どうせよその国の話だろうとたかを括っていた感染症はあれよという間に列島へも入りこんで、ぼくらの卒業式は混乱のうちにとりやめになった。本当は褒められたことじゃないだろうけど、せめてもの思い出にと友人の家に音楽サークルの仲間で集まり、ささやかな卒業パーティーを開いた。ドレスコードはスーツに黒ネクタイ。誰が言い出したか忘れたが、自由の多い大学生活を終え、社会人となるぼくらの「モラトリアム」を悼んでの悪ふざけだった。

頭ではわかっていたのに、どこかで混乱は東京だけのもののような気がしていた。いつもお祭り騒ぎで、異世界みたいな都市だから。四年間の暮らしに使った荷物をすべて引っ越し業者に託して、身ひとつで新千歳へ到着したところで、空港内のひと気のなさと緊張感に、そうではなかったのだと遅まきながら実感を深めた。

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大通駅で南北線に乗り換え、職場のあるさっぽろ駅まで向かう。在宅勤務で運動の機会が減ったから帰りは地下通路を歩いているけれど、朝はいつもギリギリに出てしまうので電車を使っている。

いつも大きなスーツケースを転がす観光客たちが行き交い、知らない外国語がほうぼうから聞こえていた札幌駅構内の商業施設はどこもシャッターが下りていて、通勤で通り抜けるひとたちの足音だけが無機質に響いている。先月まで完全に休館していたが、復活してからも営業時間が短縮されていて、出勤時に通り過ぎるときにはまだ開いていない。中心街がこんなに静まりかえっていたことなんてなくて、少しぞっとする。

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課に送られてきたメールのうち、林康太郎様宛のものをさばききると、時刻は昼休憩になっていた。パートタイム職員のおばちゃんたちがさっそく連れだって部屋を出ていく。彼女たちは昼時だけ解放されている会議室で集まって食べているらしかった。

フロアは節電のために電気が消され、感染症対策のために開け放たれた窓からぬるい風が入ってくる。昼食をとるのに最適とはいえない環境だが、ぼくも含め、正規職員の大半は自分のデスクで食べている。こんなことになる前は何人かで集まって近くの飲食店に向かうこともあったらしいが、ただでさえ世間が混乱しているなか、公僕たるぼくらが軽率な行動をとるわけにもいかないのだった。

「林さん、ちょっとお話が……」

給湯室でコーヒーを淹れて いるところに後ろから声をかけられて、ちょっと嫌な顔をしてしまった自覚はある。パート職員のなかでは一番若手の広末さん。押しの弱いところがある人で、在宅勤務が始まってから手が回っていない部分を彼女ばかりが補っている状態になってしまっている。以前に相談を受けて、負担が平等になるよう仕事をパートさん全員に振り直したのだけれど、結局はなあなあでもとに戻りつつあるのは傍目で見て感じていた。

パート職員の契約更新は三年で終わる規則になっており、次々人が入れ替わっていくので、ちょっとくらい人間関係のトラブルを相談されても適当にあしらってやり過ごすのが賢いやり方だ。パートさんは人数も多いし、全員の不満を聞いていたらきりがない。諸先輩方は経験的にそれを学んでいて、彼女たちの厄介ごとにはあまり深入りしない。けれど新入職員のぼくは、彼女らが冷たくあしらわれているのを見て義憤にかられ、つい親身になって話を聞いてしまったのだ。

結果、解決しようのないささいな愚痴や悪口、噂話がひっきりなしにぼくのもとへ持ち込まれるようになった。最初のうちはあまり仕事がなかったから対応できていたけれど、いまはそれなりに担当も増えたし、在宅勤務のシフトが組まれてからは出勤時にしかできない仕事が山積みになっていて、面倒に思い始めていた。次はどんな愚痴か、と身構えていると、広末さんは一枚の紙を差し出した。

「さっき掲示を頼まれた、このおしらせ文なんですけど。いま貼ろうとしたら、三行目の所に誤変換があるのに気づいたんです。細かいことかもしれないと思ったんですが、人の目に触れるものだから確認しておこうと……」

安堵する。面倒ごとではなかったらしい。

「あっ本当だ、気づきませんでした。ありがとうございます」

「よかったです」

「前にも脱字を見つけてもらったことがありましたね。お恥ずかしい」

「細かくてすみません……趣味で少し校正することがあるので、癖で」

「趣味で校正?」

「あ、ええと……短歌をやっていて。身内向けに本にまとめたりすることもあるので……」

「短歌ですか。へえー、すごいですね。学生時代に何冊か歌集を読んだことはありますけど、自分で作れる気がしなかったな」

広末さんはちょっと意外そうな顔をした。

「それは、授業とかで?」

「いや、友達にそういうのが好きなやつがいて、熱心に勧められて借りたんです。はじめは全然わからなかったけど、読んでいくうちになんとなく楽しみ方がわかったような、やっぱりわからないような、って感じですね」

「あはは、私もそんな感じですよ。……そうかあ、林さん、歌集を読むんですねえ」

感慨深そうに呟かれてしまったけれど、読んだといってもひとつも記憶に残っていないのでこれ以上話を広げられると困ってしまう。軽く会釈をして、必要以上に淹れてしまったコーヒーを手にデスクへ戻った。

弁当箱を開ける。母親にはわざわざ作らなくても適当に買うからいいと何度か言ったのだが、息子が帰ってきたのが嬉しいのか、結局いつも用意されてしまう。気恥ずかしかったのは最初だけで、いまはぼくの弁当の中身なんて誰も気にしていないとわかっている。隣に座る課長はもうカップ麺を食べ終わったらしく、腕組みをして昼寝していた。

広末さんのことを、おとなしくて常識的で、普通の……なんの趣味もない、つまらない人。ぼくはそう思っていた。というか、とフロア全体にぐるっと目を向ける。友人たちの行った民間企業と違って、私服出勤の波がきていない我々の職場では、みんな制服のように似たり寄ったりのシャツとスーツを着ている。コンビニ弁当から箸を運ぶ人、デスクに突っ伏して眠ったり、仕事の続きでキーボードを叩いたり。みんな、たいしたことのない、つまらない人間に見える。少し考えればそんなはずないということくらいわかるのに。たぶん、ぼくは自分自身のコンプレックスをみんなに投影してしまうのだ。

焼き目のついたウィンナーを口に放り込みながら、こんなはずじゃなかった、と、何度目かわからない愚痴が胸のうちに落ちた。自分でも、なににたいしてそう思っているのかは判然としない。公務員になったことか。地元に帰ってきてしまったことか。

故郷を捨てるつもりで東京の大学に入った、というのは十八歳のぼくにとって冗談でもなんでもなかった。地元の連中で話の合うやつはほとんどいなかったし、だいたいのやつはぼくよりバカか、そうじゃなければセンスがないと思っていた。ぼくなら何者かになれる、その思い上がりは入学してすぐあっけなく叩き潰され、こうして逃げ帰ってきたわけだが。

ぬるい風が吹き込んできて、首に浮かび上がってきた汗を手でぬぐう。東京ならとっくに冷房をつけている気温だけれど、だれも文句を言わない。たしかに我慢できないほどではない。七月だというのに外はやけに静かだ。そういえば、この街に蝉はいないのだった。

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密を避けるための在宅勤務はあまりにもなし崩し的に始まったので、持ち帰れる書類が多くないぼくの場合はほとんど休みのような状況だった。そのうちリモートワーク用のノートパソコンが貸与されるというが、いつになるのか目処は立っていないようだ。なにもできないのに机の前でじっとしていても仕方ないので、好きに過ごすことにしている。同期の話では、仕事が回らないためにシフトを無視して出勤、残業せざるをえない部署もあるというから、ぼくはたぶん恵まれている。

余った時間の有意義な使い方はいくらでも思いつくのに、体はベッドに張りついたまま、特に興味のない動画を見たり、漫然とSNSの画面を更新し続けたりしてしまう。今日はパートさんたちの揉め事は起きていないだろうか。この間は在宅勤務明け早々、複数人からそれぞれに愚痴をぶつけられて藪の中状態だった。来月に退職することが決まっている人から、三年で契約更新が終了なんておかしい、と詰められたこともあった。彼女には同情するけれど、組織全体でそう決まっている以上ぼくにできることはなくて、うまく返事ができずじまいだった。

煙草を吸いたいが、ベランダまで起きるのが億劫だ。下の階で母親が昼飯を作っている気配がする。焼きそばか炒飯か。焼きうどんかもしれない。二日酔いを言い訳に授業をサボって部屋で寝続けていた一人暮らしの頃は、空腹が限界になるまでその場でじっとして、耐えられなくなってからようやく食料を求めに外へ出た。近くに友達がいることがわかると金もないのにそのまま飲みに行き、別の友人の家に押しかけてさらに飲み直し、次の日の授業もサボることになってしまうとか。ほんの数ヶ月前までの生活なのに、大昔のように感じた。よかれあしかれ、いま大学にいる後輩たちは、人と会うこと自体がタブーなこのご時世であんなバカはやれないだろう。

大学生のときぼくと仲良くしていた連中は留年したり、就活がうまくいかなくて大学院に進むことを決めたりしたやつも多かった。コロナのせいじゃない。ぼくの周りは無気力で、素行不良が目立つ連中ばかりだったのだ。あいつらはどうしているだろう。

ぼくが地元の公務員試験に受かったことを伝えたとき、ぼくの不真面目さを知っている友人たちはみんな驚いていた。へらへら笑って適当に返しながら、内心ではお前らと一緒にされちゃ困る、と思っていた。連中はなんだかんだいって実家の太いおぼっちゃまばかりで、多少失敗したってどうにかなるのだ。ぼくは地方都市育ちの一般庶民で、奨学金も借りているし、留年なんかしたら親父に勘当されてしまう。就活よりはペーパーテストの方がまだ勝機があるとわかっていたから、無駄な努力はしないでこの道を選んだ。それは間違っていなかったし、仕事にも大きな不満はない。

でも、と続く言葉はないくせに否定の接続詞が浮かぶ。寝返りをうつと部屋の隅で埃をかぶったギターが立てかけられているのが目に入った。大学時代に買った楽器は、卒業するときもう触らないだろうと思ってぜんぶサークルに寄付してしまった。これは高校生のとき初めて買ったギターだ。ちょっと鳴らしてみようか。実家に戻ってきてから何度かそう思ったが、なんとなくそのままにしてある。何年も弦を替えていないから、弾いたらきっとひどい音がするだろう。

ソースの匂いがたってくる。昼食は焼きそばらしいが、呼ばれるまでは動きたくない。もう一度寝返りをうって、SNSを更新すると、柳本のアカウントが懲りもせず大量の投稿をしているのが目に入って、先週やったリモート飲み会のことが嫌でも思い出された。

文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。