戦国時代の恋愛とは
戦国の結婚といえば政略結婚。
家と家を繋ぐために親に相手を決められるのが当然であった。
故にいわゆる自由恋愛と呼ばれしものは少なかったのじゃ。
豊臣秀吉とおね殿や、儂(わし)前田利家とまつは極めて珍しい恋愛結婚なのじゃが、これは互いに地位が低く家を継ぐ立場ではなかった故に叶ったことであった。
我らが生きた乱世では、仲の悪い家同士が関係修復のために婚姻を結ぶことも珍しくなかった、故に気を許せないまま形だけの夫婦となった者も多かった。
中には、嫁いだ先の家の情報を実家に流す間者としての役割をもつ奥方もいたのじゃ。
武田信玄殿の弟、武田信繁殿が「妻の前でも刀を忘れなきよう」との言葉を残しておるほどじゃ。
然りながら、始まりは定められたものであれど深い絆を持つ夫婦も多くいた。
その中から二組の夫婦を紹介いたそう。
毛利元就・妙玖、謀神と女丈夫が果たした中国統一
まず紹介致すのは、数多の謀略を駆使して小豪族から中国の覇者にまで成り上がった謀神こと毛利元就殿と、それを支えた妙玖(みょうきゅう)殿である!
この二人は戦国きってのおしどり夫婦として戦国時代でも名が知れ渡っておった。
二人が結婚した頃の中国地方は大内氏と尼子氏の天下に名を馳せる大大名が争っており、間に挟まれる毛利家は同じく小豪族であった吉川家当主・国経殿の娘である妙玖殿と婚姻を結んだわけじゃ。
政略結婚といえど二人は実に仲睦まじく、元就殿は尼子と大内の両家に属したり離れたりと綱渡りの外交と戦を繰り返しておった中、妙玖殿が内政を担い家中を盤石に治め続けた。
二人の仲の良さは元就殿が書いた文にもあらわれておって、元就殿が子に教訓として送った「夫が外を、妻が内を治めるもので妻のおかげで儂は頑張れる」と惚気と言っても差し使えないような文書も残っておる。
書いておいて恥ずかしくなったのか、この手紙はすぐに処分するようにとの一文もあったそうじゃ。
二人の間には嫡男の毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の三人の男子が生まれる。
この三人に向けたのがかの有名な『三矢の訓』である。
矢は一本では容易く折れてしまうが3本束ねればなかなか折れないように三人の兄弟で力を合わせれば強固な家を作ることができる。
この教えが意味する家族仲の大切さは元就殿が妙玖殿との良好な関係から見出した家訓であるといえよう。
常に綱渡りであった毛利家を手を取り乗り越えた二人であるが、妙玖殿が47歳でなくなると元就殿も翌年に隠居する。
跡を継いだ嫡男の隆元にあてて、「いつも妙玖の事ばかり考えてしまう」「妙玖が生きていてくれたら、今は話し相手もおらず寂しく思う」と何通もの手紙を送るなど、死後も妙玖殿への愛を忘れることがなかったそうじゃ。
妙玖殿の死後の毛利家は先にも紹介した二人の間に生まれた子達、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三人を中心に勢力を拡大。
かつて仕えた尼子や大内を滅ぼして中国の覇者に成り上がり、信長様最後の敵となったのじゃ。
妙玖殿が亡くなるまでは側室を持たなかった元就殿に倣い、三人の息子も側室を持たなかった。
日ノ本において誠に珍しい、側室を持たぬ一族でもあったわけじゃ。
主君や弟、親族を手にかけた恐るべき謀り者の一面は大切な家と家族を守るためのものでもあったのじゃ。
織田信忠様・松姫、戦国の悲恋
次に紹介致すのは、戦国の乱世に引き裂かれた悲恋。
信長様の嫡男信忠様と武田信玄殿の娘松姫様の話である。
武田と織田の間に斯様な話があることを不思議に思う者も少なくないじゃろう。
長篠の戦いをはじめ宿敵としての印象が強い両家じゃが、実は長きにわたって同盟を結んだ間柄であった。
京を目指し西へ進軍したい織田家と、上杉や北条ら北東の勢力との戦いが続く武田家は利害が一致していたわけじゃ。
両家は関係を深めるべく、まずは信長様の養女龍勝院殿を信玄殿の四男勝頼殿へと嫁がせた。
勝頼殿の嫡男で武田家最後の当主である信勝殿は信長様の孫にあたる人物なのじゃ。
龍勝院殿が早くに亡くなったこともあり、同盟を補強する為に新たに結ばれたのが此度紹介するお二人の婚姻である。
この婚姻が成ったのは信忠様11歳、松姫様7歳の時。
2人ともまだ年若いが故に、輿入れは二人が大きくなってから行い、それまでは武田家が信忠様の正室を預かっているという扱いであった。
両家を繋ぐ架け橋として、文を通じて仲を深めておった御二方であったが、もうまもなく輿入れと思った矢先に起きてしまったのが、三方ヶ原の戦いである。
勢力拡大を図る武田家が徳川家を狙って起こしたこの戦。
信長様は織田家と同盟関係にあった徳川家を相談もなしに攻めたことに激しく憤り、武田家との同盟を破棄。
これによって信忠様と松姫様の縁談も破談となってしもうた。
文を通じて心を通わせておられた2人は無論深く悲しみ、信忠様は正室をつくらず、松姫様もたびたびあった輿入れの提案を断り続けたと伝わっておるわな。
家によって引き裂かれた二人であったが、転機が訪れる。
武田家が滅び、寺社の庇護を受けていた松姫様の下に信忠様からの使者がやってきたのじゃ。
敵方の姫を娶ることは許されなかったが武田家が滅びたことでそのしがらみも消え、信忠様は落ち延びた松姫様を探し当て改めて正室に迎え入れたいと使者を遣わしたのであった。
総大将として武田家を滅ぼした信忠様は松姫様にとっては仇でもあった。
じゃが、信忠様を強く慕っておった松姫様はこの申し出を受け、喜んで信忠様のもとへ向かった。
しかし二人の念願の成就を天は許さなかったのじゃ。
松姫様が信忠様の住む京へ向かっておる最中に明智光秀殿が謀反を起こし、信長様を襲った事件『本能寺の変』が起きた。
信長様を討った光秀殿が次に狙ったのは、信長様の後継であり信長様に劣らぬ才と人望を持つ信忠様であった。
本能寺の近くに在った信忠様は少ない兵ながらも果敢に戦われ、幾度も明智の精鋭をはねのけたと聞く。
然りながら多勢に無勢、衆寡敵せず壮絶な最期を迎えられたのであった。
上洛の途上に信忠さまの訃報を聞いた松姫様の心中ははかり知れぬ。
長きにわたる想いは本能寺の変によって今度こそ引き裂かれてしまったのである。
その後の松姫様は東国へと戻り武田家の遺臣に支えられながらひっそりと暮らす。
出家し信松尼(しんしょうに)となるのじゃが、一文字目の信の字は武田の通字であると共に信忠さまを偲んでつけたとも言われておる。
東京の八王子にある松姫様が住んでおった信松院は美しい本尊を構え、美しくも悲しい松姫様の生涯を今に伝えておる。
一度も会うことが叶わなかった松姫様と信忠様であるが文や贈り物を通じて十五年にわたる長き間互いを思い合った戦国屈指の純愛であるといえよう。
終いに
此度の話は如何であったか!
此度は戦国の純愛について話して参ったが、仲の良い夫婦といえばやはり儂とまつのことも忘れてはならん!
現世を生きる皆にとっては、戦国のおしどり夫婦といえば儂とまつが1番に思いつく者も多いであろう。
儂とまつは2男9女の子宝に恵まれ、戦国時代で最も多くの子を設けた夫婦でもあるのじゃ!
今まで幾度か話して参ったで多くは語らなかったが、まつと共に築いた加賀百万石は我が誇り。
戦国の良き夫婦の筆頭格であると自負しておるぞ!
妻自慢に興が乗ったところで此度は終いといたそうと思う。
これよりもさんたつにて新たな歴史のおもしろき話を伝えて参るで楽しみに待っておれ!
それではまた会おう。
さらばじゃ!!
写真・文=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)