民話の研究に情熱を注ぐ「マスター」
義弟は、実は私より年上である。そして、私にとっては親族というより友人だ。
というのも、私と夫と義弟は同じ山小屋で働いていた時期があり、共通の友達が多い。山小屋メンバーの飲み会で義弟に会うこともある。
義弟はみんなから「マスター」と呼ばれている。由来は、山小屋でランチメニューに付くドリンクを淹れる係だったから。スタッフの誰かがふざけて「マスター、いつもの」と喫茶店の常連客ごっこを始め、それがあだ名となって定着した(あだ名の由来って説明するとたいていしょうもない)。
さて、マスターは山小屋で麓(ふもと)の町に伝わる民話と出合い、それがきっかけで民話の世界にのめり込んだ。はじめはその地方の民話を調べていたが(その地方だけでもたくさんある)、だんだんと範囲を広げ、今では日本各地に足を運んでいる。
「どうやって取材するの?」と尋ねたら、「地元の図書館や郷土資料館で資料を見たり、役所や町の人に話を聞いたり」とのこと。今尾さんみたいじゃん(もちろんプロの今尾さんと比べたら取材の場数もスキルも及ばないだろうけれど)。
マスターは民話の舞台となった場所の写真を撮影し、調べたことをまとめて本を作ったりもしている。もともとDTPオペレーターだったのでかなり本格的な作りの本だが、非売品だ。自費出版や同人誌として販売することは考えていなくて、あくまで資料として残したいらしい。
そういえば昔、民話研究中のマスターに遭遇したことがある。
興味本位で夫と国会図書館に行ってみたら、館内に入ってすぐ、見覚えのある男性が目の前を横切った。分厚い本を大量に抱えている。
「マスター!」
まさか、こんなところで身内に遭遇するとは。
声をかけたらマスターも驚いていたが、「ごめん、もうすぐ複写の受付が終わる時間だから」と慌てて去っていった。どうやら、国会図書館の資料は複写(コピー)が受付制らしい。
大量の本をぐらぐらさせながら早歩きで去っていくうしろ姿を見て、夫と
「2時間サスペンスに出てくる過去の事件について調べるジャーナリストみたい」
「あぁ、普段はおっちょこちょいだけど最終的に名推理を見せるキャラね」
とマスターの架空の設定を妄想した。
河童と新宿の老舗カレー屋の意外な接点
マスターから聞いた中で好きな民話がある。長野県安曇野市の万水川(よろずいがわ)近辺に伝わる民話だ。
書物によって細かい部分は異なるが、おおよそこんな話。
相馬安兵衛という人物が馬を連れて万水川のほとりに行くと、馬のしっぽに河童がしがみついた。いたずらで馬を川に引き込もうとしたのだ。
安兵衛は怒り、河童を縛り上げる。河童は謝り、「どうか助けてください。助けてくれたらお詫びに按摩(あんま)を教えます」と言う。
安兵衛は河童を逃がしてあげ、後日、親戚の喜右衛門(喜左衛門という説も)と一緒に万水川のほとりへ行く。安兵衛と喜右衛門は約束どおり河童から按摩を習い、名医となって多くの人を救いましたとさ。
……と、ここまではよくある民話だ。しかし、マスターはこう続けた。
「ちなみに、相馬安兵衛の子孫は『新宿中村屋』の創業者」
えぇ!
『新宿中村屋』といえば老舗のカレー屋さんじゃないか。自社ビルを持っていて、レトルトやお菓子も販売している大企業だ。
「『中村屋』の創業者が相馬愛蔵で、その父が安兵衛。もちろん河童から按摩を習ったのとは別の人物だけど、代々名前を継いでるんだね」
「安兵衛が河童に出会ったことと、子孫がカレー屋で成功したことは関係あるの?」
「ないんじゃない」
ないのか。
民話なんて大昔のことだし河童とか出てくるし、まったく身近に感じられなかったけれど、『新宿中村屋』が出てきたことでグッと身近に感じた。
「でもさ、なんで河童はその場で按摩を教えなかったんだろうね?」と私。
「さぁ」
「っていうか、安兵衛との約束すっぽかしてもよかったのにちゃんと来るのえらいね。真面目か」
「河童は安兵衛に仕返しするつもりだったけど、安兵衛が喜右衛門を連れてきたから『あ、勝ち目ないわ』と悟っておとなしく教えたのかもね」
「なるほどねー。安兵衛もさ、河童の報復を見越して喜右衛門を連れて行ったのかな?」
「もしかしたらそうかもね」
実は、先にも書いたとおりこの民話はいろんなバージョンがある。マスターが話したのは安兵衛と河童が後日ふたたび会うバージョンだが、安兵衛が河童の腕を引き抜いて(!)河童が晩に「腕を返してください」と頼みにくるバージョンもあるらしい。
なんにせよ、河童の真意も安兵衛の真意も闇の中だ。想像したところで答え合わせはできない。
ただ、民話の登場人物についてやいのやいの言いながらお酒を飲める友人(義弟)がいるのは楽しい。ちょっとシブい趣味だけれど、民話、おすすめです。
文=吉玉サキ(@saki_yoshidama)