なぜこんな場所にこんな一角が?

ところが、営業していたのはもう床屋さんと中華屋さんだけ。ひなび、というより寂しさが忍び寄ってきます。気を取り直し、知り合いと一緒にその中華屋の赤ノレンをくぐります。中は地元のおっちゃんたちが一杯やる酒場となっていました。どちらかというとクールなママさんが一人で切り盛りしていましたが、これが申し訳なくなるほどの安さ。ウーロンハイと手作りの小皿料理が三つついて、千円くらいだったと記憶しています。

それにしてもなぜこんな場所にこんな一角が?といつものように疑問が頭に浮かびましたが、ママさんにはケムに巻かれ、連れていってくれた人も知りませんでした。後日出直し、またこの店で一杯やりながら話を聞くことにしました。ふたたびウーロンハイをすすりながらおもむろに話を切り出すと、「私はそういうの知らないし、取材とかはいやなの」とママさん。ハッキリと拒否。こういうことは時々ありますが、当然ながらその気持ちを尊重します。私は飲み食いしながら、「いきなり来て、いろいろ教えろってほうが変だよなあ」なんて時々浮かべてしまう浮かぬ表情になってしまいました。この顔を見かねたのか、常連客が助け舟を出してくれました。

「兄ちゃん、昔はな、風呂屋が路地のドン突きにあって、工員たちが仕事終わりにひとっ風呂浴びて、そのあとここらで何か買ったり飲み食いしたりしたんだよ」

作業着姿の年配男性は言います。

「そうそう、バフ屋(研磨工)とか、けとばし(フットプレス)の男たちが沢山いたんだよなあ」

と、昭和40年代頃行き交った人々を教えてくれる常連もいました。そうするうちに、

「オレがこの辺のことを知ってる人を知ってる。ちょっと待ってて」

一人の親父さんが店を飛び出し、自転車でサーっとどこかへ。20分ほどして戻ってくるなり、「OKだって。行こう」と私に言います。彼はこの一角の成り立ちを知る古老宅へ談判に行ってくれたのでした(!)。自転車を押す常連客と少々アッケにとられている私は並んで歩き、古老の元へ向かいます。私はすでに酔って赤い顔でした。常連から紹介されて初めて見るこの顔は真っ赤。それでも笑顔で座敷に迎え入れてくれた古老。さまざまな資料を見せてくれたり、さらに詳しい人の家に一緒に行ってくれたりと、恐縮すぎて二センチくらい私の背が縮むんじゃないのかというほどの親切をしてくださいました。

眺めるだけではわからない、街の記憶

風呂屋があったという路地の突き当りには、敷石だけが残っている。
風呂屋があったという路地の突き当りには、敷石だけが残っている。

結局そこは、終戦後、宝くじで高額当選した人がその資金で温泉を掘り、宝湯なる銭湯を開き、銭湯客を当て込んだマーケットをこしらえた、ということが分かりました。味のある「伝説」ですが、まあ今回は、その経緯の話はメインじゃありません。

私が訪れた少しあと、ママの中華屋さんも廃業し、その後、廃墟同然となったそうです。時代の趨勢です。温泉はもとより、古老の昔話に出てきたコッペパン屋も、総菜屋も、そこがあったことも、ほとんど記録には残らないでしょう。そもそも教科書の年表に記載されるような出来事は何も起きていない単なる住宅地。

それでも確かにあそこに暮らしがあった、と私はどこかに書き留めたかった。いえ、たとえ書く機会がない場合でも、私の脳裏に刻み、「忘れていないよ」と思いたかったのです。完全な自己満足ですね。

街はどんどん変わっていきます。特に戦後や昭和のものは歴史的価値が認められないことが多く、保存されることは少ないものです。歩き見るだけでは、街並みから何も読み取れないケースが増えてきました。

それでも、街の記憶を持ったまま静かに街に暮らしている人々はまだまだたくさんいます。歩くだけでなく、ときには話を聞き歩くことも、また楽しい街歩きではないでしょうか。

自転車の常連は古老宅に私を引き渡したあと、「色々分かるといいね。じゃあ、これで」と言い残し、自転車にまたがり、風のように消え、以後ふたたびお会いすることはありませんでした。名乗りもせず、こちらも聞かず、我々の間にはすがすがしい風が吹いただけでした。ご常連さん、お顔は忘れていません。もし出会うことがあったら、必ず、一杯おごらせてくださいよ。

文・写真=フリート横田