吉田靖直(達人)の記事一覧

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私はどうしても給食委員の仕事を忘れてしまうのだった
たぶん私は人よりも多めに怒られてきた方だと思う。しかし怒られても適当にごまかしてその場を取り繕おうとするので、間近で怒声を張り上げられるような、いわゆるブチ切れられた経験はあまり多くない。そんな数少ないブチ切れられた経験として真っ先に思い出すのは、中3のある初夏の日のこと。当時私は給食委員をしていた。風紀委員、体育委員、生活委員などクラスの全員が何かしら役職に就かなくてはならず、比較的楽そうだった給食委員に立候補したのだ。私と尾崎さんという女子が担当となった。給食委員の仕事は毎日給食の時間になると棚からウェットティッシュを取り出し教卓の上に置くだけ。そのウェットティッシュも使う者はほとんどおらず、実質あってもなくてもいいような仕事だった。ただ、どんなにくだらない仕事だとしても、与えられた役割を忠実にこなす大切さを学校側は学ばせようとしているのだろう。そう頭では納得していても意義を感じにくい仕事はつい疎かになってしまう。私はほぼ毎日ウェットティッシュを出し忘れていた。決してサボっていたわけではない。うっかり忘れてしまうのだ。私の代わりに尾崎さんが毎日ウェットティッシュを出してくれていた。さすがに申し訳なく、明日こそは忘れないようにしようといつも思った。午前の授業中にふと思い出し、よし今日こそウェットティッシュを出すぞと決意するのだが、給食の時間になると不思議なほど忘れてしまう。尾崎さんばかりが給食委員の仕事をしていることに気づいた担任教師が「おい、お前忘れるなよ」と軽く釘を刺してきた。口調は優しかったが、この担任は授業中に金八先生のビデオを頻繁に見せてくる熱血漢タイプで、前触れなくいきなりブチ切れる場面を今まで何度も目撃してきた。あと何度かウェットティッシュを出し忘れたら教師の逆鱗(げきりん)に触れる可能性も高いだろう。不安に襲われつつも、給食の時間になるとやっぱりまた忘れてしまう。「お前また忘れとるやないか」と言う担任のこめかみには血管が浮き始めていた。
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「万引き」の同調圧力に耐えた中学生の自分をほめてあげたい
中高時代、私が信奉していたバンド、ブランキー・ジェット・シティの「D.I.Jのピストル」という曲の一節に「何かとっても悪い事がしたい」という歌詞がある。一時期の私はブランキーのボーカル、ベンジーの言うことは全て正しく、自分をベンジーに擦り寄せていきたいと思っていたので、「D.I.Jのピストル」を聴くたび、「何かとっても悪い事がしたい」という感覚が自分の中に存在しないことを再確認してはひどくがっかりしたものだった。ロックには、社会からはみ出してしまうことを気高いもの、美しいものとする価値観がある。すごく才能がある人というのは一般人にはおよそ理解できない無軌道な衝動を抱えていて、それが思春期に盗んだバイクで走り出したり、校舎の窓ガラスを壊して回るような破壊的行動として発露するのだ。そしてそういった衝動を持つ者だけが群衆の中から突出し、独自の作品を世に残すことができる。「悪い事がしたい」という衝動が一切湧いてこない自分には才能がないのかもしれない――。そう考えながら私は多感な十代を過ごしたのである。そんな私にも人並み程度には悪い事をしそうになった経験がある。たとえば、万引きをするかどうかの瀬戸際に立たされた日があった。
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我が唾は、想像しうる限り最悪の場所に落ちていた
「唾溜めゲーム」という遊びがある。より多くの唾を口の中に溜(た)められた方がすごい、というだけのシンプルな遊びだ。唾を飲み込まず、うがいをする要領で口の中で転がしているとどんどん溜まってくる。そしてある程度溜まったそれを一気に飲み込むとちょっと気持ち悪い味がするが、自らへ課したハードルを乗り越えたような不思議な達成感があった。ちなみにこれは幼少の頃私が独自に考え出してひとりでやっていた遊びだ。小学2年生の夏のある日。入学と同時に地域のスポーツ少年団で剣道を習い始めた私は、隣町の体育館へ遠征して試合に出場したものの、1回戦か2回戦で早々に敗退した。負けてしまったらもうやることはない。早く家に帰りたかったが、自分だけ勝手に帰るのは許されない。小1から小6まで全員の試合が終わるまでは会場にいなくてはならないのだ。仲間がいれば一緒に鬼ごっこでもできるが、私と同学年で仲が良かった池内君はまだトーナメントを勝ち上がっていて、他に遊び相手がいなかった。そうだ。この暇な時間を利用して唾溜めゲームをやってみよう。今までは10分くらい唾を溜めたら飲み込んでいたが、今日は限界まで挑戦するぞ。自己記録を更新するにはうってつけの日かもしれない。私はすぐにゲームを開始し、口をモゴモゴさせながら試合を眺めた。池内君は順調に勝ち上がり、見事決勝に進出。最後は惜しくも敗れたが、準優勝という立派な成績をおさめた。私は口の中がパンパンで声援を送ることはできなかったが、精一杯の拍手で池内君の健闘を称えた。全学年の試合が終了する頃には私の口内は過去最大量の唾で満たされていた。ハムスターのように頬が膨らみ、ちょっとでも気を抜けば口角からピュッと唾が飛び出してしまいそうだ。さすがにもういいだろう。自己記録は十分更新した。一気に飲み込んで終わりにしようとしたが、口の中で数十分溜め続けた唾は何やら自分のものではないような不快感があり、飲み込むことに強い抵抗を覚えた。無理やり飲み込んだら嘔吐(おうと)してしまう可能性がある。トイレに行って吐き出そうかと考えていると、剣道の先生から「おい、表彰式始まるからはよ並べ」と促された。そうか。まだ表彰式があった。この先20分以上この状態で耐えるのは難しいだろう。式が始まる前に急いでトイレの方へ走っていこうとするが、「はよ並べって言うとるやろが!」と頭ごなしに叱りつけられ、口の中が一杯で何も言えない私は、仕方なく引き返し列に並んだ。
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ふと目を覚ますと、カーテンの向こうで草刈りが始まっていた
大学卒業後も就職先が決まらず、主にギャンブルが原因で借金が膨らみ首が回らなくなっていたとき、バイト先の先輩が「俺んち部屋空いてるから家事とかやってくれるなら住んでいいよ」と言ってくれた。お言葉に甘え阿佐ヶ谷のアパートから高田馬場の先輩宅に転がり込む形となった。以前は先輩の祖父母が住んでいたという一軒家は、新宿区としてはかなり広かった。1階はリビングと私の部屋。2階の半分が先輩の居住スペースで、もう半分は賃貸アパートとして2部屋貸し出されていた。そこには60代くらいの夫婦と、その隣には中高年の女性がひとりで住んでいるようだった。ようだった、と推測することしかできないのは、私が入居の挨拶などをせず、家の前でたまたますれ違う程度にしか2階の住人について知らなかったためだ。当初は生活を立て直すまでの間だけ先輩の家に仮住まいさせてもらい、お金が貯まれば出ていく予定だった。だから形式張った挨拶も不要と考えた。しかしその後なんとか就職するも、浪費癖のせいで一向に貯金はできず、そのうち会社もやめてフリーターとなり、長い居候生活に突入してしまう。そうなっても今さら、2階の住人に対して明るく振る舞うことはできない。ボソッと「こんにちは」と会釈をして通り過ぎるだけの関係性のまま数年が過ぎていった。私の寝起きする部屋の前の庭を2階の住人はよく通り過ぎた。部屋には床から私の背丈くらいの高さのガラス窓があり、そこから派手に散らかった部屋の様子が丸見えだったはずだ。せめてまともな人間だと印象付けたかったので、できるだけカーテンを閉めて部屋の中が見えないように工夫していたが、カーテンを閉め忘れたまま外出することも多く、私のただれた生活態度は覆い隠せていなかったと思う。
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YouTubeで成功した後輩たちに会って感じた、青春の光と影
私が通っていた早稲田大学には当時数十もの音楽サークルがあったが、私がいたサークルは“オリジナル曲中心”を標榜していた点で他とは少し違った。ヒップホップ、ブラック・ミュージック、レゲエなどジャンルによって区別されているサークルが大半の中、実力はさておき、とにかく自分の音楽を作り、ひいてはその音楽で世に打って出たいという野心を持つ者が数多く属していたように思う。とはいえ、ごく一部の例外を除きその活動が世間に評価されることはない。サークル員たちはバンドを組み下北沢や新宿のライブハウスに毎月出演していたが、全く芽の出る気配のない数年を経た後も音楽を諦めきれず、またはサークル内の退廃的な空気に流され1年か2年留年した後、結局は普通に就職してそのうちバンドをやめてしまうパターンが大半だ。就活に力を入れて来たわけではないため有名な大企業に入社できるような者はほとんどおらず、大体は適当な中小企業に就職する。私も音楽で世に出るという野望を隠し持ってサークルに入ったクチではあるが、やはり1年留年して卒業する時期になっても音楽で食っていく道は全く開けていなかった。才能はなくともバンドを諦めて実家に帰るのはどうしても受け入れがたく、東京に残る口実として仕方なく小さなIT企業に就職したものの、全く適性がなく1年半で離職。その後、バイトを転々としながらのらりくらりとバンド活動を続け、今に至る。あの頃はバンドをやめて就職することが人生の敗北を意味するようにさえ感じていたものだが、30代も半ばになるとそんな熱っぽい考えも消えた。音楽家として生きていくことと、会社に就職して生きていくことの間にそこまで大きな隔たりがあるようにも今は思えない。もっとも、それは私が人一倍長い時間バンドにしがみつき、こうして媒体で時々自分の思うところを書かせてもらったりしているおかげで、表現欲や承認欲求といったものが多少は満たされているせいかもしれない。だが収入面でいえば、あの頃サークルにいた面々の中で現在の私は最下層になるのだろう。私の知る限り最も経済的に成功しているのは、「SUSURU TV.」というYouTubeチャンネルの運営会社の代表をつとめる矢崎という男だ。
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「な。うまいやろ」そう言って父はうれしそうにバーミヤンラーメンの麺をすすった
昔、ラジオでダウンタウンの松本人志が「結局、日本で一番ごはんがうまい街は東京だ」と言っていた。大阪だって食い倒れの街と言われているし、安価で美味しいものは食べられる。しかし、金に糸目を付けず本当にうまいものを食べようとするならやっぱり東京だ。他の街にもさまざまな名物や郷土料理はあれど、全国的に通用するものならきっと東京進出してくるはずだし、都内の高級店なら一流の食材も取り揃えている。だから、東京以上にごはんが美味しい街は日本にはない、と。私は「そういうもんなのかな」と思いながら聞いていたが、その後上京し、東京で生活するようになって、松本人志が行くようないい店ではないが、地元では食べたことのないような美味しいものがたくさんあることを知った。バンドが少し軌道に乗り始めてからは地方に足を運ぶ機会も増えた。地元のバンドマンに教えてもらったご当地グルメはどれも美味しかった。ああ、俺は今ここでしか食べられないものを食べているんだな、と感動したりもしたが、そんな時にきまって頭をよぎるのは松本人志のあの言葉だった。このもつ鍋は確かに美味しいが、旅の高揚感で美味しく感じている部分もないとは言えない。東京の高級店に行けばもっと良いバージョンのものがあるだろうか。せっかくの旅気分に水を差すようなことを考えてしまう自分が嫌だった。実家に帰ったとき、食卓に鯛などが並ぶと、父親はよく「東京ではこんなうまいの食べれんからいっぱい食っとけよ」的なことを言う。本当はそんなことないだろう。香川より魚が美味しい街はたくさんあるだろうし、全国の美味しい魚は東京に集まってくるのだ。父はずっと香川に住んでいて都会のものを食べていないからそんなことを思うのだ。私は父の言葉を聞いて少し切ない気持ちになった。ただ、確かに私は父が食べたことのないものをたくさん食べてきたかもしれないが、別に舌が肥えているわけではなく、野菜の産地にもこだわりはないし、安い肉と高い肉の差もそんなにわからない。私よりも長く生きてきた分、父の方が味の良し悪しを見抜く力に長けているのかもしれない。魚の鮮度とか旨味なんかは多分私より細かく把握できているだろう。父の言うとおり香川の鯛は実際、全国的にすごいのかもしれない。そんな風にも思った。
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老舗飲み屋に行って「おすすめ」を聞くと大変なことになった。
以前、友人と2人でとある温泉地へ旅行したときのこと。夕食後、せっかくなので地方のスナックに行ってみたいねという話になった。地元の同級生がいつもスナックで飲んでいるという話を聞き、私も大人の嗜みとしてスナックを経験しておきたいと思ったのだ。店前に着いた。が、重厚な木製の扉で中の様子は全く見えない。勇気を出して開くと、カウンターに二人組が座っている以外に客はいなかった。よかった、空いていたと胸を撫でおろし、店員に「今から2人いけますか?」と尋ねたところ、彼女はなぜか気まずそうな顔で「……ちょっと確認しますね」と言い、店の奥の女性と小声でやりとりした末、「すいません、今日予約でいっぱいなんです」と私に告げたのである。店員間の不自然なやりとりの様子から、嘘の理由をつけて断られたのだとわかった。本当に予約がいっぱいならば、尋ねる前から把握していたはずだ。なぜ入店を断られたのかわからず不満だったが、ともかく入れないのなら仕方ない。気を取り直して2軒、3軒とスナックをまわったが、どの店でも似たような態度で断られ、結局その日スナックに行くのは諦めた。帰り道、一体何が原因だったのかと話し合った。もしかしたら私たちが旅館の浴衣を着ていたのがいけなかったのかもしれない。店にいた客はみんな普段どおりの服装をしており、観光客ではない現地の人のように見えた。スナックにもそれなりのドレスコードがあるのか。それとも浮かれた観光客は鬱陶しいので入店させないようにしているのだろうか。はっきりした理由はわからずとも、私たちが知らぬ間に暗黙の了解を侵していたのは確かなようだった。そういった暗黙の了解は、スナック以外にも、ちょっと敷居の高い飲食店に行けばしばしば遭遇する。食べ終わったラーメンの器をカウンターの上段に上げるべきか否か。食べながらスマホをいじっていると怒られやしないか。注意書きでも書いておいてくれればいいが何の説明もない場合もある。やがて店員があからさまに愛想が悪くなったのを見て、何かやってしまったようだと察する。あとで店のしきたりをネットで調べ、確かに自分が知らず知らずのうちに無粋な行動をとっていたのだと反省することもあるが、何度思い返しても納得のいかないこともある。数年前のある日。左右というバンドをやっている友人の花池君、デイリーポータルZでライターをしている大北さんと千葉で取材した帰り、せっかくだから下町の老舗居酒屋に寄って帰ろうということになった。電車の中で大北さんが検索して見つけたその居酒屋は、決して高級店ではなく、値段は安いが味は確かで、いつも常連客で賑わっていると評判の、いかにも私たちが好きそうな店だった。暖簾をくぐると店内は老舗感にあふれていた。私は床が油でベトベトだとか天井が炭で真っ黒だとか、そういった古い店の汚さは気にならない質だ。ただ、奥の座敷へ通された時、観光みやげのペナントや将棋の駒の置物などが壁際に雑然と並んでおり、その「他人の家っぽさ」を少し苦手に感じた。
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すでに堤防は決壊しそうだったが、私は一気に液体を飲み干した
子供の頃は大食いがかっこいいことだと本気で思っていたがあれは何だったのだろう。テレビの大食い番組を食い入るように観ては自分もいつか絶対あの舞台に立ちたいと思っていた。回転寿司へ連れて行ってもらえば自己記録を一皿でも伸ばそうと、食べたくもない寿司を食べた。クラスにも、誰よりも多く給食をおかわりしようとするライバルが必ず数人はいた。大食いがかっこいいという感覚がどこで植え付けられたのかは分からないが、少なくとも大食いに憧れていたのは私だけではなかったようだ。小3の頃、あきひろおっちゃんと呼ばれる友達の叔父がバイキングへ連れて行ってくれる機会があった。将来フードファイターを志す者としては腕を試される場所だ。友達に圧倒的な大食いの実力差を見せつけ、あわよくば初対面のあきひろおっちゃんにも「こんなに食う子がいるのか」と驚いてもらいたい。ただ、あきひろおっちゃんは怖い人だと常々聞かされていたので少し不安だった。何の前触れもなくブチ切れ、友達のいとこはよく泣かされているらしい。何が逆鱗に触れるのか分からず怖かったが、とりあえず「いただきます」と「ごちそうさま」を忘れないように言おうと決意した。おっちゃんは車の中でほとんど喋らず、友達もいつになく無口だった。車内の静けさが不安を搔き立てたが、店に着いてしまえばそんなことを気にしてはいられない。制限時間は90分。友達と競い合うように肉を取り、我先にと網へ乗せていく。あきひろおっちゃんは私たちを気にするでもなく、ただ自分のペースで肉を焼いていた。昼飯を抜いて可能な限り腹をすかせて臨んだのに一時間も経たないうちに満腹になった。時間はまだまだ余っている。ここからが勝負だ。鶏肉など比較的あっさりめの肉に切り替え、強引に咀嚼し飲み込んでいく。腹がいっぱいでも感覚を無視して口に入れていけばなんとか食べられるものだ。そう感じた瞬間もあったが、しばらく経つともう満腹感どうこうの問題ではない、今までに経験したことのないレベルの限界を感じた。これ以上は何一つ食べたくない。いや食べられない。
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神社の息子パワーは、小泉進次郎似の若者の前に全く無力であった
実家が神社をやっている影響で、子供の頃の私は近所の人たちから割と丁寧に扱ってもらっていた。道を歩いて老人とすれ違うと「あんた神社のとこの子やんな。はよお父さんやおじいちゃんみたいに立派な神主にならんといかんで」と声をかけてもらうことが多々あった。親の命令により毎日学校に行く前に神社の階段を掃除させられていたことも近所で知られており、「あんたは偉いなあ」とよく知らない人から褒められたりもした。半面、私は古典的なマンガに出てくる悪ガキ的ないたずらをして、近所の雷親父から「コラー!!」と追いかけまわされるようなキャラクターにちょっと憧れていた。しかし、もしいたずらをした相手が私を神社の息子だと認識していたら、過去に「立派な息子さんやなあ」と神主の父にお世辞を言ったことなどを思い出し、𠮟りつけるのを躊躇して気まずい空気になるのではないか。そんな心配のせいであまり大胆にピンポンダッシュもできず、サザエさんのカツオのような天真爛漫なやんちゃ坊主とはかけ離れた自分のキャラ設定を歯がゆく思った。年に一度、神社が主催する恒例のバスツアーがあった。30人程度でバスを貸し切り、ほかの地方の有名な神社を回る。神主である父親はそのバスツアーの先導役であった。私はあまり神社を巡りたくはなかったが、毎年3日ほどは小学校を休み、バスツアーに参加させられた。神社の跡継ぎとして期待され、高齢者ばかりの旅に参加する唯一の子供であった私は、みんなに可愛いがられた。人見知りで無口な子供だったため小学生としてはあまり可愛げがなかったように思うが、他に比較対象がいないおかげでツアーのマスコットキャラクター的な注目を一身に集め、ことあるごとに「これ食べな」とおやつを貰ったり、「学校は楽しいか」と話しかけられた。私はイメージを壊さないようできるだけ努力して振る舞いながらも、学校でのキャラクターとは違う丁寧な扱われ方を息苦しく思った。大学2年の時、上京していた私のもとに父親から電話がかかってきた。昔私が参加していたバスツアーで、新橋のちょっといいホテルに来ているらしい。「美味いもん食わせてやるから仲がええ友達何人でも連れてこい」と父親は言った。今や典型的ダメ大学生と化した自分が、信心深い氏子さんたちの集まる場に顔を出すのは多少抵抗もあったが、その頃金欠であまりいいものを食べていなかったせいもあり、「美味いもん食わせてやる」という父親の誘いは魅力的だった。サークルのたまり場で友人たちに話してみるとみんな「面白そうじゃん、行ってみようぜ」と乗り気な様子だったので、そのまま友人たち3人を引き連れ新橋へ向かったのである。
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俺たちは「東京の人」になった。ただそれだけでうれしかった。
3月にしては暖かい日だった。第一志望の早稲田大学文学部に合格した私は、姉に付き添ってもらい不動産屋を回っていた。高田馬場駅近くには不動産屋がいくつもあり、おすすめの物件情報がペタペタ貼られた看板がずらりと並んでいる。とりあえず名前を聞いたことのある綺麗な不動産屋に入ったが、話を聞いている合間に姉から「やす、もうここ出るで」と促された。店を出て「何がいかんかったん?」とたずねると、こちらが指定した値段よりちょっと高い物件ばかり出してくる不動産屋はダメだ、とのこと。「不動産屋って基本こっちの言うことごまかして、できるだけ高い部屋借りさそうとしてくるもんやから、気つけんといかんで」と姉は言った。いい人そうな店員だったが、確かに私の希望より数千円高い物件ばかり紹介してきた。でもちゃんとした不動産屋がそんなずるい事をするものだろうか。次は「早稲田の学生向け物件多数」と看板に掲げていた店に入ってみた。さっきは「高田馬場周辺で3万円代」という条件を伝えると非常識なことを言っているような反応をされたが、そこの若い男性従業員は「風呂無しでかなり古いアパートになりますよ?」と牽制しながらも、条件を満たす物件を最初から出してきた。なるほど。姉の言う通り、いい不動産屋と悪い不動産屋があるのかもしれない。その不動産屋の従業員の多くは早稲田の卒業生らしい。私が当たった男も法学部だったという。物件の紙を見せながら、「ここ友達が住んでたんですけど居心地よかったですよ」などと現場感のある情報をくれる。この不動産屋いいじゃん、と思った。いくつか紹介された中から2つに絞り、流れのまま内覧をすることに。歩いて向かっている途中、「何で文学部にしたんですか?」とたずねられた。自分なりに細かい理由はあったが、話せば長くなる。「まあ本とか好きなので……」と曖昧に答えると、「へえ、どんな作家読むんですか?」と掘り下げてきた。好きな本はたくさんあったが、好きな作家は誰かと聞かれたらなかなか難しい。国語の教科書に紹介されているような有名な文学作品はそれなりに読んだものの、掘り下げて何冊も読んでいる作家はほとんどいなかった。悩んだ末に、思いついたのが重松清だ。直木賞を受賞したタイミングで名前を知り、図書館で借りて読んでみたら面白かったので5冊くらい読んだ。どれも面白かった。確か、あの人も早稲田出身だったしその辺でも話が広がるかもしれない。そんなことを思いながら「重松清とか読みますね」と答えた私に対し、不動産屋は苦笑しながら「ああ……、あんま本読まないんですね」と言った。イラッとした。どうして売れてる作家だと読んだことにならないんだよ。咄嗟に「え、じゃあ誰の本読むんですか?」と聞き返すと、彼は表情に余裕を浮かべ「三島とか谷崎とかですかね」と言った。卑怯な男だ。歴史が才能を証明した、否定しようのない作家ばかり挙げてきて。三島由紀夫が天才だったとしても、それを読んでるお前がすごいことにはならない。ていうか俺も『痴人の愛』ぐらい読んだことあるし。地元では好きな本の話をできる友達が少なく不満だったが、東京ではふらっと入った不動産屋の店員が好きな作家で人を見定めてくる。いや、早稲田にそういう奴が多いだけかもしれない。そういえばこの店員は文学部より若干偏差値が高い法学部の卒業生であることを、聞いてもいないのに節々でアピールしてきた。大学で音楽サークルに入るつもりだった私は、サークルを回って好きなミュージシャンをたずねられた際は、人から絶対にマウントを取られない名前を挙げようと、そのとき深く心に刻み込んだ。
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