和田の地には昔も今も肥沃な土地が広がる

三崎はマグロ水揚げ港として知られているため、駅名は「三崎マグロ駅」とも読ませる。
三崎はマグロ水揚げ港として知られているため、駅名は「三崎マグロ駅」とも読ませる。

和田義盛は三浦氏の一族で、父の杉本義宗は三浦一族の惣領・三浦大介義明の嫡男である。杉本に城を構えていたことから、杉本姓を名乗っていたようだ。義宗は長寛元年(1163)、姻戚の安西氏の領地争いに加勢するため安房国(千葉県)に渡り、敵方の矢を受けてしまう。それが原因で39歳という若さで亡くなってしまった。

本来なら義宗の嫡男であった義盛が、三浦宗家を継ぐ立場であったが、母親の身分が低かったことから義明の次男であった三浦義澄が宗家を継いだのである。その際、義盛は和田の地を与えられたため、以後は和田義盛と名乗るようになったという。

白旗神社への道は広大な農耕地の間を抜ける。
白旗神社への道は広大な農耕地の間を抜ける。

義盛が領地とした和田は、現在も「三浦氏初声町和田」という地名となっている。京浜急行久里浜線の終点、三崎口駅から国道134号線を30分ほど北へ歩けば、和田の交差点に至る。

そのひとつ手前の信号を斜め右に入ると、遥か彼方まで見渡せる、広々とした畑の間を抜ける気持ちの良い道となる。そのまま道なりに進めば、天照大神と和田義盛を祭神とした「神明白旗神社」があった。神明社は、後に白旗神社に合祀されたもので、義盛の善政を偲んだ和田の郷士が、弘長3年(1263)に社殿を設け、白旗神社と称したのが始まりと伝えられているのだ。

白旗神社の境内へは身構えてしまうほどの急な石段を登る。
白旗神社の境内へは身構えてしまうほどの急な石段を登る。
社殿は神明造りの社殿に拝殿、幣設が設けられている。
社殿は神明造りの社殿に拝殿、幣設が設けられている。

白旗の名を得たのは、文治2年(1186)に義盛が平家討伐に出陣した際、大勝を収めたことで城内を開放。紅白の幟をたてて城内の八幡社に戦勝を報告したことに由来する。さらに領民を交えた酒席で、戦勝の舞「初声」を舞ったことから、町の名として残された。

義盛が本拠とした和田城へは、神社から国道134号線方面に続く路地を辿る。神社の脇には江戸時代の年号が刻まれた石仏や庚申塚があり、ここが歴史ある地だということを教えてくれた。国道にぶつかり三崎口駅のほうへ少し戻ると、そこが和田の交差点だ。

社殿がある小山の麓には江戸期の石仏や庚申塚が建ち並ぶ。
社殿がある小山の麓には江戸期の石仏や庚申塚が建ち並ぶ。
和田交差点。右手が鎌倉方面。左正面が和田城址へ続く道。
和田交差点。右手が鎌倉方面。左正面が和田城址へ続く道。

義盛が本拠としていた和田城跡へは、和田交差点を三浦初声高等学校和田キャンパス方面に向かう。その一帯は丘陵地となっていて、城を構えるのに最適の地形。国道から少し横道を進むと、小さな神社があり、その境内に「和田義盛旧里碑」が建てられている。

この石碑は義盛の在所と思われるこの地に、その武勇をたたえ、悲運の最期を偲ぼうと大正10年(1921)に建立された。神社脇の小道を左に辿り、坂を登りきった所の十字路を左に行くと、民家の一画に和田城址の石碑が建てられている。ここに義盛の居館があった。

交差点からすぐの場所にある、和田義盛旧里碑が建つ神社。
交差点からすぐの場所にある、和田義盛旧里碑が建つ神社。
三浦初声高等学校和田キャンパスのほぼ向かいに建つ和田城址の碑。
三浦初声高等学校和田キャンパスのほぼ向かいに建つ和田城址の碑。

和田の地は、昔も今も三浦半島屈指の穀倉地帯である。それは白旗神社に向かう道の周囲に広がっている、見渡す限りの農地を見れば今も続いていることがわかる。義盛が戦に出る際は、この地から多くの郎党たちが出陣し、夥しい兵糧が戦地に送られたという。支配地が豊かな地であったことも、北条氏から目をつけられた要因であったようだ。

和田の地が肥沃であったことは、現在の様子からも伺える。
和田の地が肥沃であったことは、現在の様子からも伺える。

三崎港を見下ろす地に建つ義盛開基の名刹

頼朝が平家打倒を志し、石橋山の合戦に出陣した際、和田義盛を含む三浦一族は増水した酒匂川に阻まれ、戦場に到達できなかった。その間に頼朝の敗北を知り、領地へ引き返すが、平家の大軍に攻め入られる。一族郎等を逃すため、三浦義明が衣笠城に敵を引きつけ籠城を決意。その間、三浦義澄や和田義盛は頼朝を追って海路、安房へと船出した。

だが台風に遭遇したため、船は海上を漂流することとなる。食糧も尽き、一同が死を覚悟した時、空に巨大な龍が出現し、義盛らの上空を舞うと飛び去った。これは龍神のご加護だと信じ、義盛が一心不乱に祈ると船縁に筌と呼ばれる竹籠が流れ着いた。そこにはたくさんの魚が入っていて、一同はこれで飢えをしのぐことができたというのだ。

光念寺の境内手前から振り返ると、三崎港が一望できる。
光念寺の境内手前から振り返ると、三崎港が一望できる。
光念寺の境内。正面に見えるのが本堂で、右手が筌龍弁財天を祀るお堂。
光念寺の境内。正面に見えるのが本堂で、右手が筌龍弁財天を祀るお堂。

その後、平家討伐や奥州藤原氏との戦いに勝利した義盛は建久元年(1190)、三浦半島先端の三崎の地の、港を見下ろす小高い丘上に光念寺を開基・創建した。そして安房に逃れた際の危機を救ってくれた龍神のご加護に対して感謝の意を込め、同地に筌龍弁財天を祀ったのである。

この寺院は三崎港バス停から路地を辿り、石段を登った先に立地する。境内に入る前に振り返ると、建ち並ぶ家屋の甍越しに三崎港やそこに架かる城ヶ島大橋、そして城ヶ島を望むことができる。境内も手入れが行き届いていて、とても気持ちが良い。和田義盛の足跡を辿る目的でなくても、三崎に訪れた際には立ち寄りたいスポットだ。

弁財天は和田義盛の陣中守護神となった龍神の化身。
弁財天は和田義盛の陣中守護神となった龍神の化身。
マグロの水揚げで知られる三崎港。マグロ料理店も建ち並んでいる。
マグロの水揚げで知られる三崎港。マグロ料理店も建ち並んでいる。

北条の権力盤石化を目指す義時の挑発

義盛は頼朝の死後、13人の合議制に名を連ねていて、北条氏とともに有力御家人を倒す側に身を置いていた。

しかし建暦3年(1213)2月、信濃国(長野県)の泉親衡という武士が、源頼家の遺児である千手丸を担ぎ、北条義時の暗殺と、幕府の転覆を図る。この計画は事前に発覚し、首謀格130名、その家臣200名が捕らえられた。

問題はその中に、和田義盛の息子ふたりと甥の姿があったことだ。義盛が嘆願したことで、息子の義直と義重は不問にされたが、首謀格であった甥の胤長は許されず流罪となる。

義盛は和田一門98名を率いて直訴を試みたが、幕府権力の完全掌握を目指していた北条義時は、義盛を挑発するように縛り上げた胤長を和田一門の前で連行した。それだけではなく、胤長が拝領していた土地は、一旦は義盛に下されるも、その後一転して義時に与えられることとなる。こうした度重なる挑発により、両者の対決は避けられなくなった。

4月の終わり頃、源実朝の使者が和田邸を訪れ、自重を促した。しかし義盛は合戦の準備を進め、同族の三浦義村からは合力を約束する起請文をとっている。それは義村が義時側に寝返ることを危惧してのことであったが、その心配は的中してしまう。5月2日、義村は和田一門の挙兵を義時に告げたのだ。

鎌倉の中心地が戦場と化した和田合戦

鎌倉を舞台とした市街地戦は、2日の夕方から随所で激戦が繰り広げられた。和田軍は北条義時邸、次いで大江広元邸を襲撃。さらに実朝の身柄を抑えようと、御所にも兵を差し向けた。だが義時の子、北条泰時の活躍もあって和田方はその夜、由比ヶ浜まで後退。

和田合戦の際に激戦の舞台となった若宮大路。
和田合戦の際に激戦の舞台となった若宮大路。
和田義盛の軍は由比ヶ浜まで後退。この浜も激戦地と化した。
和田義盛の軍は由比ヶ浜まで後退。この浜も激戦地と化した。

翌日、やや勢力を盛り返した和田軍は、若宮大路を攻め上がったが、実朝から義盛追討の命が下されると北条方が一気に攻勢に出て、3日のうちに義盛をはじめとする主だった和田側の武士は討ち取られてしまう。こうして鎌倉最大の市街地戦、和田合戦が終結した。

江ノ島電鉄の起点、鎌倉の次の駅は和田塚である。そのあたりから由比ヶ浜にかけてが、和田合戦の主戦場であったとされる。駅から徒歩3分ほどの場所には、和田一族の墓といわれる和田塚がある。

もともとは古墳があった場所と言われ、そこに和田合戦の戦没者が埋葬された。明治になり新たな道路を築いた際、塚があるあたりから夥しい人骨が出てきた。それが和田一族のものと考えられ、「和田一族戦没地」の碑が建立されたのだ。

和田塚駅に進入する鎌倉発の江ノ電。
和田塚駅に進入する鎌倉発の江ノ電。
和田塚駅から改札を抜け、踏切とは逆方向に進めば和田塚に至る。
和田塚駅から改札を抜け、踏切とは逆方向に進めば和田塚に至る。
住宅と並んだ一画に残されている和田塚。
住宅と並んだ一画に残されている和田塚。
この頃の和田義盛は、三浦氏嫡流の義村を凌ぐほどの勢力を誇り、「三浦ノ長者」と称されていた。
この頃の和田義盛は、三浦氏嫡流の義村を凌ぐほどの勢力を誇り、「三浦ノ長者」と称されていた。

長年、軍事部門の長であった和田義盛は、この頃になると北条氏にとって目の上の瘤となっていたのであろう。軍事の専門集団に合戦で勝利した北条氏は、名実ともに鎌倉武士の棟梁の地位を獲得したのであった。

次回は武家に生まれてきたことが不幸の始まりであった三代将軍・源実朝の最期と、優れた歌人としての功績を伝える地を巡る。

取材・文・撮影=野田伊豆守