野田伊豆守(のだいずのかみ)(達人)の記事一覧

野田伊豆守(のだいずのかみ)
達人
野田伊豆守(のだいずのかみ)
フリーライター・編集者
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、徳間書店勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『蒸気機関車大図鑑』(小学館)など。
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豊臣兄弟の天下獲り・最後の総仕上げ。小田原城総構を歩く【大河ドラマ散歩特別編下巻】
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げ的に行った戦いが、堅固な小田原城に拠る後北条氏(以下・北条氏)攻めであった。この戦いは天正18年(1590)2月に始まっている。ところが今回の大河ドラマの主人公である豊臣秀長は、天正16年(1588)9月頃から何度か有馬温泉で湯治を行うほど、体調が思わしくなかったようだ。天正18年(1590)は1月から病に臥せっていたため、京都で療養を続けていた。そのため小田原城を包囲した豊臣軍の布陣には、秀長の名前は見当たらない。
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豊臣兄弟最大のライバルとなる徳川家康が江戸(東京)に遺した足跡を訪ねる【大河ドラマ散歩特別編上巻】
現在放映中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、ご存じの通り稀代の出世男である豊臣秀吉を、影から支えた弟・豊臣秀長が主人公。ドラマ内では、秀吉による天下統一事業が本格的に始動している。秀長が活躍する場面がますます増えてくるが、舞台はまだ東海地方から西ばかり。だが今後は徳川家康とのからみも増えてくるはず。そこで少し気が早いが、重要度を増してくる徳川家康という人物が、江戸(東京)に残した足跡を辿ってみることにしよう。
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喜三二や南畝、北斎など物語を最後まで彩った人物ゆかりの蔵前から上野へ。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の拾〈最終回〉】
振り返ると、ドラマが始まったばかりの頃は江戸時代が舞台、しかも一般的にあまり知られていない出版人が主役。ということで、一年間持つのかと心配した自分が今更ながら恥ずかしい。すでに“ロス”に陥ってしまうほど、『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』という大河ドラマは秀逸であった。そんな『べらぼう』をテーマにした散歩も今回がラスト。訪ねたのは「東京観光」の王道コースでもある!
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ここも東京!? 長谷川平蔵ゆかりの地、佃島から石川島へ江戸湾島散歩。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の九】
『べらぼう~~蔦重栄華乃夢噺~』の時代、すでに百万都市という世界最大の人口を誇っていた江戸の町。その治安維持を担っていたのが南北の町奉行所である。ドラマには火付盗賊改長官の長谷川平蔵は登場するが、南北の奉行は出てきた記憶がほとんどない(見逃したか!?)。両奉行所が置かれた場所は思いのほか近く、JR山手線で見るとひと駅違い。今回はこのふたつの奉行所跡を、まずは訪ねてみた。
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元杢網と智恵内子、稀代の狂歌師夫妻にゆかりのある川越を巡る。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の八】
東京から日帰りができる観光地として、内外の観光客から絶大な人気を集めている埼玉県の川越。この街が本格的に整備されたのは、寛永15年(1638)に川越で発生した寛永大火の翌年、川越藩主としてこの地を治めることとなった松平信綱の時代である。“知恵伊豆”と称された信綱は、産業開発や土木事業を推奨。現在に続く川越の発展の基を成した。川越城の拡張も偉業であるが、それ以上に「町割」と呼ばれる都市計画に、優れた手腕を見せた。城下町は武家地、町人地、寺社地という具合に、身分によって居住する区域を定めている。武家地は城の南北と、川越街道沿いを中心に配置された。町人地は札の辻を中心とする通りに展開されていた。
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庶民の町として発展した江戸の下町・深川で、山東京伝、松平定信らの足跡を追う。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の七】
都心のビジネス街は指呼の間(しこのかん)。日中はビジネスマンらしき出で立ちの人々も多く行き交う深川は、それでもどこか昔ながらの下町情緒が漂っている。ここは徳川家康が江戸の町づくりを進めていた慶長年間(1596〜1615)、摂津国(現・大阪府と兵庫県の一部)からやって来た深川八郎右衛門が隅田川河口を埋め立て、深川村と名付けたのが始まり。この地は明暦3年(1657)に起こった「明暦の大火」以後、日本橋や神田にあった貯木場が深川やその東側の木場へと移ってきたことに加え、大川(隅田川)と中川(旧中川)を結ぶ小名木川や仙台堀川などの運河による舟運ルートが確立し、大きく発展。そして膨れ続ける江戸の人口をのみ込んでくれた。今回はそんな深川で、この地と縁が深い『べらぼう』登場人物の足跡を追ってみることにしたい。江戸時代は庶民の町であった一方、郊外には風光明媚な風景が広がっていたことから、粋な人たちが別荘を構えた地でもあった。そんな面影も同時に追ってみよう。
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田沼意次ゆかりの地・静岡県牧之原市相良で、幕府の財政を好転させた名君の足跡をたどる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の六】
ひと昔前の教科書では、田沼意次(たぬまおきつぐ)は“賄賂政治”という言葉と対になって記述されていた。だが大河ドラマ『べらぼう』では、近年見直されてきた改革者としての田沼像に寄せていると思われる。しかも演じているのが渡辺謙なので、切れ者感が半端ない。田沼意次は16歳の時、のちに九代将軍となる徳川家重の小姓となり、父の遺跡600石を継いでいる。家重が将軍職に就くと、意次も江戸城本丸に仕えるようになった。それとともに順次加増され、宝暦8年(1758)には1万石を拝領、大名に取り立てられる。家重が逝去した後も、十代将軍徳川家治から厚く信頼され、出世街道を歩み続けている。そして明和4年(1767)、側近としては最高職の側用人へと出世を遂げた。加えて2万石が加増され相良(さがら)城主となり、さらに安永元年(1772)になると、遠州相良藩5万7000石を拝領し藩主となった。そして幕政を担う老中にまで昇進したのだ。わずか600石の小身旗本が5万7000石の大名になり、しかも側用人から老中になった、初めての人物だ。そんな意次の足跡が残る相良を歩いてみた。
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江戸の出版業界を席巻した「耕書堂」、店を構えた日本橋界隈を訪ねる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の伍】
ドラマ『べらぼう』も中盤に入り、個性的な登場人物が次々に登場。現代でも高い評価を得ている芸術家や文化人と、彼らが生み出す作品を世に送り出した稀代のプロデューサー蔦屋重三郎(以下・蔦重)のアイデアが、一気に花開いていく様子が描かれている。その小気味の良い展開に、すっかり虜(とりこ)となってしまった人も多いようだ。安永2年(1773)、吉原五十間道に立っていた「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして、書店「耕書堂」を始めた蔦重。本屋としての地歩を着実に固めた後、天明3年(1783)にはついに日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に耕書堂を構えた。“ついに”と表現したのは、ここは鶴屋喜右衛門といった江戸の名だたる地本問屋が軒を連ねる書店街だったからだ。まさしくこの時に、出版界に「耕書堂あり!」となったのである。
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将軍継承問題や幕閣の権力争いが続く伏魔殿・江戸城跡周辺を訪ねる。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の四】
ドラマ『べらぼう』では、次の将軍を選ぶための陰湿な争いが描かれ始めた。第10代将軍徳川家治(いえはる)の嫡男・家基(いえもと)が謎の死を遂げ、さらに真相を突き止めようと動いた老中首座の松平武元(たけちか)も、5カ月後に急死。田沼意次の毒殺ではないか、という噂が城内で広まっていく。そしてドラマでは、意次が懇意にしている平賀源内に調査を依頼。だが確固たる証拠が見つからぬまま、それ以上の探索はかえって事件を拡大させる恐れがあると感じた意次は、調査の打ち切りを決定。真相に迫っていると感じていた源内は憤慨する。そんな源内の元には、怪し気な人物が近づいてくる。
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江戸屈指のクリエイター・平賀源内の、今も参拝者が絶えない墓へ。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の参】
大河ドラマ「べらぼう」を見ていると、毎回その言動が気になって仕方がない人物がいる。ある意味、もうひとりの主人公といっても過言ではない存在。それは江戸時代の天才クリエイター・平賀源内だ。主人公の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、以下蔦重)が何か壁にぶつかるたびに、フラリと現れては解決への糸口を探り当てる。平賀源内というのは実に多彩で、そのうえつかみどころのない人物である。もともとは讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の下級武士・白石家の三男として享保13年(1728)に生まれた。身分が低かったにもかかわらず、藩医の元で本草学を学び、宝暦2年(1749)頃には長崎へ1年間の遊学に出ている。長崎に行くことができたこと自体が謎なのだが、そのうえ何を学んでいたのか記録が定かではない。その後の活躍ぶりから、オランダ語や医学、油絵などを学んでいたのであろうと考えるのが自然だ。
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