『SAKURA』(2006年)
桜の園はどこに
『SAKURA』は2006年3月に発売されたいきものがかりのデビュー・シングル。歌詞を手がけた水野良樹は1982年に海老名市で生まれ、この橋を渡り隣の厚木市にある高校に通っていたという。
90年代末から2000年代初頭にかけてのJ-POPは、桜をモチーフにした唄がブームを巻き起こしていた。“桜ソング”というカテゴリーもこの頃にできあがる。
彼の高校時代はちょうど桜ソングのブーム最盛期。当時から近隣の駅前で路上ライブしていたというから、日々の通学途中に眺める風景を歌詞に書いていたのかもしれない。
しかし、実際に相模橋の袂(たもと)に立って眼下を眺めても、桜の木が見あたらない。川辺に降りてさらに探してみると、あるにはある。海老名市側の相模大橋と小田急線の鉄橋との間に数本の桜の木が見つかった。けど、それも卒業ソングでイメージする桜の園とは違う。開花の季節を想像してみるが、貧弱な眺めしか思い浮かばない。
まあ、木が多ければ良いというものでもないのだが。自転車漕いで通り過ぎる橋、眼下にちら見した1本の桜の残像が深く印象に残ったりもする。
2007年と2011年には、台風の影響で相模川流域に洪水被害が発生している。『SAKURA』がリリースされて以降、この他にも川畔が水没することは幾度かあった。折れて朽ち果てた雑木をあちこちに見かける。歌詞が書かれた頃には、もっと多くの桜の木があったのか? そんな可能性もある。
歌のモチーフとなったのは、なにげない川畔の風景。どこにでもあるありふれた眺めだけに、その変化には誰も気がつかない。
路上ライブもいまは盛りを過ぎたのか?
本厚木駅は北口に広々としたスペースがある。いきものがかりは1999年11月に結成され、この駅前でよく路上ライブをやっていたという。
10年ほど前に彼らがテレビのトーク番組に出演した時にも、駅前に軽トラを乗りつけて商売するタコ焼き屋のオヤジに「邪魔だからどけ!」と怒鳴りつけられとか、当時の苦労話を語っていた。
横浜界隈の路上ライブ活動で鍛えられたゆずが、メジャーデビューを果たしたのは前年の1998年。この年の8月におこなわれた最後の路上ライブには、台風の大雨にもかかわらず約8万もの人々が集まる“伝説”をつくりあげている。
それもあって、路上で活動する者たちが急激に増えた頃。当時は全国各地の駅前や広場で路上ミュージシャンを見かけた。ゆずの活動拠点だった横浜が近いだけに、同じ神奈川県の小田急線はさらに盛りあがっていたことだろう。
しかし、いまはどうだろうか。20年前なら本厚木駅くらいの人流がある駅前だと、毎日のように路上ミュージシャンが演奏していたはず。だが、この日はどこにもそれを見ない。
時間帯が少し早かったせいもあるのだろうか? また、昔と比べると路上ライブ活動に対する規制は増えている。いまはYouTubeなどSNSを使って自作の歌を配信することもできる。そんなこんなで、当時よりは路上ライブを見かける頻度は減っている感じがする。
本厚木駅周辺は、近隣のインディーズのミュージシャンが集まる場所だったという。北口駅前から徒歩で少し行った場所には、90年代初頭に音楽スタジオやライブハウスが集まる「厚木FUZZY」がオープン。ここを拠点にしながら、本厚木や海老名など近隣の駅前で路上ライブ活動をするバンドも多かったとか。
その“聖地”もいまはない。10年以上も前に営業を終えて、跡地は大きなマンションになっている。また、2023年には本厚木駅北口の再開発事業が始まる。駅前の風景もさらに、路上ライブ最盛期の頃とは違ったものに変わっていきそうだ。
昔の私鉄沿線には“地元感”があふれていた
小田急線に乗って新宿までの帰路。海老名駅のホームには『SAKURA』の発着メロディーが流れる。そういえば本厚木駅で流れていたのは、これも卒業ソングとしてお馴染みの『YELL』だった。
海老名駅もいきものがかりが路上ライブをよくやった場所。彼らは相模大野駅あたりまでを活動拠点にしていたという。前出のトーク番組では、
「町田に出るには勇気が必要だった」
と、そんなことを語っていたような。町田駅の手前を流れる境川は、神奈川県と東京都の県境。当時は高校生だった彼らからすると「地元を離れた」といった不安感があったのかも。本厚木や海老名と比べると駅は大きく、駅前の人流も多い。
そこには、どんな輩がいるのか分からない。守ってくれる者がいない路上で唄うことにはリスクがある。自分の経験値に見合った場所でないと……。
“地元”という安心感が、経験値の低い者たちには拠りどころになる。本厚木駅と町田駅では、地方のホールと武道館くらいの違いがあったのかもしれない。たぶん。
そういえば、都心から郊外へ向かう私鉄沿線には、そんな地元感が濃厚な駅が多い。
JRの駅に比べると小さく、駅周辺の商店街もこぢんまりまとまっている。寝間着のスウェットとサンダル履いて駅前をブラつけそうな。気安い感じ。そんな私鉄沿線の雰囲気を表現した歌がある。
そのタイトルも『私鉄沿線』、1975年1月にリリースされた曲だ。郷ひろみや西城秀樹とともに、当時は“新御三家”と呼ばれた野口五郎が唄って、販売累計100万枚を越えるミリオンセラーにもなった。この歌のモデルになったといわれる駅も、同じ小田急線の沿線にあるという。帰路に立ち寄ってみることにした。
『私鉄沿線』(1975年)
駅は街と切り離されてゆく……
千歳船橋駅で降りる。
ここが『私鉄沿線』のモチーフになった駅だと、昔はそんな話をよく聞いた。いまでもSNSとかでそういった書き込みを見る。が、根拠はなにもない。
作詞者の山上路夫も、特定の路線や駅を想定したものではないと否定している。あくまで、都心から郊外へと向かう私鉄の沿線をイメージしたものだ、と。
山上といえば『学生街の喫茶店』もまた代表作のひとつだが。歌詞にでてくる喫茶店、こちらも、モデルの店はない。あの時代を知る学生たちなら誰もが見てきた、日常のなにげない風景をイメージしたものだという。誰も見てきた日常だから「あそこではないか?」と想像力をかきたてられる。
千歳船橋駅の改札口からは、走る車や歩道を歩く人が見える。大きな駅だとこうはいかない。駅舎と街は切り離され、改札口から街が見える構造になっていない。ここには『私鉄沿線』の歌詞に描かれた風景と似た感じが、微かに残っている。
そして当時はもっと、それがあったはず。いまよりもずっと駅と街は密接していた。90年代末の小田急線の高架化事業で駅舎は改装されている。
以前の駅の写真を見ると、現在とは違って改札口は駅前商店街の真正面にあった。駅舎と街を隔てる道路もなく、改札口がそのまま商店街に直結しているような感じ。また、高架化される以前は、改札口付近から見渡せる場所にホームがあった。列車のドアが開けば、降りてくる人々の顔も見えただろう。写真からは歌詞に描かれた状況がリアルに想像できる。
『私鉄沿線』の歌詞には、彼女に向けたメッセージを伝言板に書くというシーンがある。昔はどこの駅にも伝言板があった。この駅にもあったのだろう。
まだ携帯電話のない時代、駅に置かれた伝言板は待ち合わせの場所や時間などを伝え、人と人をつなぐ重要な連絡手段だった。昔は、
「◯◯へ。30分待ったけど、来ないから家に帰る」
「◯◯さん。電話ください」
なんて書かれた伝言をよく目にしたものだ。しかし、小さな黒板に書き込める情報はたかが知れている。それだけに、人流の多いターミナル駅では機能しない。知人と伝言板でやりとりするのは、ローカルな私鉄沿線ならではの光景だったろう。
千歳船橋駅を出て、駅前の小さな商店街を歩いてみると、そこには花屋があった。歌詞にも花屋がでてくる。店先に置かれた花の向こうには駅舎が見える。高架化される前には、改札口や走る列車が見えたはずだ。
確かに、ここが『私鉄沿線』のモデルになった駅だと言われるのも頷けるような眺め。昔はもっとこんな雰囲気をもつ駅は多かったと思う。
小田急線沿線は90年代頃から高架化複々線事業が進められ、次々に新しい駅舎が建っている。駅は街と分離される。サンダル履きで気軽に行けそうな、こぢんまりした私鉄沿線の駅というのも、いまの首都圏では希少なのかもしれない。
経験不足の路上ライブや恋人たちの待ちあわせにも、不都合は多くなってくる……。
取材・文・撮影=青山 誠