撮影所の前を流れる小川もいまは無く
その昔、蒲田には松竹映画の撮影所があった。しかし、1936年に神奈川県の大船に新しい撮影所が完成し、松竹蒲田撮影所は閉鎖される。
“東洋のハリウッド”と呼ばれた栄光の時代、それを唄ったのが『蒲田行進曲』だった。1982年に公開された同名の映画の主題歌にもなり、主演の風間杜夫や松坂慶子が歌って大ヒット。いまは蒲田駅の発車メロディーになっているというわけだ。
この曲について少し調べてみる。と、それは映画の公開よりも遥か昔から存在していた。原曲は1925年にニューヨークのブドウェイで初演したオペレッタ『Song of the Vagabonds』の劇中歌として歌われたのが最初。それに日本語の歌詞をつけて、1929年公開の映画『親父とその息子』の主題歌として使われたものだった。
松竹蒲田撮影所内で働く人々は、この歌をよく口ずさんでいたという。撮影所の愛唱歌のような存在。1986年公開の映画『キネマの天地』の舞台は大船に移転する直前の松竹蒲田撮影所だが、この映画の中でも『蒲田行進曲』が随所で聴かれる。ヒロインがラストシーンで唄ったのがとくに印象的だった。
現在、松竹蒲田撮影所の跡地には大田区民ホール『アプリコ』が立っている。J R蒲田駅からは徒歩数分の距離。メロディーに誘われて列車を降りてしまったことだし、行ってみることにした。
『アプリコ』の敷地内の庭園には、映画『キネマの天地』のセットで使用された松竹橋がある。かつて撮影所の入り口に架かっていたオリジナルの橋も『アプリコ』内に保存展示されているというが、そちらは本日休館で見ることはできない。残念。
橋があるということは敷地の前には川が通っていたということになる。国土地理院が保存する当時の空中写真を見れば、撮影所の建物は確認できる。が、画像が不鮮明で細かい水路までは分からない。
少し周辺を見てまわろう。『アプリコ』から信号を渡って東の方角に数十メートル行くと「さかさ川通り」がある。この道は昭和40年代に六郷用水の支流だった逆川を埋めて通したもの。石畳の通りは緩やかに蛇行して、健在だった頃の川筋を想像させる。
逆川は現在の大田区役所の方向から、撮影所の敷地を横切り呑川に注いでいた。幅3メートル程度の細い水路だったというが、間違いなく撮影所の前には水の流れがあった。だから、橋が架けられたのだ。
また、昔は水路に沿って田圃が広がるのどかな風景があったというのだが……撮影所ができた大正期になると、風景は激変していったという。
戦前の蒲田には、シリコンバレーと六本木があった!?
撮影所が開所した頃すでに、その隣にはタイプライターの製造工場があった。規模は撮影所の2倍以上、蒲田駅前からつづく約2万坪の敷地には最新設備が整えられていたという。また、近隣には他にも船舶用ディーゼルやエレベーターなど、当時の社会に変革をもたらした最先端機器の工場が次々に進出するようになる。
蒲田は開発の遅れた地域で、東京近郊にありながら広い敷地を確保することができた。そのため大正期になると、社会に変革をもたらすような先端産業の工場が続々と建てられるようになる。日本のシリコンバレーといった感じだったろうか?
工場の進出で人口が増える。また、震災後は都心から転居する人も多くなる。そうなると駅周辺には盛場が発展した。
盛場の酔客たちのなかには、撮影所の関係者の姿も目立っていたという。蒲田撮影所の16年間の歴史のなかで、製作された映画は約1200本。毎月6〜7本の映画が撮影されていた計算になる。昼夜にわたり撮影所はフル稼働、大勢のスタッフや役者たちが忙しい撮影の合間に酒を酌み交わす。また、クランクアップすれば居酒屋を貸し切っての酒盛り。おそらく『蒲田行進曲』の大合唱も聴かれたことだろう。
バブル期の頃は六本木あたりで派手に遊ぶ“業界関係者”がよく話題になった。映画黄金期の当時、撮影所の人々もそう見えていたのかもしれない。下っ端の助監督や無名の大部屋俳優も、一般人の目からはオシャレに映ったりもする。
「流行は蒲田から」
そんなキャッチフレーズが広まっていた。『蒲田行進曲』の歌詞にもあるような、虹が架り光に輝く華やいだ街の雰囲気……いまは想像することも難しいのだが。
シャッター商店街で、キネマの天地の栄華を偲ぶ
昭和時代に入っても蒲田に進出する工場は増えつづける。街は発展をつづける。しかし、それが撮影所の存続を難しくした。
1930年代になると映画業界にイノベーションが巻き起こる。映像と音が同期したトーキー映画の登場だ。字幕ではなく俳優が直接にセリフを喋り、シーンを盛りあげる効果音や音楽が流れる。当時の人々には衝撃的だった。無声映画よりも臨場感たっぷりに楽しめると、輸入された欧米のトーキー映画が大ヒットを連発。日本の映画産業もトーキーへの移行を迫られていた。
しかし、蒲田でトーキー映画を撮影するのは難しい。当時、音声の録音は撮影と同時におこなわれていた。防音設備が皆無だったスタジオでは、近隣の工場からの騒音が響いてきて録音ができない。トーキー映画を製作するために、撮影所は静かな場所に移転することになる。
蒲田から虹と光が消える。撮影所を郊外へと追いやった工場も、太平洋戦争末期の空襲ですべて燃え尽きてしまった。戦後は大規模な闇市ができて街は復興し、沿線でも有数の商店街が発展するのだが。さて、かつての栄光の時代を知る人々には、戦後の街の姿がどう映ったか?
さかさ川通りを呑川の方角に向かって歩く。撮影所が開所した頃には、逆川の護岸もコンクリートで固められ、川沿いには家々が密集していたようだ。付近には撮影所で働くスタッフや俳優たちも多く住んでいたという。
安アパートの窓からドブ川を眺めながら、明日のスターを夢見て暮らす大部屋俳優。なんだか、映画で平田満が演じた「ヤス」の姿が浮かんできたりもする。
さかさ川通りを過ぎると呑川の流れが見えてくる。川に架かる橋を渡り、多摩堤通りを右へ。京急本線の高架を越えてすぐ左手にある道に入る。すると、
「キネマ通り商店街」
そう書かれたアーチ看板が見えてくる。
地図を見て気になっていた場所だった。「キネマ」というからには、撮影所と何か関係がある場所ではないかと思い、行って調べてみることにしたのだが。
しかし、人通りが少ない。それでも2〜3人、地元に長く住んで事情に詳しそうな老人をみつけて、
「この商店街はなぜ“キネマ”って名なのでしょうか?」
と、聞いてみる。
「ああ、昔は蒲田に映画の撮影所がありましたからねぇ」
返ってくる返答はみんなこれ。
それも縁といえなくもないのだが……とっても薄い縁ではある。当時の撮影所の関係者が飲食や買物に利用するのは、撮影所に近い駅付近だったろうし。ここまでは来なかっただろうな。たぶん。
蒲田が“東洋のハリウッド”と呼ばれた栄華の時代の名残は、薄い縁から命名された商店街の名称だけ。この他には、街のどこを見まわしても何も見つからなかった。
そしてこの微かな名残もまた、そのうち朽ち果て消えそうな感じがする。
シャッターを閉ざした店が多く、通りは閑散としている。マンションや住宅に建て替わった物件も多く見かけられる。最盛期の頃と比べて、店の数はかなり減っているのだろう。現存する店々の建物をじっくり見てまわる。古ぼけたモルタルの壁、建て付けの悪そうな木製の引き戸……撮影所との縁は希薄だが、昭和の残香は濃厚に感じることができた。
昔懐かしく、また、少し寂しくもの悲しい眺めだ。『蒲田行進曲』を口ずさんでみる。
「この風景にはよく馴染む曲だなぁ」
と、実感する。喧騒の駅のホームで聴くよりもよっぽど、ここのほうがしっくりとくる。
取材・文=青山 誠