祐樹と出会ったのは札幌にあるフリースクールだ。私は高校に行けなくなった頃にそのフリースクールに通い始め、通信制高校に再入学してバイトを始めてからも、よく顔を出していた。

祐樹は隣町に住むフリーターで、フリースクールの存在を知って興味本位で見学に来た。親に連れてこられる人が大半の中、自分の意思で見学に来る人はめずらしい。飄々とした、どこか人を食ったような奴だった。話すと、中学から登校しておらず、高校には最初から進学しなかったそうだ。

祐樹は結局、フリースクールには在籍しなかった。「思ったほど面白い人間がいなかった」というのがその理由らしい。しかし、私と彼は連絡先を交換し、その後もたびたび会うようになった。

話しているうちに、私は祐樹に恋をした。祐樹は、バイトしてお金を貯めてはあちこちに旅に出る。異国のお祭りの話や、旅先で出会った人々の話など、彼から聞く話はどれも面白い。私が知らない本や音楽をよく知っていて、芸術や哲学への造詣が深く、知的でかっこよかった。当時の私にとって、祐樹は周りの誰よりも広い世界を知っていた。

祐樹が発する言葉は、一つひとつが詩のようだった。たとえば私が小説を書いていると言ったとき、彼は「ヘミングウェイみたいなのじゃなければ読みたいな。掃除機とヘミングウェイは苦手なんだ」と言った。また、私の小説を読んだあとは、「サキの言葉には場所があるよ。サキ以外にもう一人、読んでいる人が座っていられるだけの」と言った。今ならちょっと笑ってしまうが、当時の私にとっては彼のこういう言い回しがたまらなくかっこよく思えた。

また、彼は私と似たところがあり、私の気持ちをよく理解してくれた。不登校や中退を経験した私は、全日制の高校に通う友人たちとの間に見えない壁を感じていて、そんな孤独感に祐樹の存在がピタッとハマった。私の理解者は彼しかいない、と思った。

私は祐樹しか目に入らなくなり、付き合っていた彼氏に「好きな人ができた」と別れを告げた。そして即座に祐樹に告白したが、彼女にはしてもらえなかった。それでもなお、私は彼が好きだった。

あるとき、彼はしばらくベトナムへ行った。そして帰ってきたとき、彼は「お土産」と言って薄い緑色の器をくれた。カフェオレボウルだと言う。なぜ彼が私へのお土産にカフェオレボウルを選んだのか、すぐに合点がいった。私が彼に薦めた、江國香織の『ホリー・ガーデン』という小説に出てくるからだ。チョロい私は「私が薦めた本を読んでくれたんだ……!」とまたすぐに舞い上がる。

そんな片思いは1年も続いただろうか。

やがて、祐樹はタイに長期滞在してそこで彼女を作ったり、かと思えば東京に引っ越したりしてしまい、会えなくなった。私は私で他に好きな人ができて、東京の専門学校に進学してからは気の合う友人にも恵まれ、祐樹のことを思い出さない日が増えていった。

私が22歳、祐樹が24歳のとき、彼は結婚した。結婚式は沖縄で開かれ、私も招かれた。新郎側の友人で同世代の人は私しかいなかった。

その後、彼は福井県で暮らしていた。頻繁に連絡を取っていたわけではないが、SNSで繋がっていたので、3人の子どもに恵まれたことは知っている。

17歳のときは、祐樹だけが特別な存在だった。けれど、専門学校やその後に働いた山小屋で気の合う友人たちに出会うたび、私の中で祐樹は「たくさんいる友達の一人」になっていった。

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29歳のとき、夫と海外に長旅に出ることになった。私たちはその前哨戦として、日本各地で会いたい人に会うことにした。前回書いた、美冬のお母さんに会いに金沢へ行ったのもこのときだ。その前々日、私たちは福井で祐樹に会うことにした。晩秋の福井はどんよりと曇り、風が冷たかった。

福井では、私たち夫婦を招いての酒席が用意された。祐樹の奥さんの妹さんが陶芸家で、そのアトリエの2階で飲み会が開かれたのだ。私たち夫婦、祐樹、奥さんの妹さんとその婚約者、祐樹の友達の男性が2人いた。アトリエの2階はふつうの居間のようになっていて、みんなでこたつに入って鍋を囲んだ。皆さん気持ちのいい人たちで、とても楽しかった。

しかし、久しぶりに会う祐樹の態度には違和感があった。彼は妙にはしゃいでいて、初対面の私の夫に、やたらと「こいつ、昔はこうだったんですよ」と私の恥ずかしい昔話を披露した。どこか得意気な表情で、まるで「自分のほうがサキのことを知っている」とでも言いたげだ。しかし、私と祐樹が親しかったのなんて17歳のときのわずか1年間のこと。5年間交際してから結婚した夫のほうが、よっぽど私のことをよく知っている。夫は、祐樹が何を言ってもニコニコと笑っていた。

また、祐樹はやたらと私に「お前、変わっちゃったな。昔はもっとエキセントリックだったのに」と絡んでくる。変わったも何も、このときの私は三十路手前だ。変わらないほうがおかしいだろう。「変わった」と言われるたび、「つまらなくなった」と言われているようで腹が立つ。

それに、変わったのは祐樹も同じだ。昔はもっと、かっこよかったじゃないか。話題も豊富で、延々と昔の話をするような人間じゃなかった。

そう思ったけれど、人は変わるものだから言わなかった。私はヘラヘラと祐樹の言葉を受け流した。

けれど、どうしても看過できない言葉があった。祐樹は言った。

「こいつ、今は落ち着いてるけど若い頃はすげぇメンヘラでさ。ODして入院して、『ODしてやったよ!』とかドヤってんの」

言葉を失った。たしかに、私はOD(オーバードーズ。薬の過剰摂取)で入院したことがある。自殺を図ったわけではない。新橋の広告会社に勤めていた頃、明日会社に行くことを考えるとパニック状態になってしまい、気づいたら精神科で処方された薬を大量に飲んでしまっていたのだ。ほとんど無意識のうちの行動だった。朦朧とする意識の中で、「とんでもないことをしてしまった!」と気づき、救急車を呼んだ。

その話はめったにしないが(エッセイに書いたのもこれがはじめてだ)、当時、祐樹には打ち明けた。ただし、『ODしてやったよ!』なんて言ってないし、ドヤった覚えもない。私は、周囲の人たちに心配をかけてしまった罪悪感で縮こまっていた。

祐樹が人前で私のODについて話したこと。それどころか、悪意ある脚色をしたこと。

私はそれが許せなかった。けれど咄嗟に怒れず、スルーしてしまった。

そしてその後も、怒りを内に秘めたまま、何事もなかったかのように祐樹と交流を続けた。SNSで繋がっていたし、数年に一度は会う。祐樹と会うときはいつも夫も一緒だ。

しかし、大人になってからの祐樹の倫理観やジェンダー観は、「それって違わない?」と感じることが多くなっていた。私を雑にイジって失礼な発言をすることも多い。だんだんと、なぜ友達を続けているのかわからなくなってきた。

最後に会ったのは、福井市に新しくできたゲストハウスだ。県内在住の祐樹が「旅人と飲みたい」と言って私たちと同じゲストハウスに泊まったのだ。この頃の彼は、ネットでもリアルでも常に「楽しいこと」を探しているように見えた。

その日も、祐樹はゲストハウスに宿泊していた若者を捕まえてデリカシーのない下ネタを連発した。若者に自分の価値観を押し付けては、苦笑いでかわされている。そんな彼を見て、なんだか情けなく、恥ずかしくなった。

かつては彼だけが私の理解者だと思っていたけれど、今の祐樹とはまったく価値観が合わない。山小屋の友達のほうがよっぽど価値観が合うし、一緒にいて楽しい。なのに彼はいつまでも、私にとって祐樹が特別だった頃の話ばかりをする。噛み合わない。

その後、私は少しずつ彼と距離を置いた。価値観が合わなくなったせいもあるし、ODについていじられたことを思い出して許せなくなったからだ。私は繋がっていたSNSのアカウントを消し、LINEの返事をだんだんとそっけなくし、やがてブロックした。

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昨年の春、祐樹の奥さんの妹さんからDMが来た。最初に福井に行ったとき、アトリエの2階を貸してくれた方だ。DMには、祐樹が闘病の末に亡くなったことが書かれていた。葬儀は家族葬で行われたそうだ。

最後に会ってから6年が経っている。彼が病気になったことも、私はまったく知らなかった。

涙は出なかった。17歳のとき、大好きだった人。だけどここ数年はLINEをブロックしていた人。どんな気持ちになるのが正解なのか、よくわからない。

祐樹は、私がLINEをブロックしたことに気づいていただろうか。黙ってブロックするんじゃなくて、「こういうことを言われて嫌だった」とはっきり伝えたほうが、お互いにとってよかっただろう。

福井のゲストハウスで最後に会ったときのことを思い出す。その日、私と夫はたまたま見学に行った酒蔵で山小屋関係の知り合いに会い、翌日、金沢で飲む約束をしてきた。それを祐樹に話すと、彼はポツリと「お前はあちこちに友達がいて、いつも楽しそうでいいな」と言った。うつむいた横顔はなんだか寂しげで、19歳の頃の彼を髣髴とさせた。

大人になってからの祐樹はいつも「楽しいこと」を探しているように見えたが、はたして彼は自分の人生に満足していたのだろうか。もしかしたら、退屈や寂しさや物足りなさを抱えていたのかもしれない。そういったものをひっくるめて、自分の人生は幸せだと思っただろうか。

そうだったらいいな、と強く思う。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
2022年12月30日、年の瀬の常磐線・磯原駅に人の姿は少なかった。改札前のベンチに男性が1人腰かけていたので、私は誰もいない窓辺までスーツケースを引きずっていき、母に電話をかけた。「今、磯原駅。さっきまでKさん(夫)の実家にいたんだけど出てきちゃって……。これから町田に戻る。明日、札幌行きの航空券を取ったの。実家で年越ししていい?」「もちろん。あなたが町田で1人で泣いているより、実家に帰ってきてくれたほうがよっぽどいいわ」駅に来る前に事情をLINEしていたせいだろう、母はすんなりと飲み込んでくれた。通話を終えて、改札前の大きなベンチに座る。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
今まで、新橋について書くのを避けてきた。思い出すのも嫌だったからだ。