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ある日、いつものように『荒井屋』で日本酒を飲んでいると、端正な顔立ちの男性が店に入って来た。物腰の柔らかい彼に話し掛けられたわたしは完全に舞い上がってしまったのだが、すぐに彼がゲイであることを知り、淡い恋心は儚(はかな)く散ったのだった。

その人の名前は「かなえ」といった。かなえちゃんに駅前の立ち呑み屋『八ちゃん』を勧められたわたしは、毎日のように通うようになる。かなえちゃんも毎日のように来るもんだから、わたしたちは連絡先も知らないのに毎日のように一緒に酒を飲んだ。『居酒屋とんぼ』のママと初めて会ったのも『八ちゃん』で、かなえちゃんがママを紹介してくれた。

かなえちゃんはどの店でもムードメーカー。巧みな話術でだれからも好かれる。かたや人見知りで陰気なわたしは、店の隅で黙々と煙草を吸いながら、下を向いて酒を飲んでいた。そんなわたしを見つけると、決まって「ムギちゃ~ん、こっちおいで~」と声を掛けてくれた。わたしは彼の底抜けの明るさが大好きで、また一方で羨ましくて仕方がなかった。

そんなかなえちゃんが、ある日、珍しく神妙な面持ちで店に入って来たことがある。聞くとその日、留置所に2回行ったのだという。それも違う留置所に、違う人の面会で。「留置所をハシゴした」という言い回しに、わたしは笑いを堪えるのに必死だった。

留置所に面会に行くとなれば、問題なのは差し入れだ。1人目の男性には彼女がいた。下着や日用品の差し入れは彼女がするだろうと考えたかなえちゃんは、暇つぶしになるだろうと本を2冊渡したという。その本というのが、『コボちゃん傑作選』と、『姫さまのヘルメット 鬼頭莫宏短編集1987-2022』だというのだ。

鬼頭莫宏は『ぼくらの』という漫画が有名で、あらすじが酷い。選ばれた少年少女たちが巨大ロボットを操縦して敵に挑むが、負ければ地球が滅び、勝ったら地球は滅びないが自分が死ぬという、どちらにしても最悪な戦いをこなしていくという話だ。「そんなものを選ぶなんて、本当に魔が差したわ……」と、本気で落ち込むかなえちゃんを見て、わたしは笑いを堪えようとベートーベンに思いを馳せた(なぜベートーベンかは第1回を参照のこと)。

2人目の男性には、下着を差し入れしてくれるような彼女がいなかった。そこで、かなえちゃんは北千住のドン・キホーテでパンツとTシャツを購入。しかし、パンツは差し入れ不可だった。ウエストゴムが伸びるため、自殺する恐れがあるからだ。警察官に買ったばかりのパンツのウエストゴムをビロンビロンと引っ張られ、「人の新品のパンツのゴム、そんなに伸ばすことある? 警察官のモラルってそんなものなの?」と、かなえちゃんは憤ったという。温厚な彼が怒りを露わにするのを初めて見たわたしは、ついにハイボールを吹き出してしまった。もはや堪えようもない。ああ、なんて無力なベートーベン!

いつも全力で生きるかなえちゃんに元気と勇気と大いなる笑いをもらいながら、わたしは一人暮らしの孤独を感じることなく、楽しい千住大橋ライフを送った。

しかし、一人暮らしを始めて1年もしないうちに、わたしは母が恋しくて仕方なくなり、週3、4日、実家に帰って寝泊まりするようになった。生活は困窮している。酒が飲みたいときは、近所に『とんぼ』がある。煙草はやめた。最早、一人暮らしをする意味はない。実家に帰ろう。こうしてわたしの三度目の一人暮らしは、1年半であっけなく幕を閉じたのだった。

近所の飲み仲間なんて、儚いものである。南千住に引っ越したら『とんぼ』が楽しすぎて、千住大橋の飲み仲間を思い出すこともなくなっていった。かなえちゃんとも疎遠になった。

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そんなある日、夜中に目覚めてしまったので『とんぼ』に行くと、そこにはタンバリンを持ち、ゲイ仲間たちと踊り狂うかなえちゃんの姿があった。

「縦横~、縦横~♪ 伸ばして引いて~、伸ばして引いて~♪」

店の隅で、ママがアン・ルイスの『あゝ無情』を遠慮がちに歌っている。合いの手のインパクトが強すぎるよ、かなえちゃん……。ああ、やっぱりわたしはこの人が大好きだ。

歌い終わったかなえちゃんに「実は『とんぼ』の物語を書こうと思っている」と打ち明けると、「最高じゃない!」と喜んでくれた。

自信はこれっぽちもない。わたしは常にギリギリだった。書いては燃え尽き、書いては燃え尽きを繰り返し、一度でもつまらない原稿を書けば干されるのではないかという恐怖心に怯えながら、それでも書かねばいられない強迫観念に駆られ、精神は蝕(むしば)まれていった。酒を大量に飲んでも眠れず、睡眠薬を常用するようになった。

わたしはそっとマイクを取り、中島みゆきの『彼女の生き方』を歌う。

「酒とくすりで体はズタズタ
忘れたいことが多すぎる
別れを告げて来た中にゃ
いい奴だっていたからね」

かなえちゃんがママに「これって、ムギちゃんの歌よね~」と言うのを聞いて、わたしはほとんど泣きそうになった。それでもわたしは前を向く。

「彼女の人生 いつでも晴れ」

文・イラスト=尾崎ムギ子