『ふくの湯』ならではの富士山。「一富士二鷹三茄子」

2011年に「斬新」「新鮮」「モダン」をコンセプトにリニューアル。設計は、数多くの銭湯や温泉、サウナなどを手掛ける今井健太郎建築設計事務所に依頼。
2011年に「斬新」「新鮮」「モダン」をコンセプトにリニューアル。設計は、数多くの銭湯や温泉、サウナなどを手掛ける今井健太郎建築設計事務所に依頼。

1972年に創業した『ふくの湯』。元々は『富久の湯』だったが、2011年に改装した際、「お客さまに良いことがありますように」、つまり「ふく(福)がありますように」と願い、現在の屋号に変えたのだとか。『ふくの湯』が初めてペンキ絵を取り入れたのもこのタイミング。2つの浴室に、銭湯ペンキ絵師の丸山清人さん、中島盛夫さんがそれぞれ富士山を描いた。

フロントに立つ『ふくの湯』店主の村西彰さんとお孫さん。
フロントに立つ『ふくの湯』店主の村西彰さんとお孫さん。

しかし、ペンキ絵は湿気や湯気で劣化してしまうため、定期的に描き変えが必要。作業に当てられるのは、定休日の木曜のみと限られている。翌日は通常通り営業するため、この日のうちに完成させなくてはいけない。公開制作当日の2024年12月12日、会場(浴室)に入るとすでに足場が組まれ、準備万端だった。

前回の富士山を描いたのは、向かって左側が丸山清人さん、右側の赤富士が中島盛夫さん。今回はこれに上書きするかたちで制作する。
前回の富士山を描いたのは、向かって左側が丸山清人さん、右側の赤富士が中島盛夫さん。今回はこれに上書きするかたちで制作する。

今回制作を担当するのは、中島盛夫さんと田中みずきさん。田中さんは2004年に中島さんに弟子入りし、2013年に独立している。丸山さんが引退した今となっては、現在プロの銭湯ペンキ絵師はこの2人だけ。師弟競演という胸が熱くなる場面に、ドキドキ。

『ふくの湯』のペンキ絵は、江戸時代の川柳「一富士二鷹三茄子」がモチーフ。初夢に見ると縁起が良いとされるものを並べた言葉だが、実はこれ、この辺りが発祥地とされている。「富士」は駒込富士神社、「鷹」はかつて神社の近くにあった鷹匠屋敷を指し、さらに「茄子」は昔からこの地域の特産物だった。屋号からして、訪れると運気がアップしそうなスポットだが、ペンキ絵が新調されたらますます効果が高まりそうだ。

普段は湯気が立ち込める浴室に足場が組まれている。
普段は湯気が立ち込める浴室に足場が組まれている。

公開制作のライブ感に釘付け!会場に熱気があふれる

直前まで観客の質問に気さくに答えていた中島さん。作業開始時刻が迫り足場に上がると、真剣な表情。
直前まで観客の質問に気さくに答えていた中島さん。作業開始時刻が迫り足場に上がると、真剣な表情。

13時30分、いよいよ作業スタート。2人は足場の上に立つと、まず富士山のアウトラインを引いた。刷毛の動きに迷いはなく、これにより富士山の位置が決定。その後、空に当たる部分をローラーブラシで塗りつぶしていく。中島さんは青、田中さんは黄色。

刷毛(はけ)を持ち、真っ先に富士山のアウトラインを引く中島さん。
刷毛(はけ)を持ち、真っ先に富士山のアウトラインを引く中島さん。
ローラーブラシで背景を塗りつぶしていく田中さん。
ローラーブラシで背景を塗りつぶしていく田中さん。

中島さんはアシスタントの方に空を任せ、早々と富士山に着手。赤い色が入った瞬間、会場のあちこちから「赤富士だ」というつぶやきが聞こえた。時折足場を下り、引きで見て全体像を確認。微妙な色の違いで山頂に影をつけていく工程も素早く、まるで神業を見ているようだ。

大胆に刷毛を動かし、富士山を赤く塗り潰していく。
大胆に刷毛を動かし、富士山を赤く塗り潰していく。
時折足場から下りて全体を見渡す。
時折足場から下りて全体を見渡す。

師匠が赤富士にしたのを受け、富士山を青く塗ることにした田中さん。ほんの数回だが、こんなふうにセッションのような会話が挟み込まれる。途中何度か、中島さんは隣の浴室まで足を運んで弟子の絵を眺めることも。こんなライブ感のあるやりとりを見られるのも公開制作ならでは。

その場でペンキを混ぜ合わせ、色を作っていく。
その場でペンキを混ぜ合わせ、色を作っていく。

田中さんの富士山は、清々しいほどの青。山頂の雪帽子がまた爽やかで、凛とした印象を生んでいる。同じモチーフでも2人の描き方は驚くほど対照的。この時点でもう、まったく違う絵になっているのがおもしろい。

刷毛から細めの筆に持ち替え、細部に色を入れていく田中さん。
刷毛から細めの筆に持ち替え、細部に色を入れていく田中さん。
師弟が並んで作業を進める様子から目が離せない。
師弟が並んで作業を進める様子から目が離せない。

ちなみに、空塗りにローラーブラシを使い始めたのは中島さんが最初だそう。以前はここも刷毛を使うのが主流だったが、中島さんが指をケガしてしまい、刷毛が使えなかった時に、この方法を考えたという。すると、他の銭湯ペンキ絵師にも広まり、やがて定番に。これによって制作にかかる時間がぐっと短縮された。

中島さんがローラーブラシを使う手法を考案したおかげで、制作時間がぐっと縮まり、一日で複数の現場を掛け持ちする銭湯ペンキ絵師も現れたとか。
中島さんがローラーブラシを使う手法を考案したおかげで、制作時間がぐっと縮まり、一日で複数の現場を掛け持ちする銭湯ペンキ絵師も現れたとか。

一方、田中さんにも師匠とは違う独自の手法が。巴紋に着想を得て図案化した茄子を描く際、取り出したのは型紙だ。これ以外にも「七宝」「青海波」など吉祥文様を描き入れるのにも型紙を使用。限られた時間内にいかに良い絵を仕上げるか、そのための努力とアイデアを目の当たりにしてテンションが上がる。

型紙を貼り付け、色を塗っていく。
型紙を貼り付け、色を塗っていく。
型紙をはがして緑色を加えると、なんと「三茄子」に!
型紙をはがして緑色を加えると、なんと「三茄子」に!

桜や見附島も。全くタイプの違う2つの富士山が完成

15時が近づき、いよいよ作業も大詰めに。中島さんは、茶色で線をスーッと入れたかと思えば、その脇にピンクを淡くのせていく。桜だ! 迫力ある赤富士ときれいな桜が絶妙なコントラストを成している。

銭湯のペンキ絵で桜を描き入れたものはとても珍しいそうだ。
銭湯のペンキ絵で桜を描き入れたものはとても珍しいそうだ。

そして、田中さんも最終段階に。細かい陰影を加えてグラデーションを調整したり、水面に白波を入れて動きを出したり。作業はスピーディだが、妥協もしない。観客がこれで完成か? と思っても、そう簡単に手を緩めない。

この細かい陰影こそが、湯船から見た人に臨場感を感じさせる。
この細かい陰影こそが、湯船から見た人に臨場感を感じさせる。

16時過ぎ、とうとう2人のペンキ絵が完成。中島さんは、前回丸山さんが手掛けた富士山の上に描いたが、茄子と鷹は丸山さんの絵をあえて補修する程度に留めた。丸山さんは、何を隠そう中島さんの兄弟子。まさかこういう形で兄弟子・弟弟子のコラボレーションが見られるようになるとは!

田中さんは、前回中島さんが制作した作品の上に描いた。海に浮かぶのは、能登半島地震で形が崩れた見附島だが、富士山と石川県珠洲市の見附島という現実にはありえない景色、ありえない組み合わせを見られるのも絵ならではの魅力と言える。崩れてもなお力強く立つ見附島に、さまざまないが湧く。銭湯のペンキ絵としては珍しい黄色く塗られた背景が、気持ちを明るくしてくれるのがいい。

中島さんによる赤富士。鷹と茄子の部分は前回の丸山さんの絵を生かしている。
中島さんによる赤富士。鷹と茄子の部分は前回の丸山さんの絵を生かしている。
モダンな要素がミックスされた田中さんの作品。見附島や伝統文様がアクセントになっている。
モダンな要素がミックスされた田中さんの作品。見附島や伝統文様がアクセントになっている。

数え切れないほどたくさんの富士山を描いてきた中島さんに、毎回何をヒントにバリエーションを考えているのか聞いた。

「若い頃、銭湯ペンキ絵師になってすぐの頃だね。3カ月くらいかけて旅をして、富士山を360°ぐるっと見てきた。河口湖から見るのと山中湖から見るのとでは全然違う。姫路からも見えるし、一番大きく見えるのは富士宮。そういうのが頭の中にたくさんストックされています」

「この前はニュージーランドで5m×20mの壁画を描いたよ。世界中どこへ行っても富士山を知らない人はほとんどいない」と中島さん。
「この前はニュージーランドで5m×20mの壁画を描いたよ。世界中どこへ行っても富士山を知らない人はほとんどいない」と中島さん。

中島さんはいつも現場に入ってから、前回の絵も見ながら今度はどんな絵にするか考える。田中さんはというと「事前に銭湯店主さんにヒアリングをして、土台となるアイデアを練ってから行きます」。もちろん、現場でのひらめきも大切にする。今回だと富士山の色がそうだ。

中島さん(左)と田中さん。
中島さん(左)と田中さん。

それぞれの方法で描かれた、まったく違う「一富士二鷹三茄子」。どちらも味わい深く、どちらも必見だ。『ふくの湯』は男湯、女湯が日によって入れ替わるので、誰もが両方とも見るチャンスがある。新しくなった富士山が湯けむりに覆われ、どんなふうに映えるのか。

初夢を見られなかった人も、『ふくの湯』でこれを見ればいつでも良い一年のスタートを切れるはず。

住所:埼玉県川口市元郷5-19-10/営業時間:12:00~24:00(土・日・祝9:00~)/定休日:無/アクセス:JR京浜東北線川口駅からエルザタワー循環バス「元郷五丁目南」下車すぐ

取材・文=信藤舞子 撮影=信藤舞子、さんたつ編集部