私は3人きょうだいだ。私が子供の頃、母は3児の子育てをしながら車椅子の祖父(母の実父)の介護をしていた。祖母も同居していたとはいえ、なぜそんな偉業を成し遂げられたのだろう。完璧主義の母は育児も介護も完璧にこなしたが、そのストレスからか情緒不安定なところがあり、優しいときとピリピリしているときの差が極端だった。私はいつも、ビクビクと母の機嫌を窺っていた。
幼稚園の頃、空き地を隔てるブロックの上を平均台のように行ったり来たりしながら、「ママは私のことが嫌いなのかな」と一人で悩んだ記憶がある。子どもにとって親はライフラインだ。私は、母に嫌われるのが怖かった。
その後、私が18歳の頃に祖父が亡くなった。その頃から母のメンタルが安定していったので、やっぱり母は介護うつ気味だったのだと思う。
母は落ち着いたが、その頃には私のメンタルが不安定になっていた。母は心配から過干渉になり、私は内心うっとうしかったが強く反抗できない。「私が母にしてほしいこと」と「母が私にしてあげたいこと」はいつも少しズレていて、そのズレがもどかしかった。
私は心の中でずっと、自分の不安定さを母のせいにしてきた。その思いを表面化させたほうがいい気がして、20代の半ば、意識的に「遅れてきた反抗期」をやってみたこともある。
そんなこんなで母との関係は歪にこんがらがっていたが、30歳手前で結婚して実家にあまり帰らなくなってからは、いい感じに落ち着いた。私と母は、物理的に距離があるほうがうまくいくようだった。
今年のお盆、私は久しぶりに札幌の実家に帰った。夫抜きでの一人帰省。そこそこ〆切を抱えていたので、ワーケーションといったところだ。
私が帰ると、すでに大阪に住む姉と姉の子たちがいた。姉の子たちは高1、中2、小5。走り回るわけじゃないが、やっぱり人数が多いとそれなりに賑やかだ。
そのうち埼玉に住む兄も帰ってきた。兄は帰省というより、北海道に用事があり、タイミングが合ったから実家に寄ったのだ。
兄と姉と私が揃うのは祖母の葬儀以来で、11年ぶりのことだ。久しぶりだが気まずさはなく、みんなで夕飯を囲んで和気あいあいと過ごす。子どもたちが食べ終わってからは、両親と3きょうだいでお酒を飲んだ。
ある程度お酒が入ったところで、父が「俺とお母さんがいなくなったあとのことなんだが……」とお墓や家についての希望を話し始めた。
おぉ、と思う。私ももう、そんな話をされる年齢なのか。
砂時計の砂は年々少なくなる一方だとわかってはいても、私はまだ残りの砂を直視できない。いつまでも永遠に、「それ」があるような気がしてしまう。
帰省2日目の朝、朝食を食べていると母が小5の姪に向かって言った。
「ばぁばね、Mちゃん(姪)と一緒にやりたいことがあるの。こんな季節だけど、一緒にお雛様を飾ってくれない?」
我が家の雛人形は七段飾りの大きなもので、飾るのにはけっこうな手間がかかる。雛人形を飾るのは母の役目で、姉が生まれてからの40と数年間、母は一年も欠かさずに雛人形を飾りつづけてきた。私も実家にいたときは、よく飾るのを手伝ったものだ。
「雛段を組み立てるのも大変だし、私ももう歳だから、あと何年お雛様を飾れるかわからないでしょう。飾れなくなったらお焚き上げに出そうと思うの。その前に、どうしてもMちゃんに見せたくて」
大阪に住む姪が、2月や3月にこの家を訪れるのはむずかしい。そこで母は、真夏に雛人形を飾ろうと思いついたそうだ。
姪はやや面食らっていたが、「うん、いいよ」と答えた。あまり乗り気そうじゃないが、空気を読んで母に合わせたのかもしれない。
母は物置から大きな段ボールをいくつか出してきた。そして、テキパキと雛段の骨組みを組み立てていく。いくつかの細長い部品をビスで留めていくのだが、この作業は家族の中で母しかできない。何度見ても覚えられない手順を眺めながら、「あぁ、そうだった、そうだった」と思う。
姪は箱からお人形を出して、説明書の写真を見ながら鳴り物や刀などのお道具を持たせていく(母の几帳面さゆえ、40年以上前に買ったお雛様の説明書がきちんと残っている)。
姪は次々と出てくるお人形を見て、「めっちゃ人多くね?」と尻上がりのイントネーションで言った。たしかに、姪の雛人形はお雛様とお内裏様だけだ。彼女は三人官女と五人囃子までは存在を知っていたが、右大臣・左大臣と三人の仕丁(してい)は初めて見たらしい。
雛段の上がだんだんと賑やかになっていくのを眺めながら、「私もこうしてお母さんと雛人形を飾ったなぁ」と懐かしく思う。
やがて七段飾りは完成し、母は汗をぬぐいながら「お人形たちもこんな時期に飾られて驚いてるわね」と笑った。
そのあと地元の友達と会ってこの話をしたら、「サキぽんのママっぽいね!」と言われた。
そうかもしれない。孫娘に見せたくて真夏にお雛様を飾ることも、子育てと介護で忙しかったときもお雛様を毎年飾ってくれたことも、とても母っぽい。
そういう人だから、私は母を尊敬しているのだろう。
帰省3日日と4日目は仕事をして過ごした。リビングで執筆していたのだが、家族がいるとなかなか集中できない。心底「一人になりたい」と思った。
4日目の夜に用事を終えた兄が再び合流し、みんなで手巻き寿司を食べた。そして5日目の朝、兄と姉たちはそれぞれの家へと帰っていった。人数が激減し、家の中がいきなり静かになる。
こうしてみんながこの家に集まるのも、あと数えるほどしかないだろう。もしかしたら、勢ぞろいするのは今年が最初で最後だったかもしれない。
そう思うと、たまらなく寂しくなった。昨日まで「一人になりたい」なんて思っていたくせに。
世の中の人はみんな、いずれは実家がなくなるという現実にどうやって折り合いをつけているのだろう。時間が経つにつれて少しずつ、心の準備が整うものなのだろうか。
ふと思う。
母に「コロッケ作って」と言ってみようか。
明日には私も東京に帰る。今回の帰省で母のご飯を食べられるのは、今夜が最後だ。考えたくないけど、母のコロッケを食べられるチャンスはもう数えるほどしかないかもしれない。
けれど、「もう献立決めて買い物しちゃってるだろうな」「コロッケって手間かかるし、昨日まで大人数のご飯作ってたからお母さん疲れてるよなぁ」と思うと、やっぱり言えなかった。単純に、言うのが照れくさかったのもある。
その日の夕飯はしゃぶしゃぶだった。
「サキちゃんの最後の晩はしゃぶしゃぶにしようと思って、前から生協さんでお肉頼んでたの」
母は笑顔で言い、私も笑顔で「ありがとう」と言う。
やっぱり、「私が母にしてほしいこと」と「母が私にしてあげたいこと」はいつも少しズレている。だけど今は、そのズレさえも大切にしたい。
帰省6日目の朝。今日は東京に帰る日で、JRの駅まで父が車で送ってくれることになった。
私が車に乗ろうとすると、見送りに出てきた母が言った。
「疲れたらいつでも実家に帰ってきて休みなさい。お父さんも私も、まだまだ元気でいるから。ここは、あなたの帰る場所だから」
私は頷いて、後部座席に乗り込んだ。ありがたさと寂しさとで、大人じゃなければ泣いていたと思う。
今度実家に帰ったら、母にコロッケをリクエストしてみよう。少しだけ、勇気を出して。
文=吉玉サキ(@saki_yoshidama)