心ならずも武家の棟梁となった3代目
源実朝(幼名・千幡)が生まれたのは建久3年(1192)8月9日。この年はかつて、鎌倉幕府が開かれた年として教科書に載っていた。実朝が生まれる一月ほど前、父の頼朝は征夷大将軍に任官している。鎌倉全体が、さぞ祝賀ムードに包まれたことだろう。12月には千幡を抱いた頼朝が御家人たちの前に現れ、一同にさらなる結束を呼びかけている。
だが建久10年(1199)には、源頼朝が突然亡くなってしまう。そこで御家人たちを束ねる鎌倉殿の地位には千幡の兄、頼家が就いている。ところがそれからわずか4年後の建仁3年(1203)、比企能員の変が起こり、頼家は将軍職を剥奪されたうえ、伊豆の修善寺に流されてしまう。その結果、千幡への家督相続が認められ12歳で元服。後鳥羽院の命名により実朝と名乗ることとなった。
それが不幸の始まりだったのかも知れない。成長するにつれ政治にも深くかかわるようになり、それに反して北条氏をはじめとする御家人たちとの関係が揺らいできてしまう。
元久元年(1204)12月になると、実朝は京から後鳥羽上皇の外叔父にあたる坊門信清の娘を正室として迎えた。こうして実朝は、京との結びつきを強くしていったと同時に、和歌をはじめとする京文化に、強い憧れを抱いていったのである。やがて和歌の評を藤原定家に請うまでになった。
そんな歌人・実朝の残した歌を刻んだ歌碑が、鎌倉市内に5基建てられている。そのうちの2基が、鶴岡八幡宮内で見られる。鶴岡八幡宮は源頼朝ゆかりの神社で、幕府の中枢となる施設が揃っていた。実朝にとっては甥であり、自らが猶子としていた頼家の子、公暁に襲われ最期を遂げる因縁の場でもある。
京に対する真摯な気持ちを詠んだ歌が刻まれた碑
八幡宮内にある末社のひとつで、源頼朝公と実朝公を祭神とする白旗神社の周辺には、実朝が詠んだ和歌を記した碑が2基、それに実朝を偲んで詠まれた句碑が1基ある。その中でも注目したいのが、白旗神社への参道脇にある「鎌倉国宝館」正面玄関入り口手前、右側に立つものだ。
「山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」という『金魂和歌集』に収められている一首が刻まれている。使われている碑石は、もともとは大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災で倒壊した、二の鳥居の柱であった。
「山が裂け崩れ、海が干上がってしまうような劇変の世がやって来ても、この私が上皇様を裏切るようなことは絶対にありません」という意味で、実朝がこの歌を詠んだ頃には和田合戦が起こり、その直後に鎌倉は大地震に見舞われ、実際に山が崩れる様子を目の当たりにしていると思われる。それだけに、大げさな表現ではあるが、実朝の本心が伝わってくる。
もう1基は国宝館前、東西に延びる流鏑馬馬場の、一段高くなった場所に植えられている「実朝桜」を示す標柱に刻まれている。
「風騒ぐ をちの戸山に 雲晴れて 桜にくもる 春の夜の月」というもの。その意味は「風のざわつく人里に近い山の上空は快晴だから、春の夜の月がよく見えてもよさそうなのに、桜の花が盛んに落下していて曇ってしまっている」である。
ちなみに植栽されている桜は、実朝の首塚が残されている秦野市から贈られたもの。だが参拝客はみな流鏑馬馬場を歩くため、碑や桜に目を向ける人は少なかった。
そして白旗神社では、実朝の誕生日に短歌の会を催す「実朝祭」が行われている。その白旗神社と柳原神池の間には、実朝を偲んで詠んだ「歌あはれ その人あはれ 実朝忌」という句を刻んだ碑が、木立の間に建てられている。作者は明治、大正、昭和にかけて活躍した実業家にして俳人の菅礼之助(号は裸馬)である。
実朝の墓に立ち寄った後、雄大な自然を感じる歌に触れる
鶴岡八幡宮の後には、実朝と北条政子の墓が並んでいる寿福寺まで足を延ばした。ここは「鎌倉五山」の第三位で、石畳の参道が美しいことで知られている。境内の参拝は特別公開日のみだが、中門までは自由に拝観できる。加えて中門の前から左側に回り込み、道なりに登っていけば墓地に至る。その一番上の山の斜面にはやぐら(横穴墓地)があり、そこには北条政子と源実朝の墓もある。また門前には、実朝の顕彰碑も建っている。
続いて訪れた歌碑設置場所は、鎌倉商工会議所である。鎌倉市役所の北側にあるごく普通の建物で、昭和44年に新築された際に実朝歌碑も建立された。設置場所は隣りの諏訪神社との間にある通路の奥。商工会議所が開いている時間は、自由に見られる。
刻まれているのは実朝が箱根神社に参拝した後、十国峠を越えて伊豆山神社に行く途中に詠まれた「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ」という歌だ。「箱根の山を越えてくると、急に視界が開けて広々とした伊豆の海の沖に浮かぶ小島(初島)に、波が打ち寄せているのが手に取るように見えてくる」という意味。
歌人の斎藤茂吉は、これは『金魂和歌集』の中に収められた歌の中でも、第一級のものと讃えている。
海に船を浮かべて外の国へ。夢見た思いが伝わる
4つめの歌碑へは、鎌倉駅から江ノ電に乗って行くのが便利。鎌倉から3つめの長谷駅で下車し徒歩15分、鎌倉幕府とは何かと因縁が深い、由比ヶ浜の西端にある鎌倉海浜公園内に建てられている。
歌碑は小船を模した形で、背後の相模湾に浮かんでいるように見える。これは実朝が船を造り、宋の国へ渡ろうとしたことにちなんでいる。
「世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海女の小舟の 綱手がなしも」という、実朝の代表歌が刻まれている。この歌は藤原定家が『新勅選集』と併せ、 鎌倉右大臣の名で『百人一首』にも採用しているほど。「世の中は常に変わらないものであって欲しい。渚で引網を引いて舟を漕いでゆく漁師たちの姿の悲しいこと」という意。
鎌倉の浜辺で漁師たちが働く姿を目にした実朝が、苦しい生業を営んでいる生き方に寄り添い詠んだ歌と言われている。都の人は見ることができない美しい光景ながら、海人たちの暮らしはどこかわびしさを感じる。そんな心情が透けて見える。
鎌倉にある最後の1基は、鎌倉文学館正門を入り、本館へと続く招鶴洞の手前植え込み内にある。そこに設置されている外灯柱に貼られた銅板に刻まれているのだ。文学館が閉まると見ることができないので、開館時間や休館日は必ず確認しておきたい。
「大海の 磯とどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも」という、これもまた有名な歌だ。意味は読んだ通りで「大海からの波が荒磯に打ち寄せる。その波は岩に当たると砕けて散り、それが永遠に繰り返されている」というもの。実朝が到達した、風景描写の極致と言えるものだ。
ひと足延ばし、秦野市に残る実朝の首塚も訪ねてみた
建保7年(1219)1月27日、雪が積もるなか、鶴岡八幡宮への参拝を済ませた実朝は、その帰路に大階段付近で甥の公暁に殺されてしまう。その際、実朝の首は行方知れずとなっていた。その後、三浦義村の家臣である武常晴が公暁と戦った際、偶然にも実朝の首を手に入れた。常晴はそれを三浦側には届けず、三浦氏と対立していた波多野氏に渡し、埋葬を依頼したと伝えられている。それが秦野市に残されている「実朝首塚」だ。
その後、波多野忠綱が実朝の厚い帰依を受けていた僧・退耕行勇を招いて、首塚の近くに金剛寺を建てている。この寺には実朝の木像が収められている。小田急線秦野駅からバスで30分ほどの「中庭」バス停で下車すれば、首塚、金剛寺とも徒歩3分ほど。鎌倉からは少し足を延ばすことになるが、首塚に隣接する田原ふるさと公園には素朴な田園風景が残されているので、訪れてみる価値は大きい。
取材・文・撮影=野田伊豆守