吉永陽一(達人)の記事一覧

吉永陽一
達人
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。
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丸ノ内の近衛師団の爪跡を探して~皇居の近くにひっそりとある7つのベンチは陣地跡【廃なるものを求めて】
盛夏のある日。調べ物があって靖国神社と遊就館へ行った帰り道、夕焼けに染まりつつある空の下を歩いても汗だくとなって、北の丸公園まで来ました。武道館ではライブ中の音が漏れ聞こえ、公園の木々を歩くころにはその音響が蝉時雨へと変わります。皇居・北の丸公園は緑に覆われて、酷暑で火照った体を休ませるにはちょうどいい場所です。目的の場所は北の丸公園のはずれ、千鳥ヶ淵の畔にある小さな憩いスペースです。GoogleMapを開くと史跡マークがついていて、こう記してあります。「千鳥ケ淵九八式高射機関砲台跡」。東京のど真ん中、皇居のすぐ隣に戦跡が眠っているのです。
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横沢入の戦車橋・後編。戦車橋と呼ばれた遺構の正体を考察する
前編は訪れる季節を間違え、せっかくの廃なる物件の探索も残念な結果となりました。そこで、2008年4月に訪れて撮影したときのカラーネガ作品をご覧ください。正方形サイズは、6x6cm版のカメラで撮影しています。※撮影は全て2008年4月。
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横沢入の戦車橋・前編。都内の里山の小さな橋へ
東京都あきる野市。JR五日市線の終点武蔵五日市駅の手前に丘陵があります。この辺りまで来ると、同じ東京とは思えないほど緑が多く、農地もあります。武蔵五日市駅と武蔵増戸駅間は、五日市線の線路を境に南側が宅地化され、北側は自然豊かな丘陵地帯となっています。
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渋谷駅前とセンター街の街角にひっそり佇む陸軍敷地の標石
土地と土地の境界を示す境界標。標石とも呼びます。墓石を小さくしたようなその石柱は、国鉄では「工」印、都道府県名、省庁名など、その土地の所有組織の名称やマークが刻まれています。探索する施設の場所の特定に繋がるため、標石を目印とすることもあります。「陸軍用地」と記載された標石は、旧軍の施設を探すときに道端で見かけ、軍施設の跡を調べるときの目印となります。陸軍の敷地は都心部にも数多くあったので、いまも人知れず、あるいは知っている人は知っている場所に、ひっそりと「陸軍」の文字が刻んだ標石が残されています。それが渋谷のど真ん中にあると言うと、にわかに信じがたいですよね。それがまだ残されていました。2ヶ所の標石を紹介します。
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住宅地の小道は、かつて競馬場のコースだった
普段何気なく通っている場所は、遺構こそないのだけど、実は廃なるものがあるというのはよくある話です。今回と次回はそんな場所を紹介します。ほとんど遺構らしいものはないために、いつもよりボリュームの少ない記事ですが、全く異質なものを紹介するので2回に分けました。のっけから宣伝で恐縮なのですが、2023年7月2日まで目黒にて空撮の写真展を開催しています。その会場の最寄りは「元競馬場前バス停留所」。“元”という言葉についビビッとしてしまいます。“元××”の付近には廃なるものがあるかもしれぬ。はい、正解です。ここは目黒競馬場がありました。場所は目黒区下目黒5丁目。目黒通りには元競馬場の由来となった目黒競馬場のモニュメントがあり、馬の蹄が千羽鶴のように垂れ下がっています。この蹄、どこから持ってきたのだろう?
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北海道留萌市から数十キロ。小平町の道路脇に突然現れるホッパーの遺構
かつて国内には炭鉱があちこちにありました。安価な外国産や需要の減少などによって、そのほとんどが閉山となり、操業している炭鉱は数えるほどしかありません。閉山した炭鉱は施設が撤去されるか、放置されて朽ちていきます。北海道は炭鉱跡が多く、街ごと消えて自然へと没した場所も一つや二つではありません。北海道留萌市へ訪れました。JR留萌本線が石狩沼田〜留萌間が廃止になった直後で、鉄路の跡は立入禁止の看板と柵が生々しい状態です。「旧」となった留萌駅から、幌加内町へ抜けようとレンタカーのナビを設定し、国道232号線から「達布(たっぷ) 1048」と記された道道(どうどう)1048号線へと入り、ひたすら天塩山地を抜ける山道を走ります。そういえば、留萌から炭鉱鉄道が分岐していたよなぁ、何鉄道だっけ……。何気なく思い出しましたが、鉄道名まで思い出せません。道道550線から道道126号線へ。交差点を曲がりながら順調に走り、川を渡って小さな街に出ました。達布です。
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北海道稚内駅の先へ。最北端の廃線路は駅舎内を突き抜けている
稚内駅はご存知のとおり、日本最北端の駅です。最南端の駅である「鹿児島県の指宿枕崎線西大山駅から稚内駅」のモニュメントがあり、枕崎駅より3099.5kmの表示もされていて、駅全面で最北端アピールに包まれています。
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クラウドファンディングで美しい姿へと蘇る、深名線の廃駅舎
北海道雨竜郡幌加内町は、函館本線深川駅と宗谷本線名寄駅を結ぶJR深名線が通っていました。線路は深川から盆地の幌加内町を北上し、朱鞠内ダムと人造湖の朱鞠内湖をまわり込みながら名寄へと向かっていましたが、1995年9月3日に廃止となりました。
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都内に残されたままのパラボラアンテナと米軍基地の跡
東京都府中市。京王電鉄東府中駅の北に、航空自衛隊府中基地があります。そのさらに北側に、昼でも鬱蒼と樹木が茂って薄暗い手付かずの場所が見えてきます。美術館通りと名付けられた道路沿いには頑丈な高いフェンスで覆われ、廃墟の建屋が見え隠れします。ここは米軍府中基地跡です。最初に断っておきますが、米軍府中基地跡は立入禁止です。廃墟が目の前に見えますが、決して侵入してはなりません。道路沿いからでも十分観察できます。
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電源開発の資材運搬に活躍した線路は散策道となった。大井川鐡道の廃線跡
大井川鐵道本線の千頭駅。この駅から奥大井の井川ダム付近まで、非電化の大井川鐵道井川線が結んでいます。井川線は本線やJRと同じ1067mm幅の線路ですが、車両やトンネルなどが軽便鉄道の規格で、一回り小型です。トロッコ列車やミニ列車と呼ばれて観光客に親しまれ、全長11mの小型客車数両にディーゼル機関車が千頭方向へ連結され、井川方向の客車には運転台を装備。機関車を付け替えなくても走れる編成となっています。途中区間には日本唯一のアプト式区間があって、急坂を昇り降りする鉄道も実体験できます。
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