いわば“観光地”的な場所だけど

山の記事を書くためもあって今回は官ノ倉山へ。官ノ倉山は二度目の訪問となる。一度目は腰越城跡から登って、官ノ倉山から石尊山へ。そこから下って平坦な道を歩いて小川町駅へ行った。下山後の行程が長いので、案外つまらなかった。

そんなこともあって、今回は小川町でよく知られている吉田家住宅(*1)に寄り道し、官ノ倉山から安戸(やすど)のバス停へ向かおうと計画を立てた。

吉田家についてはこの連載で取り上げるつもりはまったくなかった。というのも、吉田家は有名な国の重要文化財でもあり、人がたくさん訪問するようないわば“観光地”的な場所なので、茅葺き屋根が醸し出す郷愁感があるにせよ、別にここで取り上げることもないだろうと思っていた。

小学生の自分に戻っていた

東武竹沢駅からまっすぐ吉田家に向かう。家は大きな茅葺きの家だった。ひと目みて、懐かしい世界に来たというか、戻って来たような気分に襲われた。木戸を開けてなかに入ると、真っ暗ではないが、かなり暗い。目が慣れてくると、右手の囲炉裏からもくもくと煙が上がっていた。観光用の囲炉裏という感じではなく、いやそうかもしれないが、普通の農家の日常の煙のようにみえた。

主夫婦のほかに、ときどき訪ねてくるというおじいさんがいたせいかもしれない。囲炉裏で沸かしたお湯でお茶を飲みながら世間話をしていた。

「さ、こちらへどうぞお座りになって」

お茶を出されて、そのまま3時間ほど。お尻が長椅子に何かでくっついたように離れなくなった。

そのとき僕は半世紀前の自分に戻っていた。まだ小さかった小学生のころに。母親の実家が農家で、大きな囲炉裏があり、吉田家と同じように朝から煙が出ていた。朝、捕ってきた鮎を串刺しにして囲炉裏でいぶしていた。味は忘れたが、おいしかったと思う。昭和40年代初めのころの話である。

異世界から外に出ると陽はもう傾き始めていたので、官ノ倉山はあきらめ帰途に着いた。家に戻ってから悶々とし、2、3日経ったころ、決めた。

また吉田家を訪ねてみようと。

山麓に寄りそう木呂子の集落

再び東武竹沢駅に降り立った。今度は吉田家に直接行かずに、地元の人おすすめの金勝山に登り、木呂子(きろこ)の集落を歩いてから行くことにした。

勝呂(すぐろ)の集落の北側にある木呂子の集落。小高い山の麓に家々が集まって立っている。
勝呂(すぐろ)の集落の北側にある木呂子の集落。小高い山の麓に家々が集まって立っている。

木呂子集落はひっそりとしていた。誰もみかけない。平日なのでみんな勤めに出ているのだろう。吉野神社の先に、かつての道の名残のような跡がみえる。その道の脇の農家の庭に男性がひとり。

「そう、そこは昔の道ですよ。上がっていけば上の車道に出られますから」

それは道というより、田んぼの広い畦道といったようなものだった。車道に上がると、そばに東屋風の小屋があった。なかに囲炉裏がある。周りには座れる場所があり、おそらく木呂子の老人たちがここに集まってお茶を飲んだり、ときには燗酒でも飲んだりして、おしゃべりをする場所なのだろう。

その囲炉裏の集会所の上のほうに、山の神でも祀っているのだろうか、小さな祠があるので登ってみた。木呂子の集落がみえる。茅葺き屋根にトタンを張った家も残っていた。山の麓に寄り添うように家々が肩を並べて立っている。

標高263mの金勝山の山頂から吉田家住宅方面を望む。上の原っぱのような山は秩父高原牧場。
標高263mの金勝山の山頂から吉田家住宅方面を望む。上の原っぱのような山は秩父高原牧場。

自分が育った家には魂が宿る

木呂子から隣の勝呂集落へと入っていく。道の正面にいま登ってきた金勝山がみえた。吉田家が近い。

また、高い木戸を開け暗い異世界に入っていった。

「また来ました」

すぐ囲炉裏の前に陣取る。その後2、3人のお客さんがあったが、結局、今回は1回目より長く、昼過ぎから夕方ごろまで居続けることになった。

吉田家はちょうど300年前に建てられた家で、現在の当主の辰己さんのお父さんがずっとひとりで住んでいた。今から35年前、そこへ辰己さんが立川から実家に戻ってきた。この古い家をどうにか残せるように、さまざまな苦労をしてなんとか現在のような形で残すことができた。

ちょうど300年前に建った吉田家住宅。広さは200㎡ほどある。
ちょうど300年前に建った吉田家住宅。広さは200㎡ほどある。
住宅の内部。囲炉裏は2カ所ある。
住宅の内部。囲炉裏は2カ所ある。

「最初は、古い家なので壊すつもりでした。隣にまず住む家を建てたんです。その後、神奈川大の先生が調査に入りまして、埼玉県では一番古い民家ということで保存することになったんですが、解体から復元まで3年かかりました。いろいろ面倒なこともあったけどね」

総費用が2億円もかかったそうで、寄付ではなく、自分の家として所有することにしたため一部を負担することになったそうだ。隣に家を建てたばっかりで、そのローンもあったので、お金の捻出には随分苦労したそうだ。

「そこまでして家を残したかったのは? 長男でなく、三男の辰己さんが」

「それは、ふるさとを失くしたくないということかな。隣に家は建てたんですが、“ふるさと”はこの家なんです。失くしたくないんです、この家を」

吉田夫妻。右が主人の吉田辰己さん。1953年1月1日生まれだが、本当は前の年の12月28日生まれ。左は奥さんの千津代さん。九州の出身。
吉田夫妻。右が主人の吉田辰己さん。1953年1月1日生まれだが、本当は前の年の12月28日生まれ。左は奥さんの千津代さん。九州の出身。

おそらく辰己さんにとって、この家がなくなることは、魂とまではいわないが、自分の何か大切なものがなくなってしまうようなものだと思う。

最近、吉田家に僕と同じように3時間近くも過ごした若者がいたそうだ。「『ここはいいな~』ってしみじみと言うんですよ。あなたや僕のような高齢者はわかるんです。懐かしいやら、郷愁を感じたりね。でも20代、30代でそう思うのはどうなのかなって、聞いてみたんですよ。『何がいいの?』って。そしたら『ここにいるだけでいいんです』と。ホントかどうかわかりませんが、これを聞いたときはありがたいと思いました。残してきてよかったな~って」

外が暗くなってきた。そろそろ重たい腰を上げなければならない。

茅葺き屋根、囲炉裏、立ち上がる煙、そして真っ黒になった柱や壁や天井……、僕は高齢者だけれど、その若者と同じように、ここにいるだけでいいと思った。

 

*1 吉田家住宅
享保6年(1721)建築。実年代がわかる家としては埼玉県では最古の民家となる。住宅の調査時に柱に「享保六丑歳霜月吉祥日」と記された祈祷札が発見されたので判明した。1988年、国の重要文化財建造物に指定。入母屋造りで大きな茅葺き屋根が特徴。囲炉裏で焼く団子やそば、うどんなども食べられる。入館無料。10:00〜16:30、月・火休(祝の場合は翌休)。☎0493-73-0040

木呂子から吉田家住宅[埼玉県小川町]

【 行き方 】
東武東上線東武竹沢駅下車。

【 雑記帳 】
東武竹沢駅から登れる金勝山は往復に1時間半もあれば十分。狭い山域に金勝山のほか、裏金勝山、前金勝山、西金勝山、浅間山と多い。低山のわりに変化の多い山ぞろいだ。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2022年4月号より