子供の頃から小説を書くことへの憧れはぼんやりとはあった。しかし高校の夏休みの宿題で小説を書くことになり、そのとき初めて挫折を味わった。私が考えた内容は、壁をすり抜ける薬を発明した博士が自分で飲んでみたところ引力によって地球の中心に引き寄せられマントルで燃え尽きて死ぬ、という話だ。星新一のパクリだというのは置いといて、いざ書き出してみると予想以上に筆が進まないことに驚いた。「ただの宿題なんだから適当に書けばいいや」とかなりハードルを低めに設定したのに、その適当な言葉すら浮かんでこない。本当は400字詰め原稿用紙10枚は書かなければならないところを気づかなかったふりをして5枚で提出した。
30代半ばにして改めて「小説を書きたい」と思い立ったのは自分の人生に危機感を抱いたからである。いい年をして人並みの収入にも程遠く、成果のない毎日を送っているうちに年ばかり食っていく。このままだと結婚もできず未熟な中年男性として今以上に社会から邪険に扱われるに違いない。そんな不安が確実に身近なものになっていた。またこれまでにもCDを出したりテレビに出たりするたびに「これで人生が好転するかも」と毎回期待しては、結果、大して変わらない現実に幾度となくがっかりしてきた。それでも、小説を書けば何かが変わるんじゃないかという期待はまだ捨て切れない。
数年前からは私も雑誌やWEBで連載を持ち、文章でいくらかのお金をいただいている。書籍も出版させてもらった。さまざまな経験を積んだ今なら、小説も書けるようになっているかもしれない。そう考えた私は、「俺は小説を書くぞ」と周囲に豪語し始め、インタビューの際にも小説で賞を取りたいなどとうそぶいていたら、本当に執筆依頼がきた。しかも、本来ならば厳しい審査をくぐり抜け新人賞を受賞しなければ掲載されないような由緒正しい文芸誌からのオファーだ。
小説を書ける人は、凡百の人間とは異なる特殊な感性や脳の構造を持った人のように見られる。小説を書いただけですごい人として一目置かれる上、権威ある文学賞を取りでもした日にはもはや「知の巨人」、生涯他人からなめられることなんてないし、生活にも困らないだろう。女性にもモテる。私が今までに作った馬鹿のような歌詞や文章も全て深い意味を持った作品だと捉えられ、まるでオセロがひっくり返るかのごとく過去の間違いが全て正しいものとなってあらゆる活動が上手く回り出すはずだ。まあ実際にそこまでうまくいくかはわからないが、とにかくやってみない理由はないのだ。
あれから一年半
そんな願ってもないチャンスが到来してから一年半が経った。いまだ一編の小説も完成していない。私は一体何をやっていたのか。つくづく自分が嫌になるが、決してただ家でゴロゴロしていたわけではない。この一年半、書こう書こうと毎日思い続けてきたし、ノルマを決めて数週間書き続けたこともあった。より良い執筆状態のために瞑想やランニングで気晴らしをしたり、カフェや図書館に場所を移すなどの工夫もした。それで「よし、今なら書ける」と思う瞬間もあったが、いざ書き始めると大変な苦痛に見舞われ一刻も早く筆を止めたくなった。
自分の思考や体験談に基づいて書くエッセイとは違い、設定から何から自由に決めることができるのが小説の良さでもあり難しさだ。何を書いてもいいぶん、一行書き進めるたびに「はたしてこの文章は本当に必要か?」と自問自答を繰り返す羽目になり、たびたび自分の力量のなさに向き合わされては胸が苦しくなった。
「あなたは小説が書きたいのではなく小説家になりたいだけでしょう」という言葉を聞いたこともある。表現したいものより肩書きへの憧れが先行しているような奴は成功しない、という意味だろう。一応私にも表現したいものはあるが、小説を書く動機に、他人よりも不純な成分が幾分多めに混じっているのは否定できない。そもそも本当に小説を書きたい気持ちが強い人ならオファーが来る前から勝手に書き始めているはずだ。
現状、何ひとつ作り出せていない私が何か言ったところで説得力はないだろう。どんなに内容に不満があろうと、とにかく作品を完成させることが重要だ。何冊か読んだ小説作法の本にも決まってそう書かれていた。最近、小説を書く感覚を徐々に摑みかけているような気もする。編集者に愛想を尽かされる前には何とか書き上げるつもりでいるので、私の処女作が世に放たれる瞬間をどうかもう少しだけ待っていてほしい。
文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2023年11月号より