昔から、母の冗談は手が込んでいる。衝撃だったのは「オリロー」事件である。オリローとは、マンションやビルなどによく設置されている避難器具だ。オリローという名称の由来は、おそらく「降りろー」から来ているのだと思われる。以前、母とわたしが住んでいたマンションにもオリローが設置されていたのだが、「いざ火事になったとしても、これを使って降りる勇気がない」という話を常々していた。
そんなある日、母が「オリローを使ってみよう」と言い出した。「いやあ、怖いし、ちょっと恥ずかしいよ」と止めたのだが、言い出したら聞かない母である。おもむろにオリローのロックを外し、中から救助袋を取り出した。一体何メートルなのかわからないが、4階から地面まで届くほどの長さだ。これを窓から地面に向かって投げ、中に入って降りるのだという。わたしが「やっぱり怖いよ」と言うと、母は「練習しなきゃ、火事になったときに大変だ」と、着々と準備を進める。そして、「さあ、降りるよ！」と言って立ち上がり、その場で真っ白な救助袋の中に入り、大声で叫んだ。
「オリローーーー！！！」
……いや、そうじゃない。叫ぶ練習はしなくていい。仮に叫ぶとしても、「オリロー」と叫ぶ必要はない。わたしが「窓から投げないと」と言うと、「それは怖くて無理」と真顔で言う。その目はニヤリと笑っていた。
そんな風変わりな母が、あるときから大量の食糧や日用品を買い込むようになった。米、缶詰、レトルト食品、トイレットペーパー、ガスボンベ。母の買い溜だめは留まることなく、家の至る所に備蓄品が置かれるようになった。ベランダは足の踏み場もなく、部屋のあちこちで段ボールの山にぶつかりながら歩く始末。「一体どうしたの？」と聞くと、「食糧難に備えている」という。嫌な予感がした。値上げラッシュが続き、食糧難もあり得る話なのかもしれない。しかし、母の言う食糧難は意味合いが違う。ロスチャイルドによる人口削減だというのだ。
母曰（いわ）く、ユダヤ人富豪のロスチャイルド家が世界を牛耳っており、2030年までに人類の9割を削減し、残りの1割を奴隷化。ユダヤマフィアのエリート700人で、新世界秩序の人類支配を完成させる計画だという。
コロナウイルスをばらまいたのもロスチャイルドで、次に来るのはエイズウイルス。「そんな話、聞いたことない」と言うと、母はYouTubeで仕入れた得体の知れない情報をとくとくとして語り始める。根が真面目で人を信じやすい母は、2年以内に起こるであろう食糧難と世界戦争とエイズウイルスの蔓延（まんえん）に、今日も頭を悩ませている。
4年前に会社を退職してから、母は家にこもりがちになった。これといった趣味もなく、手持ち無沙汰にしている母に「パソコンでもやったら？」と勧めたのは、わたしだったような気もする。iPadを購入した母は、見る見るうちにインターネットの世界にのめり込んでいった。とくに夢中になったのはYouTube。最初は大好きな綾小路きみまろの動画を笑いながら観ていたのだが、徐々に怪しげな動画にハマっていった。
最初はわたしも反発した。「お母さん、それは陰謀論って言ってね……」。しかし母は聞く耳を持たない。そのうち、わたしも観念した。74歳の母。長生きしてほしいが、この先、そう何十年も生きられるわけではない。母の言うことを肯定はしないまでも、真っ向から否定するのはやめようと思った。
母には苦労をかけたのだ。中学から大学まで学費の高い私立校に通い、大手企業に就職したと思ったら、激務でうつ病になり1年で休職。母はわたしの看病に明け暮れた。病気が快復すると、今度は「ライターになる」と言って会社を勝手に辞め、しかし仕事はなく、フリーターのような生活が何年も続いた。そして未（いま）だ、だらだらとうだつの上がらないライターを続けている。母に対して負い目がある。親孝行したいが、まだまだできそうにない。せめて母には少しでも心穏やかに過ごしてほしい。いまでは母と仲良く備蓄に励む日々である。
早い時間帯の『居酒屋とんぼ』は、大抵、客はわたし一人。カウンターに座り、ママと二人でテレビを観る。その日は「無印良品のレトルトカレーに順位を付ける」という趣旨の番組で、わたしとママは「チキンカレーが美味（おい）しそう」「激辛カレーが食べたい」といった、他愛もない話をした。そんな時間が、たまらなく愛おしい。
家に帰るなり、母が嬉々として「今日はトイレットペーパーが特売だった！」と駆け寄って来た。よかったよかったと、わたしも喜ぶ。いつ使うかもわからないトイレットペーパーの山に囲まれながら、映画『ベルベット・ゴールドマイン』の台詞を思い出す。
「人生の第一義は、ポーズを取ること。第二義は？」
―― I don’t know.
文・イラスト＝尾崎ムギ子
