プラスティック板は錆びないし腐食もしないという利点がありますが、経年によって硬化すると脆くなり割れているのをよく見かけます。都会に残された畑に立てられたこの看板も誰かのいたずらではなく自然に割れてしまったようですが、まるで住宅地に侵食される農地を象徴しているかのようです。
この一角だけ高い建物が視界に入らないので青く澄み晴れ渡った空が広がっていました。この土地は緑を供給しているだけでなく青空も確保してくれているようです。
おしゃれな店の立ち並ぶ路地を歩いている途中に見つけました。凄まじい破壊力です。もはやなんと書いてあったのかはさっぱり読めません。
いったい何がどうなるとこういう壊れ方をするのでしょう。強風で何かが飛んできてぶつかった、路地に迷い込んだ大型トラックの積荷が接触した、などいろいろ想像してみましたが実際のところはわかりません。
通りかかったときたまたま壊れた直後で、すぐに修繕されたものと信じたいところです。
冬になり草花のなくなった花壇からなんともパンクな看板が現れました。板には植物の名前が書いてあったと想像されますが、まるでステージに叩きつけられ破壊されたギターのようにコンクリートの台座に突き刺さっています。小さいながらも己の存在を激しく主張するその姿は実にハードコア・パンクの印象です。
そういえば、セックス・ピストルズの仕掛け人として有名なプロデューサー、マルコム・マクラーレンにも「パンクとは破壊であり、破壊に秘められた創造の可能性だ」という名言があるそうです。前述のピカソの前衛性やその後の反芸術の実験精神が半世紀の時を経てロックに宿ったという知られざる美術史については、私の著書『ロックの美術館』の第一章「破壊と創造 ロック・アイコノクラスム」に詳しく書いてあるので興味のある方はぜひ読んでみてください。
と、最近路上観察に関する執筆が増えて本当に美術評論家なのかうっかりしていると自分でも忘れてしまいそうだったのでこの場を借りて自著の宣伝をしてみました(苦笑)。『ロックの美術館』がらみでいえば、「無言板」をミニマル・アートの一種として見る発想にはザ・ビートルズの「ホワイト・アルバム」のジャケットデザインからの影響もあります。
さて、話をパンク看板に戻しましょう。最後の写真はこれです。
路上の排水溝の蓋の隙間に何かがぴったりと収まっていました。立ち止まって上から見下ろすように撮影してみましたが、よく見るとさっき花壇で見つけたものとよく似たタイプの壊れた看板です。
流れる水とともに自然にここに収まったわけではなくおそらく誰かの仕業でしょう。花壇の手入れとその周りの排水溝の掃除をしていた人が、土や落ち葉が流入する隙間を塞ぐのにこの壊れた看板をあてたらぴったりだったに違いありません。まさに捨てる神あれば拾う神ありです。
パンク看板の第二の人生は意外にも実直で、身を挺して世の中のほころびを繕っている様子に現代社会の縮図を見る思いがしました。オーケー。パンクは死なないぜ。
文・写真=楠見 清