部活、あるいは学校や会社を楽しいと思える人も世の中には一定数存在する。できれば私もそんな人間になりたかった。思えば、継続は苦しいのが当たり前だと植え付けられたのは小学生の頃続けていた剣道によるものかもしれない。

小学1年生のはじめ、スポーツ少年団の募集チラシを見て剣道をやりたいと親に言った。なぜ剣道をやりたいと思ったのかは不明だ。その時見たのが野球チームの募集だったら野球を始めていたかもしれない。スポーツの種類をあまり知らない段階でなんとなく剣道を始めてしまった。

毎週火曜、木曜、土曜の週3回、夜7時になると町の武道館へ練習に行った。最初は竹刀で人形を打ったりしているだけで楽しかったが、2年くらい通った頃には完全に練習が嫌になっていた。火曜の『伊東家の食卓』『炎のチャレンジャー』、木曜の『ボキャブラ天国』、土曜の『めちゃイケ』。友達が見ているテレビを見られず、翌日の会話に入れない。夏はめちゃくちゃ暑いし、喉が渇いても水を飲めない。冬は武道館の床が氷のように冷たく、面をつけていると耳が痛い。文句はいくらでもあったが、やめられなかった。剣道を始める時、「やると決めたからには少なくとも小学校の6年間は続ける」と親と約束してしまったからである。何か適当に理由づけて途中でやめることもできたかもしれないが、当時の私は一度した約束を破ることは許されないと考えていた。かと言って練習に積極的に取り組むようなこともなく、夜7時が近づいても母親に急せかされるまでは可能な限り準備を遅らせ、ほとんど毎回30分くらい練習に遅刻して行った。

火曜日の一家団欒

ある火曜日。夜7時を過ぎても母親が何も言ってこない。どうやら今日が練習の日であることを忘れているようだ。しめた、母親が思い出すまではできるだけだらだらしていようと思った私は居間で『伊東家の食卓』をつけると母親も隣で見始めた。そのうち父親と姉までやってきて居間は一家団欒の様相を呈し始めた。私は「この裏技めっちゃええなあ」などとつとめて普通にコメントしつつ、どんどん不安を強めていた。私が剣道のことを覚えていながらあえて隠している事実が、時間が経つほどに明確になっていく気がした。

このまま居間にいるのは危険だ。家族の前に姿を現していることによって誰かが「火曜日―私―剣道」と連想を働かせてしまう可能性がある。だが急に他の部屋に移動しようとしたらかえって自分に注意を向けさせてしまいそうだし、場合によっては身を隠そうとした魂胆まで伝わってしまうかもしれない。

膠着状態のまま8時になり次の番組が始まった。その時、姉が「あれっ?」と何かを思い出そうとする顔をした。私は姉の記憶を刺激したであろうテレビ番組を急いで変えたが、意味はなかった。

「やす、今日剣道の日ちゃうん?」

最も恐れていた一言を姉が発した瞬間、まるで時が止まったかのようにみんなが押し黙った。空気を読まないテレビの音だけが居間に響いた。

私は一瞬記憶をたどるような顔を作ったあと、「あっ! ほんまや!」と驚いて見せたが、小学生の姑息(こそく)な演技は隠蔽の意図をより印象づける方向にしか働かなかった。

「お前なんで言わんかったんや」

私が意図的にサボろうとしたという前提で父親が問い詰めてくる。わかっていることを隠すのは噓をつくのと同じだ、自分でやると決めたことはまっとうしろ、としばらく説教が続いた後、「今から剣道に行って遅刻をみんなに謝る」または「神社の本殿にある太鼓を家まで届く音量で20回叩いてくる」の二択からどちらかを選ぶよう命じられた。

真っ暗で誰もいない石段を100段近くのぼって本殿へ行くのは、小学生にとってはかなりの恐怖体験だ。しかしそんな恐怖心の強さも剣道に行きたくない思いを上回るほどではなかった。私は懐中電灯を片手に震えながら石段を上って本殿に入り、従順に20回太鼓を叩くと急いで走り降りた。家に戻ると「ちゃんと太鼓聞こえたぞ。よう頑張ったな」と頭を撫でられ、私は安堵しつつもどこか腑に落ちない思いが残った。太鼓を叩きに行くのにはたして意味があるのか。神聖な神社の太鼓をそんな罰ゲームみたいに扱っていいのか。それでも「一度やると決めたことを破るのは大罪である」という意識は強まったので、多少の教育効果はあったのかもしれない。

吉田の実家の神社ではなく、東京都港区にある愛宕神社「出世の石段」で撮影。
吉田の実家の神社ではなく、東京都港区にある愛宕神社「出世の石段」で撮影。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2023年10月号より

実家が神社をやっている影響で、子供の頃の私は近所の人たちから割と丁寧に扱ってもらっていた。道を歩いて老人とすれ違うと「あんた神社のとこの子やんな。はよお父さんやおじいちゃんみたいに立派な神主にならんといかんで」と声をかけてもらうことが多々あった。親の命令により毎日学校に行く前に神社の階段を掃除させられていたことも近所で知られており、「あんたは偉いなあ」とよく知らない人から褒められたりもした。半面、私は古典的なマンガに出てくる悪ガキ的ないたずらをして、近所の雷親父から「コラー!!」と追いかけまわされるようなキャラクターにちょっと憧れていた。しかし、もしいたずらをした相手が私を神社の息子だと認識していたら、過去に「立派な息子さんやなあ」と神主の父にお世辞を言ったことなどを思い出し、𠮟りつけるのを躊躇して気まずい空気になるのではないか。そんな心配のせいであまり大胆にピンポンダッシュもできず、サザエさんのカツオのような天真爛漫なやんちゃ坊主とはかけ離れた自分のキャラ設定を歯がゆく思った。年に一度、神社が主催する恒例のバスツアーがあった。30人程度でバスを貸し切り、ほかの地方の有名な神社を回る。神主である父親はそのバスツアーの先導役であった。私はあまり神社を巡りたくはなかったが、毎年3日ほどは小学校を休み、バスツアーに参加させられた。神社の跡継ぎとして期待され、高齢者ばかりの旅に参加する唯一の子供であった私は、みんなに可愛いがられた。人見知りで無口な子供だったため小学生としてはあまり可愛げがなかったように思うが、他に比較対象がいないおかげでツアーのマスコットキャラクター的な注目を一身に集め、ことあるごとに「これ食べな」とおやつを貰ったり、「学校は楽しいか」と話しかけられた。私はイメージを壊さないようできるだけ努力して振る舞いながらも、学校でのキャラクターとは違う丁寧な扱われ方を息苦しく思った。大学2年の時、上京していた私のもとに父親から電話がかかってきた。昔私が参加していたバスツアーで、新橋のちょっといいホテルに来ているらしい。「美味いもん食わせてやるから仲がええ友達何人でも連れてこい」と父親は言った。今や典型的ダメ大学生と化した自分が、信心深い氏子さんたちの集まる場に顔を出すのは多少抵抗もあったが、その頃金欠であまりいいものを食べていなかったせいもあり、「美味いもん食わせてやる」という父親の誘いは魅力的だった。サークルのたまり場で友人たちに話してみるとみんな「面白そうじゃん、行ってみようぜ」と乗り気な様子だったので、そのまま友人たち3人を引き連れ新橋へ向かったのである。
昔、ラジオでダウンタウンの松本人志が「結局、日本で一番ごはんがうまい街は東京だ」と言っていた。大阪だって食い倒れの街と言われているし、安価で美味しいものは食べられる。しかし、金に糸目を付けず本当にうまいものを食べようとするならやっぱり東京だ。他の街にもさまざまな名物や郷土料理はあれど、全国的に通用するものならきっと東京進出してくるはずだし、都内の高級店なら一流の食材も取り揃えている。だから、東京以上にごはんが美味しい街は日本にはない、と。私は「そういうもんなのかな」と思いながら聞いていたが、その後上京し、東京で生活するようになって、松本人志が行くようないい店ではないが、地元では食べたことのないような美味しいものがたくさんあることを知った。バンドが少し軌道に乗り始めてからは地方に足を運ぶ機会も増えた。地元のバンドマンに教えてもらったご当地グルメはどれも美味しかった。ああ、俺は今ここでしか食べられないものを食べているんだな、と感動したりもしたが、そんな時にきまって頭をよぎるのは松本人志のあの言葉だった。このもつ鍋は確かに美味しいが、旅の高揚感で美味しく感じている部分もないとは言えない。東京の高級店に行けばもっと良いバージョンのものがあるだろうか。せっかくの旅気分に水を差すようなことを考えてしまう自分が嫌だった。実家に帰ったとき、食卓に鯛などが並ぶと、父親はよく「東京ではこんなうまいの食べれんからいっぱい食っとけよ」的なことを言う。本当はそんなことないだろう。香川より魚が美味しい街はたくさんあるだろうし、全国の美味しい魚は東京に集まってくるのだ。父はずっと香川に住んでいて都会のものを食べていないからそんなことを思うのだ。私は父の言葉を聞いて少し切ない気持ちになった。ただ、確かに私は父が食べたことのないものをたくさん食べてきたかもしれないが、別に舌が肥えているわけではなく、野菜の産地にもこだわりはないし、安い肉と高い肉の差もそんなにわからない。私よりも長く生きてきた分、父の方が味の良し悪しを見抜く力に長けているのかもしれない。魚の鮮度とか旨味なんかは多分私より細かく把握できているだろう。父の言うとおり香川の鯛は実際、全国的にすごいのかもしれない。そんな風にも思った。