【今回のコース】吉原を巡り浅草駅から三ノ輪を歩く

そんなドラマタイトルと同じように、小気味いいテンポでストーリーが進んでいく今回の大河ドラマ。それに負けないよう散歩に出かけたいところだが、舞台の変化が乏しいのが玉に瑕(きず)。

ということで、こちらも「短気は豪気(!?)」とばかりに、ドラマの展開を先取りして、今後ますます物語に絡むであろう人物や、重要な役どころとして新たに登場しそうな人物ゆかりの地を、せっかちに訪ねてしまおう。

今回も撮影しながらゆっくり歩いた。

JR両国駅西口→(5分)→榛稲荷神社→(1分)→ひがしん北斎ギャラリー→(10分)→緑町公園葛飾北斎生誕の地・すみだ北斎美術館→(25分)→勝海舟生誕の地→(5分)→吉良上野介屋敷跡→(5分)→回向院→(8分)→烏亭焉馬居住の地→(50分)→長谷川平蔵住居跡の解説板→(1分)→長谷川平蔵住居跡→(20分)→長谷川平蔵の旧邸→(20分)→『Kad Kokoa(ガートココア)』→(12分)→JR両国駅

ドラマの登場人物と関連深い両国へ

JR両国駅西口。国技館や回向院(えこういん)への出口となる。
JR両国駅西口。国技館や回向院(えこういん)への出口となる。

ということで足を運んだのは両国。両国駅西口を出ると、まずは右手にある国技館が目に入る。訪ねた日は初場所の余韻が残っていたため、駅前には力士の姿もちらほら見られた。国技館があるだけでなく、近くの回向院は勧進相撲の定場所が開かれたことでも知られている。言わば相撲の聖地なので当然といえば当然。そんな回向院は、今後ドラマに登場する重要人物のお墓があるのだから、今回は外せないポイントだ。

しかし、駅から一筆書きのように“両国史的スポット”をグルリとたどるコースを設定したので、その順番に従おう。最初はこの地で生まれ蔦重とも関連があった世界的絵師・葛飾北斎ゆかりの場所へと向かうことにした。

まずは北斎が80歳を過ぎた後、娘のお栄(応為)とともに住んでいたと記録されている場所の近くに立つ榛(はんのき)稲荷神社へ。ここに行くには駅は東口から出たほうが近いのだが、趣のある両国駅の駅舎は西口なので、駅舎の姿も楽しむには遠回りも致し方なし、か。

老齢の北斎が娘と暮らした家が近くにあったと伝わる榛稲荷神社。
老齢の北斎が娘と暮らした家が近くにあったと伝わる榛稲荷神社。

世界的絵師・葛飾北斎生誕の地

神社には北斎に関する案内板が立てられているくらいで、何かが残されているわけではない。とはいえ、ビルの谷間に残された小さな社は、崇高な雰囲気をたたえている。

その北側に立つ『東京東信用金庫 両国本部』は、建物の外壁に北斎作品の解説パネルが設置されている。「ひがしん北斎ギャラリー」と呼ばれる粋なこの解説パネルリニューアルの一環として、2024年には、北面の壁に北斎のブロンズ像が設置された。像の両側はベンチになっているので、北斎との2ショット写真が楽しめる、という寸法だ。

『東京東信用金庫 両国本部』では、建物の外壁に北斎作品の解説パネルや北斎坐像を設置した「ひがしん北斎ギャラリー」を常時公開。
『東京東信用金庫 両国本部』では、建物の外壁に北斎作品の解説パネルや北斎坐像を設置した「ひがしん北斎ギャラリー」を常時公開。

北斎は若い頃、勝川春章に師事し勝川春朗と名乗っていた時分、蔦重の元で武者絵や狂歌絵本の挿絵を描いている。『東遊(あずまあそび)』という狂歌本の挿絵には、「蔦屋重三郎」と書かれた行灯と、「耕書堂」という暖簾(のれん)を下げた絵草紙屋の店先を描いたものがある。これは日本橋にあった蔦重の店であろう。店の奥に蔦重らしき人物がいるが、この絵が描かれたのは寛政11年(1799)。蔦重が寛政9年(1797)に亡くなっているので、別の人物か、あるいは北斎の記憶に残る蔦重の姿なのか……。

そんな北斎が生まれたと伝えられている地も、すぐ近くにある。

東京東信用金庫前からJR線のガードをくぐり現在は改修のため休館中の『江戸東京博物館』前の信号を千葉方面に向かうと、墨田区立緑町公園というやや広めの児童公園前に着く。この付近が葛飾北斎生誕の地とされ、それを示す案内板がある。それより目をひくのは、地面に設置されている「富嶽三十六景」の一場面「凱風快晴」のタイル絵。児童公園とは不釣り合いに思えるが、それほど地元の人に愛されているのだろう。

この公園の南隣には、全面銀色の壁面が異彩を放つ『すみだ北斎美術館』が立っている。北斎の作品を数多く所蔵する美術館だけあり、常設展や企画展、さらにはイベントなどで北斎の魅力をたっぷり魅せてくれる。

タイルで描かれた北斎作品が出迎えてくれる緑町公園。奥に見える銀色の建物が『すみだ北斎美術館』。
タイルで描かれた北斎作品が出迎えてくれる緑町公園。奥に見える銀色の建物が『すみだ北斎美術館』。

大河ドラマ常連ゆかりの地が続々

『すみだ北斎美術館』から南下し、再びJR線のガードをくぐり緑二丁目西の交差点で国道14号を渡る。左手に登録有形文化財となっている木造住宅『照田家住宅』が見えたら、次の交差点を右へ。そのまま道なりに西へ向かうと、墨田区立両国公園の前を通る。

ごく普通の児童公園なのだが、南東の角にいかにも不釣り合いな大きな案内板があった。さらに刀が立てかけてある椅子のモニュメントまで置かれている。この地は文政6年(1823)、幕末の傑物のひとり、勝海舟が生まれた場所なのだ。『べらぼう』とは関係はないが、勝といえば大河ドラマの常連中の常連だ。せっかくなので、腰掛けOKのモニュメントに座り、記念写真なんていかが?

勝海舟生誕の地は現在、両国公園となっている。
勝海舟生誕の地は現在、両国公園となっている。

さらに西へと向かうと、今度は『忠臣蔵』の敵役、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の屋敷跡に作られた「吉良邸跡(本所松坂町公園)」前に出る。こちらも大河ドラマでは何度も取り上げられている大物。素通りはできないでしょう。小さな公園と書いたが、実際の屋敷は広大で、東西733間(約134m)、南北は34間(約63m)もあり、坪数は2550だったとか。

高家の格式を誇る吉良上野介の屋敷跡らしい海鼠(なまこ)壁が再現されている。
高家の格式を誇る吉良上野介の屋敷跡らしい海鼠(なまこ)壁が再現されている。

吉良がこの屋敷を拝領したのは元禄14年(1701)9月3日。

赤穂浪士の討ち入りが行われ、吉良が討ち取られたのが元禄15年12月15日(1703年1月31日)なので、わずか1年半ほどの短い期間しか住んでいない。公園は「吉良の首洗いの井戸」を中心とした区画で、昭和9年(1934)に、地元町会が発起人となり土地を購入。その後、東京都に寄付した。公園内には井戸のほか稲荷神社、吉良上野介義央公の坐像などがある。

100平方メートルほどの小さな公園だが、史跡としての要素が強い。
100平方メートルほどの小さな公園だが、史跡としての要素が強い。

ドラマ登場が待たれる作家の墓を参拝

江戸時代最大の火事と言われる、明暦の大火(振袖火事)の犠牲者を弔うために建立された浄土宗の寺院が回向院だ。この火事を教訓とした幕府は、避難場所となる広小路を各所に設けた。両国橋のたもとに造られたのが両国広小路で、仮設の見世物小屋や屋台が立ち並んでいた。そして回向院の境内では「勧進相撲」が行われていた。そうしたこともあり、今でも力士がよく参拝に訪れるのだ。

国道14号に面した、回向院正門の仁王門。
国道14号に面した、回向院正門の仁王門。

そんな回向院には著名人の墓や記念碑などが点在している。ここではこの先、蔦重が版元となりヒット作を連発した浮世絵師で戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)・京山(きょうざん)の墓は外せない。大河ドラマではミュージカル界の貴公子・古川雄大が演じるとか。江戸の出版界に旋風を引き起こす二人の活躍、今から楽しみが止まらない。ということで、ここは先取りして参っておくことにしよう。

また蔦重のライバル西村屋与八が版元となり、数多くの美人画を出版した鳥居清長の碑もある。埋め込まれたレリーフは清長が描いた美人画で、顔の部分がピカピカだ。なんでも、顔を撫でると美人になれる、らしいです!

山東京伝(岩瀬醒〈さむる〉)・京山(岩瀬百樹)兄弟の墓。
山東京伝(岩瀬醒〈さむる〉)・京山(岩瀬百樹)兄弟の墓。
鳥居清長の碑。遠目でも顔が光って見える。
鳥居清長の碑。遠目でも顔が光って見える。

回向院にはほかにも鼠小僧次郎吉の墓があり、長年捕まらなかった強運にあやかろうと、墓石の前にある「前立の石」をお守りとして削り持ち帰る人が多い。2025年5月31日と6月1日の2日間、回向院念仏堂で「鳥居清長展」が開催予定だ。入場は無料。

鼠小僧次郎吉の墓。その前にあるのが削るための「前立の石」。
鼠小僧次郎吉の墓。その前にあるのが削るための「前立の石」。

ドラマ前半を盛り上げた有名人の屋敷へ

回向院を後にしたら、竪川(たてかわ)に向かって南下し、塩原橋を渡る。この橋の南詰に「烏亭焉馬(うていゑんば)居住の地」案内板が立っている。

焉馬は蔦重と同時代の人で、親交があった戯作者・狂歌師で、江戸落語中興の人である。大工の棟梁の子として生まれ、自身も大工として大田南畝(蜀山人)の屋敷を手がけている。焉馬もこの先、ドラマに登場するだろうと思われる文化人のひとりだ。

烏亭焉馬の住居があった塩原橋。南詰に立つ案内板は、残念ながら文字がかすれていた。
烏亭焉馬の住居があった塩原橋。南詰に立つ案内板は、残念ながら文字がかすれていた。
竪川に沿って歩行者専用の道もあり、散歩にはとてもありがたい。
竪川に沿って歩行者専用の道もあり、散歩にはとてもありがたい。

そこから竪川沿いの遊歩道を東に向かい、三ツ目通りとぶつかったら地下鉄新宿線の菊川駅方面へと南下。駅のA3出口前には、ドラマでは「カモ平」にされている愛すべきキャラ、長谷川平蔵住居跡の解説板が立っている。

菊川駅前にある長谷川平蔵住居跡の解説板。
菊川駅前にある長谷川平蔵住居跡の解説板。

そのすぐ先の菊川駅前交差点を左に曲がると、『丸山歯科医院』の前の角に鏡張りの「長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡」の碑がある。この付近には平蔵19歳の時、父宣雄の屋敷替えにより築地から移り住んだ屋敷があった。こちらが屋敷の南東端、駅前案内板付近は北西端であったようだ。

家督を継いだ平蔵はその後、病没するまでこの屋敷に住んでいた。平蔵が亡くなって数十年後、ここは名奉行・遠山金四郎の下屋敷となっている。

新大橋通りの歯科医院前にあるモニュメントは鏡張りで人目をひく。
新大橋通りの歯科医院前にあるモニュメントは鏡張りで人目をひく。

住居跡の碑前からそのまま東に向かい、菊川橋西詰交差点を左折。再び竪川を渡って少し進むと、左手に「長谷川平蔵の旧邸」という案内板が見える。ここは池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』で、若い頃の平蔵が住んでいた屋敷があった場所とされている。

義母に「妾腹の子」といじめられ、その反発で屋敷を飛び出した。そして「本所の銕」などと呼ばれ、放蕩三昧の青春時代を送っていたと、描かれている。この先、カモ平が鬼平となっていく様子も楽しみだ。

注意しないと見落とすかもしれない「長谷川平蔵旧邸」の案内板。高札の形をした「鬼平情景」は、墨田区内各所で見られる。
注意しないと見落とすかもしれない「長谷川平蔵旧邸」の案内板。高札の形をした「鬼平情景」は、墨田区内各所で見られる。
池波正太郎の代表作『鬼平犯科帳』の魅力は、登場人物の性格や人となりがしっかりと描かれている点だと思う。とくに主人公の長谷川平蔵は、若い頃は放蕩三昧で、地元の人たちからは“本所の鬼銕(おにてつ)”などと呼ばれていた。心が屈折してしまう環境に置かれていたために荒れていたのだが、そこで知り合う人たちがその後の物語に彩りを添えてくれる。ということで今回は、平蔵が生母の実家を出た17歳の時から、父が京都町奉行に就任したことで京都に同行するまで住んでいた、本所入江町周辺を訪れることにした。この界隈は、まさに平蔵の青春時代の思い出が詰まった地で、物語にちょくちょく登場するのだ。
池波正太郎がこよなく愛した東京の下町。『鬼平犯科帳』や『剣客商売』など、人気の池波作品ではその魅力が余さず表現されている。それはつねに氏が町を歩き、実際の空気感を描き出していたからに他ならない。そんな池波正太郎の世界を訪ね歩く下町散歩の第2回目は、本所の総鎮守として親しまれている牛嶋神社からスタート。

タイ発の極上チョコレートに遭遇

今回の散歩はここまで。緑四丁目の交差点で国道14号とぶつかったら、JRの錦糸町駅へ向かってもいいのだが、周回コースとしたので両国駅へと向かう。駅まであと少しという緑二丁目交差点まで来ると、右手に『Kad Kokoa(ガートココア)』という看板を掲げた気になる店を発見。

ここは2024年12月17日に日本初オープンした、タイの4つの地域から採れるカカオを使用した味わい深いチョコレートが楽しめる店とのこと。カカオが育った地域ごとに異なる香りや味わいが楽しめ、タイを訪れたことがある日本人にはファンが多いという。

チョコをおみやげにできるだけでなく、疲れた体を癒やしてくれるチョコレートドリンクをその場でいただくのも悪くない。ということで、散歩のシメに冷たいホイップクリームチョコレート790円をいただきました。

板チョコをはじめチョコレートクッキーやチョコレートドリンクをラインアップ。ドリンクはホットもあり。
板チョコをはじめチョコレートクッキーやチョコレートドリンクをラインアップ。ドリンクはホットもあり。
営業時間は木〜日曜日の11〜16時。 ホームページはhttps://kadkokoa-jp.stores.jp。インスタグラムは@kadkokoa.jp。
営業時間は木〜日曜日の11〜16時。 ホームページはhttps://kadkokoa-jp.stores.jp。インスタグラムは@kadkokoa.jp。

口いっぱいに広がる濃厚なチョコレートの香り、それでいてスッキリとした味わいは、クセになること間違いなし!

満足したところで帰路につきます。

次回は平賀源内のお墓を訪ねてみようと思っていますが、あくまで予定は未定なのであしからず……。

取材・文・撮影=野田伊豆守