楠見 清(達人)の記事一覧

楠見 清
達人
楠見 清
美術評論家
1963年生まれ。美術評論家、東京都立大学准教授。公共彫刻の調査からいつの間にか街歩き愛好家に。著書『ロックの美術館』、『もにゅキャラ巡礼』(南信長との共著)ほか。インスタグラムでも「無言板」の写真コレクションを公開中。
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失われた板の代わりに、空を掲げる〈エア看板〉の美
肝心の文字板が脱落して枠と支柱だけが残った看板を、何も持たずにギターの弾き真似をするエア・ギターにならって〈エア看板〉と呼んでいます。英語の「エア air」は空気や空っぽを意味する言葉ですが、漢字の空も「そら sky」を意味すると同時に禅でいうところの「空(くう)nothing」を指すのは何とも見事な符合です。〈エア看板〉は物理的に空虚な看板であり、精神的に無の境地を表しているといってもいいでしょう。
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見立ての芸術は笑いと紙一重、〈モノボケ無言板〉で一言
ものを何かになぞらえることでイメージが広がる面白さ──その遊び心は伝統文化から現代芸術まで深い部分でつながっています。たとえば、禅寺の石庭は水がないのに箒目で流れを表現する様式から「枯山水」と呼ばれますが、現代美術の父マルセル・デュシャンの有名な便器の作品《泉》も実はこれとよく似た見立ての芸術の一種といってもいいでしょう。レディメイド(既製品)の男性用小便器をオブジェとして展示するという発想はダダイスム的なナンセンスのアートですが、これに《泉》というタイトルをつけるのは詩人のセンスであり、これをさらにギャグに寄せればお笑い芸人のするモノボケになります。今回はそんな見立ての〈モノボケ無言板〉でアートとお笑いの接点を探ってみましょう。
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背中で何も語らない〈背面無言板〉の不器用な美学
看板の裏側が露出して白い背中を見せているケースにときどき出くわします。無言板の定義を「経年劣化によって文字が消えたもの」とするならこれはその仲間には含まれないのですが、それでも真っ白な板が公然と立っている情景はなんとも潔い。裏側には何も書かれていなくて当たり前──その適当な当たり前さかげんが、いわゆる背中で語る男とは逆に背中で何も語らない〈背面無言板〉の美学なのです。でも、この美学、孤高すぎるのかなかなか世間様とは相性がよろしくないようで……。順番にその不器用な生き様を見ていきましょう。
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歴史は語らず。ただそこに在る〈近代化無言遺産〉の無常観
まちの片隅に古いものが取り残されているのを見かけることがあります。とくに記念碑や銘板などの刻字が摩耗したり塗料が剥離したりして判読できなくなってしまったものは、存在理由を失った無用の長物でしかありませんが、それでも──いや、それだからこそ──何とも言えない愛おしさや清々しさを感じてしまうのです。近代化遺産とは国家や社会の近代化に貢献した産業・交通・土木に関わる建造物などを保存するために名付けられるものですが、年代物でありながら無言ゆえに誰にも相手にされない孤高の存在を我々は〈近代化無言遺産〉として認定していきたいと思います。
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一本足の〈案山子看板〉が立つ秋の東京風景
古くからよく見かける看板のスタイルに、棒の付いた板が一本足で地面に差してある立て札があります。情報の掲示方法として日本では江戸時代の掟書や御触書を記した高札(たかふだ)に由来する伝統的なスタイルといえそうですが、近代以後のスポーツ大会の入場行進の先頭やデモ行進でも掲げられるプラカードと構造的には同一といえます。差してあるか手に持つかの差ですが、とりあえず一本足を特徴とするこれらを〈案山子(かかし)型〉と総称した上で、足の長い〈高札型〉と短い〈プラカード型〉に小分類しその生態を観察してみます。
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美は街路に宿る、〈まちかどアンデパンダン展〉開幕
芸術の秋ということで各地の美術館では秋の大型展が開幕していますが、まちかどの無言板にもアート作品と見まがうばかりの傑作があります。ちなみに無審査で誰でも出展できる展覧会の形式をフランス語でアンデパンダンと言い、日本でも1960年代の読売アンデパンダン展からネオダダと呼ばれる前衛芸術が脚光を浴びました。現代ではそのアナーキーで自由奔放な表現は美術館の中ではなくストリートのグラフィティや無言板に見られるのではないか──そんなことを考えつつ、今回は〈まちかどアンデパンダン展〉と名付けて作り人知らずの傑作を鑑賞していきます。
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そっくりおんなじ〈双子無言板〉の並ぶシュールな光景
2枚並んだ同じ看板が2枚とも無言になっているのをたまに見かけます。塗装も同じで同時に設置されたわけですから、文字が消えるのも仲良くいっしょというわけです。正面から写真に撮ると必然的に左右対称のシンメトリーの構図になるのもこの〈双子無言板〉の特徴です。
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並んだ姿がいい感じ。偶然の〈名コンビ看板〉
たまたまなのか意図的なのか。偶然なのか、はたまた必然なのか。並んだふたつの看板が絶妙のコンビネーションでいい味を醸し出していることがあります。おなじみのキャラクターや漫才コンビのように切っても切れない関係の〈名コンビ〉のいる街角を訪ねてみましょう。
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その字消失につき、〈上の句看板〉に続く言葉を当ててください
赤い塗料が紫外線に弱いことは看板屋さんやDIY愛好家には周知の事実のはずなのに、それでも、それなのに、一体どうしたことなのでしょう。まちなかの看板の赤い文字が消えてしまう事案が後を絶ちません。大切なことだからこそ赤で大きく書いたはずなのに、無残にも言葉が途切れてしまった看板を、和歌になぞらえて〈上の句看板〉と名付けてみます。下の句は隠された状態ですが、たいてい決まり文句なので上の句だけでも想像がつくところも百人一首に似ています。
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〈枯れ文字〉も山の賑わい、劣化した難読文字を解読せよ
文字が消えていく途中の状態で、かろうじて読めるという看板を見かけることがあります。読めそうで読めない、いや、読めなさそうだけどなんとか読めるからそのままになっているのかもしれませんが、完全に文字の消えた純白の無言板の潔さとは異なる謎のテイストが、わびさびにも通じる独特の風情を醸し出しています。言葉の文字が枯れ葉のように落ちていく様子から〈枯れ文字〉看板と名付けます。
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