督が変わるときは総理大臣が変わることと同じぐらい重要とされる時代だった。当時の日本の一般成人男性のマジョリティは「既婚・喫煙者・巨人ファン」だったのではないか。ときは流れて現代ではマイノリティーになった。つくづく価値観とか「当たり前」とか「フツー」とかって、変わっていくものだと思う。子どもだった僕が記憶する、巨人以外のスポーツ新聞の一面はふたつしかない。ひとつは山口百恵の結婚。「三浦友和は山口百恵のこと好きなの?」と親に真顔で聞いたことを覚えている。もうひとつは瀬古利彦。さあ今回の本題です。この人以上に有名なマラソンランナーは現れていない。おそらく僕の世代で「あなたがいちばん好きなマラソンランナーは?」という質問があったら、二大会連続メダル獲得の有森さんでも国民栄誉賞のQちゃんでもなく、瀬古の名前を挙げるはずだ。子どもの頃に、それぐらい刷り込まれた。わりと瀬古好きの僕は彼の文献をいくつも読んで詳しい。ちょっと語らせてほしい。1976年3月、一浪して早稲田大学に入学した瀬古利彦に運命の出会いがあった。当時62歳の中村清だった。中村は1913年、日本占領下のソウルに生まれた。靴さえない極貧家庭に育ち、36年のベルリンオリンピックに1500メートル代表で出場。太平洋戦争では陸軍憲兵隊長。戦後は母校である早大の駅伝コーチを無給で買って出て、ヤミ市で横流しして得た財産をすべて選手の食費などにあてた。この世代だからもちろん選手を殴るのは当たり前。伴走車で轢き殺そうとすることもしばしばだった。東急の監督を7年間務めたがこれといった選手を育てることは叶わなかった。その後、弱体化していた早大競走部の監督に就任した際、瀬古が入部する。中村は選手たちと初めて会った合宿の寮で、彼らに頭を下げた。「早稲田が弱くなったのはおまえたちだけの責任ではない。面倒を見なかったOBも悪かった。代表して謝りたい」そう言った直後、自分の顔を殴り出し、鼻血が出てもなお続けた。壁に何度も頭を打ち付けて、血を流しながら「私の陸上への思いはこの通りだ!」と叫んだという。グラウンドの土を食べたこともあった。今回この原稿を書くため、改めて文献を漁ったところ、「おまえたちのためなら何でも食べる」と言いながら食べた説と、「この土を食べれば世界一になれると言われたら、おまえらは食べることができるか?」と言いながら食べた説と、本によって微妙に異なっていた。たぶん中村は少なくとも2回以上、土を食べたのだろう。えーっと、イッちゃってますね(言葉を選びました)。多くの選手が中村の“奇行”(※温厚な言葉に置き換えました。)に呆然とする中、若き瀬古は引き込まれた。中村もすぐに瀬古の才能を見いだした。瀬古は中村の自宅の敷地内にあるアパートに住むよう命じられ、衣食住を共にした。六畳間にはテレビもラジカセもない。中村が部屋の鍵を持っているため常に監視下にあった。瀬古が散歩に出ただけで、中村は「瀬古には未亡人でもいるのか」と探った。瀬古がポルノ映画館に逃げ込むと、角刈り頭の瀬古の隣に男が来て手を握られた。中村の教えは常に狂気に満ちていた。練習の前後に聖書や正法眼蔵から用いた説教が2時間。選手が自分のことを理解していないと憤るあまり、地団駄を踏みすぎて足を骨折したこともあった。瀬古には大会の10日前からオナニー禁止(中村は学生結婚だったが現役時代に夫婦生活はなかった)。毎日80キロ走らされた。スパルタどころではない。瀬古に人権はなかった。瀬古は中村の期待に応えた。めきめき実力を伸ばし、3度目のマラソンで福岡国際マラソン優勝を果たした。「瀬古は神様がくれた宝物」と中村は喜んだ。中村には娘が4人いたが、「『日本沈没』(1973年発表の小松左京のミリオンセラー)の日が来たとして、誰かひとりを助けられるとしたら瀬古を選ぶ」と言い放った。