吉玉サキ(達人)の記事一覧

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家も仕事も決まっていなかったあの頃、安曇野の友人たちからもらった言葉
夫婦そろって家も仕事も決まっていなかった時期がある。半年間の旅から帰国したあとのことだ。
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私とサンチャゴ巡礼の48日間、1038㎞。旅の果てに、「寂しさ」の代わりに心に広がったもの
フリーライターなので、取材がある日はともかく、執筆する日は一日中パソコンに向かっている。一日の歩数はたぶん、同世代の平均と比べて少ない。そんな私だが、過去には長い長い距離を徒歩で横断したことがある。「サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼(サンチャゴ巡礼)」と呼ばれる、キリスト教の巡礼をしたのだ。
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「生まれ変わってもまた、母の娘がいい」。母とのふたり旅で安曇野市穂高へ
旅先で目覚めると、母はすでに起きて身支度をしていた。私も着替えてメイクを済ませる。夕食は部屋食だったが、朝食は食堂だ。食堂は昔の蔵を改装したような造りで薄暗く、どこか山小屋を思い出す空間だった。テーブルに並んだ料理はどれも繊細で、特に湯豆腐がおいしい。朝に食べる湯豆腐もいいものだ。
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初めての母とのふたり旅で長野・浅間温泉へ。一本のエッセイに書ききれない私たちの関係
生まれて初めて、母とふたりで旅行をした。母についてはこの連載で何度か書いたが、母について書ききれたとは言えない。私と母は今でこそ仲のいい親子だが、関係が落ち着いたのはここ10年ほどのことで、幼少期からそれまでは関係が複雑に変化しつづけた。とてもじゃないけれど、一本のエッセイに書ききれるような関係ではないのだ。だから今回も書ききれるとは思えないが、この連載が続いているうちに、母との思い出を綴る回を設けたかった。それで母に「『さんたつ』の連載で書きたいから旅行に行かない?」とLINEをしたところ、快諾してくれた。私がエッセイを発表するようになった5年前から「ママのことはいくらでもネタにしていいから」と言ってくれている。そうして10月のある日、札幌に住む母が東京にやってきた。
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演劇部の部室では、息をすることができた。中学時代のあの一瞬一瞬が、今の私を形作っている
今まで何度か「やりたいことがわからない」「打ち込めることがない」という相談をされたことがある。そのたびに、なんと答えたらいいのかわからなくて言葉に詰まった。今までの人生、私は常にやりたいことや打ち込めることがあったからだ。
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「だけど、優しい人だった」。沖縄のゲストハウスで出会った、もう顔も思い出せない彼のこと
新橋の広告会社を早期退職した直後の7月、私は沖縄の那覇にいた。友人の結婚式に参列するために沖縄に来て、そのついでに1人で何日か旅行しようと思ったのだ。
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静岡『エコパアリーナ』へ急ぐ道中で生まれた、世代を越えた一体感。いくつになっても一生ものの思い出はできる
この歳になってもなお、一生ものの思い出は増える。2024年6月16日、静岡の『エコパアリーナ』へAぇ! groupのライブを観に行った。一緒に行ったのは、さとうさんという東京在住の同世代の女性だ。3月のAぇ!のイベントに私が当選した際、SNSで同行者を募集したところ、DMをくれたのがさとうさんだった。そのイベントで初めて会ったのだが、とても面白い方で意気投合し、4月には恵比寿で昼飲みをした。この歳になっても新しい友達ができるんだなぁ、とうれしく思う。
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強豪校の補欠、消去法のポジション……バレーボールに打ち込んでいた時期が今の私に残したもの
大人になって知り合った人からは「スポーツ嫌いそう」「運動が苦手そう」と言われる私だが、実は身体を動かすことが嫌いではない。それどころか、私の人生にはスポーツに打ち込んでいた時期がある。小学校4年から卒業まで、学校のバレーボールチームに所属していたのだ。
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悩んでも、妬んでも、あれが私の青春だった。札幌・西28丁目で演劇に日々を費やしていた頃
GWは大阪へ行ってきた。甥の吹奏楽部の演奏会を観に行ったのだ。ホールの分厚い扉を開けて、階段状になっている座席を見渡す。ステージを覆う緞帳(どんちょう)ははじめて見る絵柄だが、見た瞬間に蘇る記憶があった。
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あと何年会ったり、話したりできるだろう? 梅田の姉の家には、甥や姪との思い出が詰まっている
3月のとある土曜の夜、私は急ぎ足で姉の家へと向かっていた。京セラドームで大好きなAぇ! groupのイベントを楽しんだあと、姉の家に泊めてもらうことになっていたのだ。
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