経営者が入れ替わるも継承された店名
神田駅北口から徒歩2分ほど。「美味しい 静岡おでん あります」の看板に誘われ、引き戸を開けると店内は奥に長い作りだった。左側と奥にテーブル席、右側は厨房で昔のカウンターで仕切られていた。入り口すぐのカウンターには静岡おでんの鍋が置いてあり、白い湯気を立てている。
ひとりで店を切り盛りする松永ひとみさん(通称ひとみママ)に「もともと立ち飲み屋だったんですか?」と聞くと、「そんな話も聞いたけど、経営者が何人も替わっているから正確なところは分からないのよ」と苦笑い。
何でも経営者は替わるも、家主の意向で店名はずっと「福ちゃん」だとか。歌舞伎や落語の名跡を継承するみたいでおもしろい。ひとみママが店に携わったのは2005年ごろのこと。家主の友人であった父親が店を始め、当初は手伝い程度だった。一時、店を離れて、2013年にカムバック。店の全てを任された。静岡おでんは父親の代に始めたそうだ。
静岡おでんの黒いだしは継ぎ足しの証
静岡おでんの特徴は真っ黒なだしだ。これは味付けに濃口醤油を使うことと、牛すじのだしを継ぎ足すことで黒みが増していく。
さぞ塩辛いだろうと思いきや、飲んでみると塩味はさほど強くなく、牛すじや練り物の旨味からか甘みさえ感じた。もっとも、本場の静岡ではだしを飲まず、おでん種だけを食べるのが一般的らしい。
おでん種では黒はんぺんに注目だ。これはイワシ、サバなど青魚のすり身にでんぷんと調味料を加え、半月状に成形して茹でたもの。皮や骨もすりつぶすため、灰色になり「黒はんぺん」の名前が付いた。かまぼこに似た食感で、噛むほどに旨味があふれてくる。
プルンとした脂身がおいしい牛すじや、輪切りではなく縦長にカットしたなると巻も静岡おでんに欠かせないおでん種だ。
そして、青のりとだし粉(イワシ節・サバ節などの粉)。おでん種を皿に盛り付けた後に、パラパラと振りかける。ふわりと立つ青のりの香りが鼻をくすぐり、口の中ではだし粉が味に奥行きを加えていく。「静岡から上京した方や、転勤で住んでいたビジネスマンが“懐かしい味”と喜んでくれます」とひとみママ。本場を知る人のお墨付きだ。
お互いさまの気遣いが醸す、心地よい空間
生ビールを飲み干し、ホッピーを注文してみた。氷入りの酎ハイグラスに中(焼酎)が並々と注がれ、外(ホッピー)がちっとも減らない。
隣席の常連が「ホッピー1本(360mℓ)で中4~5杯は飲めるから」と我が事のように自慢すると、「ケチと思われたら癪(しゃく)じゃない。お客さんと店との戦いだから負けたくないの」とひとみママが返し、店内は笑い声で包まれた。
こんな話もある。数年前、ひとみママが営業中に牛すじの下茹でをしたところ、煮汁が跳ねて火傷をした。居合わせた数人の常連はすぐさま分担して、ひとみママを病院に連れていき、店の留守を守ったそうだ。現在も多忙な時は、常連が率先して食器を片付けたり、料理や酒を運んだりして手伝ってくれる。
一方、ひとみママも常連の願いを可能な範囲で応える。なかには、旅先から釣果を店に送り、料理してもらうという猛者もいるそうだ。常連が店を支え、その思いにママが応える。持ちつ持たれつ。お互いさまの関係が心地よい店だった。
取材・文・撮影=内田 晃