史跡の記事一覧

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源氏の物語でもっとも悲しい事件。頼朝と義経の兄弟対決を伝える地を巡る
源氏による武家政権誕生の話をする場合、避けて通ることができないのが源頼朝・義経兄弟の確執と、悲劇的な結末であろう。多くの伝説に彩られた義経は、天才的な戦いの才を発揮して平家討伐における最大の功労者となったにもかかわらず、最終的に兄頼朝の怒りを買い、討ち取られてしまう。大河ドラマでも、すでに悲しい最期を迎えてしまった。今回はそんな義経の、鎌倉における足跡を追ってみることにしたい。義経は幼少の頃に鞍馬寺に預けられ、その後は諸国を放浪し、奥州の藤原秀衡の元に身を寄せている。それだけに、鎌倉にはゆかりの地が多いわけではないが、どこも印象的な場所ばかり。ということで、まずは鶴岡八幡宮へ足を運んだ。
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群馬県みどり市 ~地域ごとに異なる表情を見せる、南北に細長~い市~
「みどり市」と聞いて、正確な位置を言い当てる人は多くないだろう。いわゆる平成の大合併により誕生した自治体には、土地の名が即座に思い浮かばないものが多いが、ここは群馬県の笠懸(かさかけ)町、大間々(おおまま)町、東(あずま)村が2006年に合併してできた市だ。その市域は宅地の目立つ南部から山々が連なる北部まで、驚くほど南北に細長い。背骨のように貫く国道122号沿いでは、かつて銅を運んだ名残が見られ、視線の先には「芝居小屋のある町」の看板もちらほら。巡れば巡るほど、同じ市内とは思えないほどバラエティ豊かで、ちょっぴり得したような気分になる。
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功臣・上総介広常の死。鎌倉に残る足跡は、悲しいほど少ない
鎌倉幕府の黎明期は、陰謀や粛清など、悲劇的な事件が思いのほか多かった。その最初の犠牲者と言えるのが、上総介平広常(かずさのすけ たいらの ひろつね)であろう。房総平氏惣領家の頭首という立場で、その支配地域はほぼ上総一国(房総半島中央部、千葉県)であったと考えられている。広常は、もともと鎌倉を本拠地としていた源義朝の郎党であった。保元の乱では義朝軍に属し、平治の乱では義朝の嫡男である義平に従って奮戦している。言うまでもなく義朝は頼朝の父、義平は兄だ。義朝が平家との戦いに敗れると平家に従うが、頼朝が挙兵した頃は平清盛との間に確執が生じていた。
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全国最高グレードの泉質!久喜市『百観音温泉』で、観音さまの霊験あらたかな湯を浴びる
日本温泉協会の評価でオール5つ星の泉質という、全国でもトップレベルを誇る天然温泉。湯量が豊富で100%源泉かけ流し。これだけいいお湯が出るのは観音さまのお力か?朝から楽しめるのもポイントなので、体の芯からゆっくり温まって、腰痛解消や美肌、疲労回復などのご利益にあずかろう。
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多磨駅からはじめる多磨・府中さんぽ〜豊かな自然や格安市場、工場見学も楽しみ〜
著名人も多く眠る多磨霊園を歩き、自然の雑木林で覆われた浅間山公園を抜け、府中の森へと歩く。自然を感じながらの散策を楽しんだ後は、古社を参拝し、東京卸売センターでショッピングや市場グルメを堪能しよう。最後は、できたてビールで締めくくる。
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遺跡のような入り口に祭壇?大房岬に残る東京湾要塞の痕跡、第1探照灯掩灯所~大房岬砲台後編~
前回は大房岬の砲台跡を巡ってきました。後半はこの遺構の目玉を紹介します。と思って記事を書いていたら、紹介するところが多くて長くなってしまいました。メインは今回紹介し、次回はおまけとその他を紹介します。すいません。
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頼朝大敗の合戦地・石橋山。頼朝を助けた、いくつもの幸運とは? 奇跡を生んだ現場を訪ねる
治承4年(1180)8月17日、平氏追討の兵を挙げた頼朝は、緒戦で伊豆の目代・山木兼隆と、その後見人であった堤信遠を討ち取った。その勢いをもって鎌倉を目指し、東へと向かった頼朝軍の前に、相模の実力者・大庭景親が立ちはだかる。両軍は相模国の石橋山で激突するが、頼朝軍は奮闘むなしく大敗北を喫してしまう。普通ならば、ここで命を落としたであろう。ところが頼朝は、不思議なことに生き残る。今回は、頼朝が武家政権を確立するための最初の試練、石橋山古戦場とそれに関連する地へ、足を運んでみることにした。
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岬の自然公園には遺構が点在する。大房岬に残る東京湾要塞の痕跡。~大房岬砲台前編~
「廃なるもの」では、神奈川県横須賀市の観音崎砲台群や千葉県富津市の元洲堡塁砲台と、しばし砲台跡を巡ってきました。それらは東京湾要塞として明治13(1880)年から建設、砲台が配備されたもので、他にも神奈川県と千葉県には要塞跡や砲台跡が公園となって点在しています。比較的安全に“廃なるもの”を観察するには、こうした砲台跡は手ごろであり、いわゆるラピュタ的世界も味わえるので、廃墟散策の百戦錬磨からルーキーまで様々な方が訪れるのです。そのうちの一つが、千葉県の大房岬砲台です。南房総市大房岬自然公園内に遺構が点在し、さながら宝探しのオリエンテーションのように巡ることができます。東京湾要塞は昭和に入ってからも建設され、東京湾の南に突き出ている大房岬は、首都防衛のために昭和3年(1928)から4年の月日をかけて建設された砲台です。岬の地形を活かして砲台と付帯設備が築かれ、終戦間際には海岸部に魚雷艇の基地も配備していました。今まで巡ってきた砲台跡は明治期の日露戦争前の遺構で、レンガ構造物が多かったのですが、大房岬砲台は昭和初期に建設されたため、遺構はコンクリート構造物となります。
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月島駅からはじめる佃島・清澄・深川さんぽ〜水の街・東京の川、運河、池、掘割を巡る〜
木造家屋の向こうにそびえる高層ビル群。新旧の街が対比する佃島から、ギャラリーの街・コーヒーの街として注目される清澄白河へ。ここでも新旧の店が点在する。最後に訪れる門前仲町は、富岡八幡宮と深川不動尊の門前町。参道は縁日のようなにぎわいがある。
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源頼朝が鎌倉に作った御所。その大きさはどれくらいだったのか? 大倉幕府跡と若宮大路幕府跡を巡り、鎌倉の歴史に触れる
源頼朝により日本史上初の武家政権が樹立され、鎌倉がその中枢の地として選ばれた。なぜ鎌倉が選ばれたかについては、この散歩シリーズの第1回目で触れているので、ぜひ参照してほしい。現在も鎌倉に足を運べば、過去の歴史を伝える遺構や遺物とともに、人々が暮らしている光景と触れ合える。それだけに、街中のいたる所で当時の姿を思い起こさせてくれるのだ。同じように市中に多くの史跡が点在する京都と比べると、鎌倉は見どころが集約されているのもうれしい。今回は、そんな鎌倉らしいコンパクトな史跡巡りを、堪能してみることにしよう。
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監的塀(かんてきへい)と射入窖(しゃにゅうこう)に出合う。陸軍富津試験場の遺構~その3
前回は旧ザクの頭かと思った監的所の跡を見て終わりとなりました。今回はその続きです。監的所のある場所から駐車場方面へ歩を進め、親子がワイワイとキャッチボールをする憩いの広場へ出ました。南側にある茂みへ向かい、その先にある富津試験場の遺構を目指します。
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北条義時が支配した地。源頼朝の偉業を支えた右腕の足跡をたどる~伊豆の国市韮山~
日本の政治システムを大きく変えた源頼朝の物語は、伊豆の地から始まった。ということで、前回に引き続き頼朝が流された地であり、北条氏の根拠地だった伊豆の国市内を散策してみよう。今回は頼朝の偉業を助けた右腕・北条義時の足跡が多く残されているエリアに行ってみた。山が多い伊豆半島の中でも、伊豆の国市は中央部に広大な平地を有し、西側には狩野川が流れている。伊豆国の一ノ宮である三嶋大社までは、比較的平坦な道が続く。現在、市域となっている地の北西部あたりが、かつて北条氏が支配していた地域であった。そして伊豆箱根鉄道韮山駅の西側にある守山という小さな山の麓が、北条氏の館が置かれていた場所。そこから狩野川を挟んだ西側に二代執権北条義時関連の史跡が点在しているのだ。
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下総中山駅からはじめる下総中山・市川さんぽ〜日蓮宗大本山と永井荷風が歩いた道〜
中山法華経寺は日蓮宗唯一の修行道場。冬に訪ねると荒行堂から修行僧たちの読経が地鳴りのように聞こえる。東山魁夷の作品を鑑賞した後は、永井荷風の終の棲家となった市川を訪ね、白旗神社、手児奈霊神堂、弘法寺など、荷風が歩いた道をたどってみよう。
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監視台編その2。千葉県富津市の松林に埋まる旧ザク~富津の砲台跡は陸軍富津試験場となり、現在も遺構が点在する
前回はのっぺらな監視所を紹介したところで、ボリュームいっぱいになったので終了しました。今回は続きです。監視所を離れて次の場所へ向かいます。小型の見張り施設、監的所(警戒哨)です。これもコンクリート構造とのことで、監視所と同時期に造られたと考えられます。来た道を戻り、ちょうどジャンボプール付近の松林へ入ります。散策道になっているから安全ですね。しばらく東方向へ歩いていると「監的所(トーチカ)」と記載された戦争遺構ガイドの看板がありました。警戒哨、監的哨、監的所、トーチカ。言い方はそれぞれ異なりますが、廃なるものでは監的所で統一します。
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頼朝最大の協力者、北条一族を育んだ伊豆・韮山を巡る
JR東海道本線の三島駅と修善寺駅を結ぶ私鉄の伊豆箱根鉄道駿豆線は、なかなかユニークなラッピング車両が揃っている。以前から人気だったのが、アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』のラッピングカー。それに加え現在は、人気恋愛ゲームシリーズのイケメンキャラをラッピングした車両も走っている(2022年5月31日まで)。さらに2022年1月9日からは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のラッピングカーも登場。三島駅でどんな車両が来るかドキドキして待っていたが、ホームに滑り込んできたのはラッピングが施されていない、普通の車両であった。うーむ、残念。それはさておき、三島から20分ほど電車に揺られると、今回の歴史散歩の起点、韮山駅に到着した。天気は上々。改札を抜ける足取りも、軽快そのもの。さっそく駅前の『韮山時代劇場』内に設置された『鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館』へと足を運んだ。
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富津の砲台跡は陸軍富津試験場となり、現在も遺構が点在する~監視台編その1
前号は元洲堡塁砲台を紹介しました。この砲台は除籍後の大正8年(1919)、陸軍技術本部に移管され、第一研究所富津試験場(注)として兵器の試験射場となりました。(注:昭和17年に陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所富津試験場へと整理統合)研究所となった砲台跡は、近距離の兵器を試験する射場となります。扇状の砲台跡の周囲に射場の設備や、数カ所に監的所(警戒哨)や監視所のコンクリート建築物が設置されました。それらの設備は1940年代はじめに建設されたそうですが(続しらべる戦争遺跡の辞典 柏書房による)、富津試験場となった大正時代からポツポツと建設されていったかもしれません。
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船堀駅からはじめる船堀・浦安さんぽ〜舟運の路・新川から『青べか物語』の町へ〜
行徳と江戸を結んだ水辺の道は、新川千本桜と呼ばれる花の道に大変身。木橋や行灯、石積みの護岸が江戸情緒を醸し出す。清流が流れる日本初の親水公園を抜けて浦安橋を渡れば、『青べか物語』の漁師町。残された民家や船宿、再現された水路に往時をしのぶ。
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なぜ、頼朝は鎌倉を選んだのか? 源氏ゆかりの小社と、切通しから見えてくるもの
1192年=いいクニ作ろう鎌倉幕府。日本史上初の武家政権である鎌倉幕府の始まりは、このようなめでたい語呂合わせで覚えこまされた。しかし近年、1185年=いいハコ作ろう鎌倉幕府、というように変わっている。というのも幕府の政治体制は、源頼朝が以仁王(もちひとおう)の令旨を受け挙兵した治承4年(1180)から整えられていった、そう見るのが妥当と考えられるようになったからだという。この年には、幕府の主要機関となる侍所(さむらいどころ)が設置された。その初代別当に和田義盛を起用。こうして頼朝を頂点とした「御恩と奉公」という武家政権の形が、少しずつではあるが定まっていき、東国中心だった頼朝の支配体制が、ついに西国にまで及んだのが文治元年(1185)。そのため、この年が鎌倉幕府成立年とされたというわけ。 そんなこむずかしい話はともかく、歴史は時代とともに解釈が変わるもの。それでも、歴史的な事件が起こったとされる“現場”に足を運ぶのは面白い。そこで好調なスタートを切った大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にあやかり、鎌倉幕府の黎明期にまつわる魅力的な現場を、少なくとも13カ所以上は巡ってみましょう!
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千葉県茂原市 ~利便性と自然が共存する、天然ガスの灯るまち~
東京湾アクアラインの開通(1997年)と圏央道の延伸(2013年)に伴い、東京方面からのアクセスが飛躍的に向上した房総半島中部の茂原(もばら)市。平地と里山が混在する風景には、どこか懐かしさが漂う。際立った観光施設や見どころが多いわけではない。しかし丹念に歴史をたどり、地域を訪ね歩けば、随所に埋もれた魅力があることを茂原の“散歩の達人”(後述)から教わった。「点と点をつなぐ線、さらには広がりのある面として捉えると本質が見えてくる」と散歩の極意を口にしていた達人の言葉を思い返しながら、市内各所を巡ってみた。
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豊田駅からはじめる豊田・日野・高幡不動さんぽ〜新選組のふるさとを訪ね歩く歴史の道〜
黒川段丘の緑豊かな公園を歩き、新選組ゆかりの地へ向かう。日野宿は、近藤勇や土方歳三、沖田総司らが出会った天然理心流の道場があった地で、都内で唯一残る江戸時代の本陣跡や資料館でその歴史にふれることができる。幕末ロマン幕開けのエリアを歩く。
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