スポーツニッポンの一面は「瀬古もう走った」

しかし24歳と全盛期にあった1980年のモスクワオリンピックはアメリカに倣ってボイコット。

瀬古は確実視されたメダルを逃した。84年のロサンゼルスオリンピックが近づいてくるとスポーツニュース番組は「今週の瀬古」なるコーナーを作り、記者会見は毎週行われた。マスコミの報道は過熱する一方で、中村はしつこい取材陣に対して、趣味の狩猟に使うライフルの銃口を向けて「殺してやる!」と追い返した。

なんで瀬古はあんなに人気があったのだろうと思う。苦しそうに走る姿は修行者然としていた。それがラストスパートで一気にゴボウ抜きしてテープを切るのだ。地顔もいいし、そりゃカッコよかった。

僕は1971 年生まれなので、当時は知るよしもなかったが、瀬古に円谷幸吉を重ねる人も多かったのではないか。

円谷幸吉――。64年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルに輝くも、その4年後に自殺した伝説のランナー。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました」で始まる遺書を残した。遺書はこの後、すし、ブドウ酒、リンゴ、しそめし、南蛮づけ、ブドウ液、養命酒、モンゴいか(表記はすべて原文通り)など、各人に食い物の御礼ばかり伝えている。おわかりだろうか。円谷は28年の短い人生に、世間一般の小さな幸福さえ許されなかったことが。円谷の遺書はこう締め括られる。「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」。

瀬古の話に戻る。度重なるケガもあり、ロサンゼルスは14位と惨敗。記憶が正しければ、瀬古が帰国翌日、当時、家が購読していたスポーツニッポンの一面は「瀬古もう走った」。暗闇の夜に練習する瀬古だった。はっきり書こう。瀬古に円谷と同じ最期を期待していた人もいたのではないか。

けれども瀬古は円谷の轍を踏まなかった。ロサンゼルスから帰国後、花嫁を公募した。瀬古曰く、「女性なら誰でも良かった」。

材木問屋の一人娘とお見合いをして、京王プラザでデートをした。プールサイドに脚を投げ出している女性を見ながら瀬古は、「スウェーデン遠征でトレーニングしているときに女の脚に目がいって捻挫したことがある」と白状した。お見合い相手は「よっぽど女の人に免疫がないんですね」と言うと、カッとなった瀬古は「プロの女性は知ってますよ!」と反論したという。ちなみにその相手と3カ月後に結婚した。

翌年、中村は釣りの最中、川に流されて命を落とす。一卵性師弟の関係は唐突な最期を迎えて、瀬古は狂気から解放された。

距離にして地球を3周分走り、瀬古は引退した。コーチに転身すると、中村の精神を継承した。「がまんしてがまんして、ビューって行くんだ」。いやだから、どうやってがまんするんだって選手たちは思っただろう。まるで長嶋茂雄が「球がきたらカーンって打つんだ」って選手に教えた逸話と重なる。そして瀬古が気合いの土食いを見せたところ、選手からは失笑が漏れたという。

最近瀬古をテレビでよく見る。ニコニコしてダジャレばかり飛ばしている。現役時代にはとても想像がつかなかった。ちょっと前にも瀬古がバラエティ番組に出て、ニヤニヤしながら女性タレントが露出した二の腕に触れるセクハラ芸を目撃した。ああ、ほんとにこの人は天然だったんだなあ(そんな言葉で片付けちゃダメだが)。だから中村の狂気じみた練習にも付いてこれたのだと、膝を打つ思いだった。ビバ! 瀬古利彦!

 

文=樋口毅宏 イラスト=サカモトトシカズ

『散歩の達人』2020年5月号より

参考文献:「オリンピックに嫌われた男。」高川武将、『永遠のランナー 瀬古利彦』瀬古利彦・小田桐誠、『マラソンと日本人』武田薫、『すべてのマラソンランナーに伝えたいこと』瀬古利彦