その中で私が最も行ってみたい場所……それは大好きな漫画『ミスター味っ子』の「日之出食堂」である。言わずと知れた料理漫画の金字塔であり、昭和50年代生まれなら間違いなく知っている名作だ。亡き父が残した「日之出食堂」を支える味吉陽一と母のもとに、料理界の王“味皇(あじおう)”が訪れたことをきっかけに、さまざまな料理勝負を繰り広げるグルメ漫画。この舞台でもある「日之出食堂」が、渋くていいのだ。色褪せたモルタルの外観、中はコンクリートむき出しの床と使い古されたテーブルとイスが並ぶ。そこの料理人が中学生で、さらに料理も旨いとなれば、ぜひとも行ってみたくなるもの。

そして味っ子といえば、漫画とアニメが違い過ぎること。特に味皇はハチャメチャだ。料理を食べた後に「うー・まー・いー・ぞぉぉぉぉっ!!」と叫びながら口から光線を放ち、宇宙へ行ったと思えば、巨大化して大阪城を破壊するなど漫画とは全く違うキャラに仕上がっている。漫画には出てこないキャラも大勢いて、中でも“味将軍”なる味皇のライバルが登場し、最終的にその将軍と味皇が兄弟だったと知った時は、テレビに向かって「うー・そー・だー・ろぉぉぉぉっ!?」と叫んだものだ。

「信州の鎌倉」といわれる別所温泉

歴史ある街・上田の駅前。
歴史ある街・上田の駅前。

初めて訪れた長野県上田の街。山々に囲まれ、中心部には雄大な千曲川が流れる自然豊かな街で、細田守監督の『サマーウォーズ』の舞台としてはあまりにも有名だ。その上田駅から上田電鉄別所線に乗り、ひたすら西へと向かった。

上田電鉄別所線に乗って西へ。
上田電鉄別所線に乗って西へ。

揺られること30分。上田の旅で外せない場所、別所温泉へたどり着いた。別所温泉は別名「信州の鎌倉」と呼ばれ、上田の名将・真田氏の隠し湯でもある場所だ。

レトロでかわいらしい別所温泉駅舎内。
レトロでかわいらしい別所温泉駅舎内。

レトロ建築好きとしては、このかわいらしくも渋みのある別所温泉駅舎がたまらない。パステルグリーンの壁と天井、色褪せたファンライト。壁の張り紙のフォントひとつとっても、いちいち素敵だ。

橋の上から望む北向観音。
橋の上から望む北向観音。

しばらく歩くと北向観音の参道がある。ここもまた独特で、一度川を橋で渡ってから参道に入る。仲見世はどれも古い建物で、これもまた私の好みだ。

新緑と瓦屋根のコントラストが美しい。
新緑と瓦屋根のコントラストが美しい。

別所温泉の守り神・常楽寺の近くにあった大衆食堂。その名は……

参道の階段を上り、常楽寺でお参りを済ませたところでちょいとひと休み。どこかで一杯飲みたいなと、近くを散策していると……おや?

老舗感満載の『日野出食堂』。看板は逆読み。
老舗感満載の『日野出食堂』。看板は逆読み。

おおっ! これもレトロでいい外観だ。店先の看板には、なになに「堂食出野日 処事食」だって? なんのこっちゃと思ったが、これは“逆読み”だ。逆から読んでみると……日・野・出・食・堂……えっ! 日野出食堂って、あの『ミスター味っ子』の食堂と同じじゃないか!

夢にまで見た「日之出食堂」かと思いきや……。
夢にまで見た「日之出食堂」かと思いきや……。

いや、日“野”出食堂か、惜しいっ! 漢字1文字違いか。なんにせよ、こんなところで私の一番行ってみたい名前に近い食堂と出合って、素通りするわけにはいかない。早速中へと入ってみよう。

『日野出食堂』の内観。こんな日本の風景がいまだに残っていることがうれしい。
『日野出食堂』の内観。こんな日本の風景がいまだに残っていることがうれしい。

うおぉぉぉぉ! これはエラいこっちゃな店内だ。広々とした空間は、おそらく古民家をそのまま店にしたものだろう。入ってすぐの土間にはテーブル席がひとつ、そこから靴を脱いで上がったところにはおよそ10畳ほどの座敷が広がっている。天井の梁は黒々と立派で、茶色く色褪せた壁にはメニュー札、昭和時代からのポスター、達筆で書かれた名言などでびっしりと埋まっている。

どこを見ても昭和感のある光景にうっとり。
どこを見ても昭和感のある光景にうっとり。

あぁ、いいなぁ……有形文化財といってもおかしくない店内の奥には、それこそ「味皇」がいてもおかしくない。とにかく、ここの畳に座って酒をたしなんでみたい……!

店の雰囲気にピッタリの瓶ビール。
店の雰囲気にピッタリの瓶ビール。

すぐに届けられた瓶のラガービール、これがまた最高だ。表面に霜が降りるほど、キンキンに冷えた瓶ビール。これをグラスにトクトクと注ぎ、炭酸を弾けさせる。

一気にビールを飲み干す筆者。
一気にビールを飲み干す筆者。

ゴグッ……ゴグッ……ゴグッ……、うー・まー・いー・ぞぉぉぉぉっ!! 喉に氷柱ができそうなほど冷えていやがります。店に入って10分も経たないうちに、何度も幸せのため息が出る。さて、日之出……いや、『日野出食堂』の料理をいただこう。

山菜漬けのお通しは抜群に旨い。
山菜漬けのお通しは抜群に旨い。

お通しを紹介することは少ないのだが、ここの山菜漬けのお通しだけは紹介せざるを得ない。とにかく、めちゃくちゃ旨い! シャクシャクとした山菜のスジの歯ざわりと、濃いめの醤油味。そして、何とも形容しがたい独特の苦みが酒のツマミとして最高。やはり長野は“山菜王国”と言わしめる見事な一品だ。

馬肉の肉皿は旨味が凝縮されている。
馬肉の肉皿は旨味が凝縮されている。

続いて肉皿(小)がやってきた。馬肉も盛んな長野は、馬肉料理もひと味違う。馬肉を甘辛く煮込んだもので、これがなんとも旨い。牛や豚を煮込んだものとは違い、少し歯ごたえがあり、肉の中から染み出すような深い滋味が病みつきになる。とにかく酒との相性が良く、コンビニのビーフジャーキーと同じ棚で常時販売して欲しい。

たまらず注文した馬刺し。中トロのような味わい。
たまらず注文した馬刺し。中トロのような味わい。

口の中が“馬”になったので、やはり馬刺しも欲しくなる。紅色に鈍く光る表面には、うっすらとサシが入った馬刺しの中トロといったところか。

そして、旨い! ──舌にネットリと絡み、脂の旨味が広がる。コンビニの冷凍庫で、隠れた名品として常時販売して欲しい。

 

しかし何といっても、このロケーションだ。店内はゆっくりとした時間が流れ、客は皆ゆっくりと食事を楽しんでいた。後からやって来たご高齢のマダムは、席に着くなり冷酒を頼み、そのあとから来た青年2人組は、大盛りのそばを汗をかきながらすすっている……まるで、夢のような空間である。

ここはそば大国・長野。締めはもちろんそばで!

『ミスター味っ子』の第1話に出てきたカツ丼でシメるのも考えたが……ここは日本が誇るそば大国。青年2人組に倣(なら)って「大ざる」をいただこう。

山盛りの大ざるそば。
山盛りの大ざるそば。

わわっ! ピッチャーマウンドばりに山盛りだ! 薄墨色の平麺に、刻み海苔がかかったシンプルな田舎そば。箸でそばをすくって、色の濃いツユにチョン。それを一気にすすり込む……!

平麺の喉ごしが濃いめのツユとよく絡んでおいしい。
平麺の喉ごしが濃いめのツユとよく絡んでおいしい。

ズルッ、ズルルルル──ッ! つぼんだ唇に麺の冷たさが伝わり、喉ごしと共に濃厚なそばの旨味を堪能する……これは最高のそばだ。40代の胃袋には量が多いかと思ったが、高校生時代のワンパクを思い出すがごとく、いくらでもいけた。すっかり腹が一杯になったが、心も一杯になった。

時折、カラカラと天井から釣り下がった民芸品が扇風機の風で揺れる。そういえば、この店の外は山間の温泉街。温泉街なのに、温泉に入っていなかったぁ……なんてことを、畳に足を伸ばしながら、夢心地で残りの酒を飲み込む。東京から数時間でたどり着けるこの場所も東京と同じように時間が経過していくことを思うと、これが不思議で、どこか心地よい。

 

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

店を出て、振り返れば大好きなアニメの中の食堂の看板。いや、漢字1文字違いではあるが、ある意味、その夢が叶ったような素敵な食堂だった。

住所:長野県上田市別所温泉1632/営業時間:11:00~14:00/定休日:木/アクセス:上田電鉄別所線別所温泉駅から徒歩9分

取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)

どんな街にも歴史が存在して、時に悲しく、時にドラマチックな出来事を刻んでいる。私のふるさとも大きな港町で、かつては北前船の寄港地であり、それによって花街としても栄えた歴史がある。それなりに自慢できる街なのだが、それでもよその街の歴史をうらやましく思うことがある。それが“歴史上の有名人”がいた街だ。例えば鹿児島の西郷隆盛、高知の坂本龍馬、山梨の武田信玄、仙台の伊達政宗など。なにがうらやましいって、街のほとんどの人が圧倒的なシンボルとして誇りに思っているのだ。これは、たまたまそこで生まれ育った者の特権とも言える。そんな街のひとつで、前から気になっていたのが長野県上田市だ。
「ちょっと待ってよ……“ただの家”じゃん!」と、今まで何度となく叫んできた。どういうことかというと、入った酒場があまりにも一般家庭の内装に近く、シブいを通り越して“ただの家”の状態に、何度となく驚かされているのだ。
最近、ある酒場を訪れたときのこと。そこでは“スマホ注文システム”を導入していて、私はこの日はじめて体験することになった。手元や店の壁などにメニューなし、スマホの小さい画面の小さな写真のみで料理を頼むシステム。老眼でたどたどしくも、何とか注文することができた。そのうち酒と料理が運ばれてくる。また、しばらくしてスマホから注文……これの繰り返し。人件費削減や領収書の電子化など、合理的で多くの利点があるのは分かるが……それでも、ちょっと料金が上がっても、料理が届くのが遅くなってもいいから、もっと店の人と“会話”がしたい。特に、はじめての店の独酌は寂しい。酒場にも溶け込めず、なんだか自分がこのスマホ注文と同じく無機質な存在になった気分だ。タッチパネル注文だって最初は違和感があったが、今ではだいぶ浸透してきたように、いずれ違和感なく利用できるのだろうけれど、今のところは「う~ん……」という感じ。というのも“会話の温もり”を感じる店が、まだまだ世の中には多いからだ。