『伊勢佐木町ブルース』(1968年)・『桜木町』(2004年)

色っぽい吐息の似合う景色ではないのだが……

伊勢佐木町は戦前から横浜随一の繁華街だが、浅草や銀座と比べると知名度は低かった。それがこの曲のヒットで全国的に知られるようになり、4年後に開業された横浜市営地下鉄の駅名も「長者町駅」から「伊勢佐木長者町駅」に変更された。

碑の下にあるボタンを押すと、色っぽい吐息が聴こえてくる……。
碑の下にあるボタンを押すと、色っぽい吐息が聴こえてくる……。

商店街のメインストリートにはピアノの形をした歌碑がある。2001年に設置されたもので、ボタンを押すと『伊勢佐木町ブルース』が1分間流れる仕掛け。青江三奈のハスキーで色っぽい吐息が聞こえてくる。発売当時はこの吐息が「子供の教育に悪い」などと物議を醸したという。が、いまは白昼堂々と吐息が流れても、それに目くじらを立てる者はいない。なにしろ市民の大多数が支持する横浜のご当地ソングなのだから。

しかし、家族連れの買い物でにぎわう街に、色っぽい吐息は違和感がある。曲が発売された1968年頃、界隈の路地裏にはバーやスナックも多かったと聞くが、1978年に商店街は石畳の歩行者天国となり、いまはイセザキ・モールと呼ばれている。哀しい雰囲気のブルースよりも、明るく前向きな曲のほうが似合いそうだ。

伊勢佐木町のメインストリートは現在、家族連れでにぎわう歩行者天国になっている。
伊勢佐木町のメインストリートは現在、家族連れでにぎわう歩行者天国になっている。

JR関内駅方面からイセザキ・モールに入ってすぐの『カトレヤプラザ伊勢佐木』は、2008年まで横浜松坂屋デパートが店舗を構えていた場所。ここでは「ゆず」がインディーズ時代から路上ライブをつづけていた場所でもある。歩行者天国は路上で歌う者たちにとって格好の舞台となる。

そういえば、ゆずにも横浜を歌った『桜木町』という曲がある。MVに10代の頃の石原さとみが出演していることでも知られる曲だ。

「イセザキ・モール」前にあった説明書き。松坂屋はかつて、伊勢佐木町のランドマーク的存在だった。
「イセザキ・モール」前にあった説明書き。松坂屋はかつて、伊勢佐木町のランドマーク的存在だった。
「イセザキ・モール」隣にある文明堂茶館も、ゆずの2人がよく訪れた聖地なのだとか。
「イセザキ・モール」隣にある文明堂茶館も、ゆずの2人がよく訪れた聖地なのだとか。

ゆずのふたりが学生時代、路上ライブ前の待ち合わせに利用したのが東急東横線・桜木町駅だという。渋谷のハチ公と同じで、昔から定番の待ち合わせスポット。横浜市民にはなじみ深い場所だったが、みなとみらい線の開業に伴って2004年に東急線の駅は廃止され、駅前の様相は変貌している。

近年で激変した桜木町駅前から「みなとみらい」を望む。
近年で激変した桜木町駅前から「みなとみらい」を望む。

『別れのブルース』(1937年)

昔の横浜はブルースが似合う街だった

桜木町駅付近から海の方角を眺めると『桜木町』の歌詞に登場する観覧車が見える。観覧車が完成したのは、元号が昭和から平成に変わる1989年のことだった。90年代になると日本一の高さ(当時)を誇る70階建ての横浜ランドマーク・タワーが開業し、その後も次々と高層ビルが建てられ、こちらの眺めも激変している。

『桜木町』の歌詞にでてくる観覧車も、現在は高層建築が増えて見えづらくなったか?
『桜木町』の歌詞にでてくる観覧車も、現在は高層建築が増えて見えづらくなったか?

高層ビル群に遮蔽されて、いまは潮風もここまでは届かない。昭和の時代には濃厚に感じられた「港町」「海」といったイメージは、かなり薄まっているような……。

桜木町から山下公園に移動する。幸い、このあたりは昭和時代から変わらぬ景観が保たれ、海を間近に感じられる。岸壁には戦前に「太平洋航路の女王」と呼ばれた氷川丸が係留保存され、沖合には多くの船が停泊している。日本人が思い描く「港町」の眺め。横浜が歌の舞台になってきたのは、このイメージによるところが大きかったと思う。

山下公園。ここの眺めは昔から変わらない……と、思うのだが。
山下公園。ここの眺めは昔から変わらない……と、思うのだが。

1937年に発表された『別れのブルース』もまた、港町・横浜を強くイメージさせる曲。横浜を歌った最初のご当地ソング、哀愁あふれる“和製ブルース”を世に広めた曲だった。

作曲者の服部良一は港町・横浜にインスパイアされてこの曲を着想したという。当時、横浜の街には外国人船員相手の酒場や売春宿が多くあった。エキゾチックな魅力が漂う場所、いまとは違って怪しく退廃的な雰囲気も濃厚なブルースが似合う土地柄でもある。彼は海岸通りにあった「バンドホテル」に逗留して横浜の街を歩きまわり、日本人に向けたブルースの旋律を思案した。

山下公園から港の見える丘の方角に向かって歩く。中村川を渡った丘の麓に、かつて「バンドホテル」はあった。残念ながら80年代の後半に廃業し、現在はドンキ・ホーテの店舗になっている。

幾多の名曲が生まれた「バンドホテル」は、かつてこの場所にあった。
幾多の名曲が生まれた「バンドホテル」は、かつてこの場所にあった。

「バンドホテル」は関東大震災後の1929年に開業し、最上階のナイトクラブは在留外国人やイケてるモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガールの略)の社交場としてにぎわったという。一説には60年代にヒットした『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、ここのナイトクラブの青色のネオンサインのことだったともいわれる。

ちなみに「バンド」とは「bund=埠頭」の意味。戦前の上海租界でも黄浦江の船着き場を欧米人は「The bund」と呼んだ。維新後に外国人居留地が築かれた海岸通りのこの一帯もまた、在留外国人たちからそう呼ばれていたという。

「バンドホテル」があった場所からの眺め。当時は客室の窓から港が見えたのだろう。
「バンドホテル」があった場所からの眺め。当時は客室の窓から港が見えたのだろう。

ホテルのあった場所から道を挟んで中村川の河口がある。昔は沖合に停泊する貨物船との間を、荷役の艀(はしけ)が頻繁に行き来してにぎわっていた。頭上に覆いかぶさる首都高速の高架もなかった頃、客室の窓を開ければ港が見え、横浜の海が一望できた。また、夜ともなれば波止場の灯火も眺められただろう。『別れのブルース』の歌詞にあるそのままの眺め。やはり「海」は、歌謡曲の舞台に絶好の場所だ。

『海を見ていた午後』(1974年)

いまはマンションの影で見えないけど……

戦後世代にはブルースよりもニューミュージック。松任谷由実がまだ荒井由実だった頃に歌った『海を見ていた午後』のほうが、横浜のイメージなのかもしれない。歌のなかに出てくる『山手のドルフィン』は聖地となり、いまも多くのファンが訪れる。

しかし、その場所は「山手」ではない。徒歩ならば、山手駅より隣の根岸駅のほうがずっと近い。そして、ひと駅違うだけで同じ横浜でも雰囲気はかなり違ってくる。

海の印象も違ってくる。山手あたりからは横浜の港を眺められそうだが、根岸はそこからひと山越えた根岸湾。地図を見れば湾岸には石油精製施設のタンクが並び、港町というよりは工業地帯といった感じだ。

まあ、とにかく『ドルフィン』の客席から海を眺めてみよう。と、根岸駅の改札を降りる。駅前のロータリーからは、住宅地になっている丘陵が見える。店はその丘の上にあるという。丘陵につづく坂道はかなり急峻でキツイ、聖地巡礼に苦難はつきものか。

急坂を登り切ったあたりに『ドルフィン』はあった。
急坂を登り切ったあたりに『ドルフィン』はあった。

坂上の急カーブを曲がると「Dolphin」の看板が見えてきた。80年代頃までは木造平屋の小さな店だったという。現在の建物はコンクリート造りで、海の方角は一面ガラス張りになっている。2階席もある。当時よりも景色も良く見えるはずだ。

ユーミンが通っていた当時は木造平屋建ての小さな喫茶店だったという。
ユーミンが通っていた当時は木造平屋建ての小さな喫茶店だったという。

しかし、目の前にはマンションがあり、遠くに目をやれば高速道路の高架橋と石油タンク群。その間からちらりと垣間見る海は遠く、印象はかなり薄い。マンションや高速道路のなかった頃は、もう少し海が感じられる眺めだったのかもしれない。

残念ながら、現在はソーダ水の中に貨物船は見えなかったが……。
残念ながら、現在はソーダ水の中に貨物船は見えなかったが……。
『ドルフィン』の付近からの眺め。かろうじて海が見える。
『ドルフィン』の付近からの眺め。かろうじて海が見える。

さて、とあるWebのコラム記事によれば、ユーミンは横浜の外国人収容所に収監されていた彼氏と面会するためにこの地を訪れるようになり、『ドルフィン』にも通うようになったという。

しかし、この近くにある「根岸競馬場」(横浜競馬場)が外国人収容施設として利用されたことはあるけど、それは戦時中の一時期。競馬場跡の付近にはいまは米軍基地がある。おそらく軍関係者の収監施設もあるのだろうけど。まあ、その話が真実かどうかはわからない。

根岸の米軍海軍基地。現在は将兵の住宅施設になっている。
根岸の米軍海軍基地。現在は将兵の住宅施設になっている。

『ドルフィン』の窓辺の席に座りながら、そんなことを考えていた。高架道路と石油タンクの先、彼方にはうっすらと三浦半島の稜線が見える。これは歌詞にもある昔と変わらぬ眺めだ。いまはマンションの影に隠れて見えないけど、昔は根岸湾の対岸が見られたはず……と、ここでひとつ気がつく。

Googleの地図を開いてみると、根岸湾の対岸の突端には東京出入国在留管理局横浜支局がある。そこにはオーバーステイの外国人の収容施設もあるはず。マンションがなかった当時には、『ドルフィン』の窓辺の席からその建物が見えていたのかもしれない。

だとすれば、ユーミンは海を見ていたわけではなかった、ということになる。幾多の歌のモチーフになってきた横浜の海だが、海を眺めて生まれた曲にも様々な背景があるのだろうな。たぶん。

取材・文=青山 誠
※ヨコハマ経済新聞VOTE:投票期間2008年4月13日~2023年1月31日時点