フリート横田

1979年、東京都生まれ茨城県育ち。文筆家。路地徘徊家。戦後から高度成長期の古老の昔話を求めて盛り場を徘徊。昭和や盛り場にまつわるコラムや連載記事を執筆。著書に『東京ノスタルジック百景』『東京ヤミ市酒場』。最新刊は『横丁の戦後史―東京五輪で消えゆく路地裏の記憶』(中央公論新社)。

illust_3.svg

「今度湘南特集やるんですよ」 。私が昔、この地に長く住んでいたのを知る『散歩の達人』編集長が声をかけてくれた。その時、二秒で頭に浮かんだのがタンメンとジンギスカンである。湘南の地で昔から愛され、私自身も惹かれてやまない二つの味の起源を、前々から探ってみたいと思っていたのだ。両者とも戦後以来の歴史があるのでは、と。

『老郷(ラオシャン) 本店』のタンメン

発作的にすすりたくなる一杯

まず出向いたのは 『老郷 本店』 。街の住人で知らぬ者はまずいない。平塚一の歓楽街、紅谷町周辺で飲み遊んでも、私は決して満腹にはしない。「この店=この一品」というタンメン一杯分は、腹に隙間をあけておきたいのだ。

タンメンと言えば野菜もりもりのイメージだろう。しかし、『老郷』のはまるで違う。刻みタマネギが浮くのみで、あとは麺を覆い隠すようにこれでもかと、ワカメ。「え?」。かつてこのドンブリに初めて対面したとき、一瞬意味がわからなかった。麺も不思議。つかみ上げると白く、細く、やわらかい質感。極めつけはスープである。うっすら褐色の澄んだ汁を一口すすればさらに、「え??」。頭が混乱する。酸っぱいのだ!

ところがどうだ、卓上の特製ラー油を一さじ垂らし、ワカメとやわらか麺を一緒にすすりこむともう、調和した「辛酸っぱ旨さ」が舌を襲う。途中、追いラー油と卓上のお酢を追加投入すれば完全な自分好みの一杯へ進化し、少しも飽きさせずものの数分でドンブリはカラとなる。くどさもない、さっぱりした旨さの説得力である。

さらに、すさまじいのはこの後。ある日、普通に仕事をしていると、突如発作が襲う。「今すぐ『辛酸っぱ』したい」と。思い立つやいなや、足は平塚に向かっていた。そして今日こそはやっぱり、この旨さのルーツを知りたい。あの最高のバランスの不思議麺は、どうやって生まれたのだろうか。
「これは北支にいた、初代である私の祖父が考案したんですよ。向こうの人が野菜炒めとかお粥とか、なんにでもお酢をかけて食べるのを見てヒントをもらってね」
と、語るのは三代目店主の岩間和治さん。「北支」とは現在の中国北部を指す古い言い回しだ。初代は旧陸軍の憲兵隊員として中国に出征、現地の人々の食生活から着想したという。

ワカメは三陸産、お酢は銀座の老舗すし屋も使う特上品、ラー油は辛みと香りと両方を得られるよう唐辛子をブレンドし、贅沢に使う。それで一杯650円というこの値段。失礼ながら、割に合わないんじゃないですか? と問えば、岩間さんは笑う。

三代目店主・岩間和治さんの生一本な仕事ぶりは、磨き上げられた厨房からも感じられる。
三代目店主・岩間和治さんの生一本な仕事ぶりは、磨き上げられた厨房からも感じられる。

「せめて酒でも置けばそりゃ楽ですよ(笑)。生ビール一杯でタンメン一杯より儲かります。でも置かない。初代の教えを一つはずすと、タガがはずれてどんどん変になる。あれこれやるより、一つを磨くほうがいいんです。初代は、『子供でも安心して食べられるものしか出さない』と言い切っていましたね」

子供にも胸を張れる仕事。ソウルフードのルーツを探りに来たはずが、あらゆる仕事に通じる教えを、私は得た気がした。今回、撮影用に二度、タンメンを作ってもらった。42歳厄年でラーメン二杯食うなどできないはずが、二杯目まで部活帰りの高校生級の吸い込み速度が出て普通に完食。素材にもこだわりぬいてあり、残すよりも体に吸収させたいのもある。

このスープは鶏からダシ取っていますね?「いえ豚骨です」。私の見立てはハズレたが、仕方ない。火加減とアク取りを丁寧に行い、まったく雑味がないのだ。油や酸化防止剤なども入れぬ麺は体にやさしいが、日持ちはしないので自家製麺。そして餃子がまた旨い。キャベツでなくタマネギベースとは中々お目にかかれない。

『老郷 本店』店舗詳細

住所:神奈川県平塚市紅谷町17-23/営業時間:11:00~23:00/定休日:月/アクセス:JR東海道線平塚駅から徒歩1分
illust_3.svg

『大衆焼肉 本店』と『ジンギスカン』

湘南ジンギスカン文化の総本山へいざ

胃もたれもまったくないので、あとは濃厚な肉で仕上げよう。向かうは『大衆焼肉 本店』。なんのテライもない、すがすがしい店名に大衆の一人である我が心はわしづかみにされる。湘南には姉妹店がいくつかあるが、私は茅ケ崎店によく通ったものだ。この店の名も飾り気のかけらもない 『ジンギスカン』 。カウンター席に 一人座り、ロースターの強火で羊肉を炙り、すりニンニクをたっぷり入れた特製タレに浸して口に放りこんではウーロンハイをぐび。煙で飴色にいぶされた店内の姿を見るだけでも酒が進む。

平塚が本拠地とは知っていたが、以前この地には、同じくジンギスカンを提供する食堂があった。昨年、惜しまれつつ廃業してしまったのだが、戦後に創業者が大陸から持ち帰った味だと聞く。こちらのジンギスカンもおそらく近い背景があるのではないか。少なくとも戦後由来であることは、私の見立てからして間違いない。そうですよね? 小原昭人社長。
「いや、関係ないね。全部俺が考えたものなんだよ」

創業者である小原昭人さんのこの笑顔よ。長年連れ添う奥様もここにほれたに違いない。
創業者である小原昭人さんのこの笑顔よ。長年連れ添う奥様もここにほれたに違いない。

ズコーー。 聞けば、昭和39年(1964)、前回の東京五輪の年、22歳だった小原社長が考案した食べ方だという。当時、昼はサラリーマン、夜は飲み屋でバイトしながら、好景気に沸く盛り場の様子を見ていた社長。「俺もイケる!」と踏んで一念発起。韓国料理店のレシピなどを参考にしながらオリジナルのタレを完成させ、店を開いたのだった。それでは、羊肉に目を付けたのはなぜだろうか?

「安かったからよ」

笑顔で即答。なるほどこの店、今でもジンギスカンは400円、レバーやおしんこは200円で出しているほどで、しかも税込みである。「客に喜んでほしいから」と気前がいいが、それは親族に対しても変わらない。秘伝のタレやノウハウを兄弟親戚にも「真面目に仕事をしてくれるなら」と惜しみなく教え、神奈川県内に7店ものれん分けした。

もうひとつ気になるのは、店の風格を作っている、昔のままの店の構えを維持していること。約60年の歳月の中には、バブル期もあったのに、ピカピカの設備にしたくはならなかったのだろうか。
「ないね。無煙ロースターの最新設備を入れた知り合いの店は……潰れちゃったな」
社長は少し寂しそうに笑った。店を刷新していくことはもちろん悪いことではなく、伸びることも多い。それでも社長は変えなかった。直営店を5店まで広げても、どこも気取らぬ雰囲気の構えである。旨いものを安く出し、客に喜んでもらうことだけに集中している。強火で炙られる肉から上がる煙の向こうには、湘南の地に大衆ジンギスカン文化を根付かせた張本人、笑顔の社長がいる。私はルーツを探る……というより今、歴史そのものに立ち会っている。

社長直営の5店舗分の肉は、本店から各店に振り分けられる。つまり、どの店に行っても同じ旨さを堪能できるのだ。特製タレであえた肉は持ち帰りもOK。直営店に『どさん娘ラーメン』があるが、客のほとんどはジンギスカンを頼んで酒を飲む。もちろんシメにラーメンを食うこともできる。このゆるさ、最高すぎるでしょう?

『大衆焼肉 本店』店舗詳細

住所:神奈川県平塚市明石町23-18/営業時間:17:00~23:00/定休日:無/アクセス:JR東海道線平塚駅から徒歩5分

コラム

引揚者(ひきあげしゃ)がルーツの、現代日本に根付いた食文化

明太子の生みの親である『ふくや』創業者の川原俊夫(1913-1980)。(写真提供=ふくや)
明太子の生みの親である『ふくや』創業者の川原俊夫(1913-1980)。(写真提供=ふくや)

旧植民地の食文化をアレンジした「引揚者料理」ともいうべきものは、実は全国にある。例えば、ご飯のお供として完全に定着している明太子。これは博多・中洲で戦後まもなく生まれた一品。戦前、韓国・釜山で暮らしていた川原俊夫が当時食べていた「たらこのキムチ漬け」をヒントにオリジナルレシピを考案し、昭和24年(1949)に、売り出したものだった。川原は旧満州で暮らした後に出征、終戦後に博多に戻った復員兵で、家族は引揚者だった。彼が創業したのが「味の明太子」で知られる『ふくや』である。ほかにも札幌の味噌ラーメン、盛岡のじゃじゃ麺、そして焼き餃子もそうだ。引揚者はアイデアマンが多かったのか? そうではない。彼らはほぼ裸一貫で帰国し、知恵を絞り、自分で動かなければ生きていけないほどの境遇に置かれていたのだ。戦後以来愛される料理を食べながら、その頃の人々に少しでも、思いを致してみてはどうだろうか。

取材・文=フリート横田 撮影=逢坂 聡
『散歩の達人』2021年8月号より