天下人に愛された猫

食糧難が続いた戦国時代において猫は食料として扱われたり、武将の間で流行った鷹狩の鷹を育てるための生き餌として野良猫を狩ったりと、猫と人間の関係史の中では不遇の時代であったといえる。

然りながら!猫好きの戦国武将も多くおり生活に余裕がある者たちの中では愛玩動物としていたくかわいがられたのじゃ!

天下人、豊臣秀吉も猫好き武将の一人であった!

秀吉は天下人となった後に大坂城にて猫を飼い、大層かわいがっておった。

じゃが、そんななか大坂を揺るがす事件が起こってしもうた。

 

なんと、秀吉の愛猫が、脱走したのじゃ!!

 

この事態に秀吉は動揺、大いに嘆き悲しんだ。

そして、浅野長政を呼び出して猫の捜索を命じたのであった。

五奉行の一人で日ノ本の政の中枢を担う切れ者、浅野長政が指揮を取り愛猫の捜索が始まったのであるが、長政の腕を持ってしても一向に猫は見つからなかった。

 

困り果てた長政が野々口五兵衛という武将に出した「お主が飼っている猫の中で虎毛の美しい猫を貸してほしい」という旨の書状が現世に残っておるぞ!

 

秀吉の愛猫がどうなったかは分からぬが、秀吉の猫愛と天下人らしい振る舞いがわかる話であるわな。

戦国の奇人も愛した猫

次に紹介致すのは伊達政宗と猫の話。

政宗は筆まめであったために、風変わりな日常のやり取りの書状がじつに多く残っておる!

此度紹介するのはその中の一つ。

江戸幕府の役人への猫を譲り受けた礼の手紙である!

子猫を確(しか)と受け取ったことに始まり、顔つきが見事であるとか、大きなネズミを捕まえたから一層気に入ったこととか、首輪がおしゃれでよく似合うであるとか。

更には直接あって礼が言いたいとまで記してあった。

えらく気に入ってかわいがっておることが滲み出る書であるわな。

我らの時代、幕府の要人に会うにも家臣を遣わすのが当たり前の中で直接会って礼を言うのは当時としては最大の異例とも言える感謝の示し方であった。

政宗が如何にこの猫を気に入っておるかが強く示された一文であるといえよう!

戦国では奇人と呼ばれた政宗であるが、こう言った話を聞くと現世を生きる皆々と似通ったところがあるように思う。

此度の話も共感できる者もおるのではなかろうか!

鬼島津ならぬ猫島津

最後に紹介致すのは猫のある特徴を戦に用いた武将、島津義弘殿である!

義弘殿は外征に赴いた折に、七匹の猫を連れて行ったのじゃ!

猫の目が光を感知して形を変えることを活用し、戦さ場でも時間を確認できるようにと考えてのことであったそうじゃ。

我らの時代では猫の目は明暗ではなく時間によって変わると考えておったためじゃな。

故に時間を測ることはできなかったであろうが、過酷な異国の戦さ場にて身と心を削る兵にとっては幾らかの癒やしとなったのではないかと儂は思うておる!

疫病も蔓延し多くの兵の命が失われる苦しき戦であったが、連れて行った七匹の猫うち二匹は日本に生還することが叶った。この二匹は亡くなったのちに手厚く葬られ、島津家の別邸に社が建てられた。

これは今でも猫神社として残っておって、猫の絵馬をはじめとしたかわいい神社として隠れた名所となっておるぞ!

因みに連れていった茶トラの猫を義弘殿の子・久保(ひさやす)殿がかわいがっておったことから、鹿児島県では今でも茶トラの猫をヤス猫と呼ぶそうじゃ!

荒々しい印象のある島津家じゃが、猫の他にも愛馬の墓を建てたり、敵兵の供養等を建てたりと深い慈悲の心をもつ武士である。

しまいに

現存天守を持つ備中松山城には猫城主さんじゅーろー殿がおる。
現存天守を持つ備中松山城には猫城主さんじゅーろー殿がおる。

猫について話して参った此度の戦国がたりはいかがであったか。

猫と戦国、関わりがありそうでなさそうな両者であるが繋がりが深いことを知れたかのう。

此度紹介した他にも、太田道灌殿が敗走中に道に迷っていたところ黒猫に導かれて安全な神社にたどり着いた話や、徳川四天王、井伊直政殿の子・直孝殿が鷹狩りに出かけようとした折に近くの寺にいた猫に招かれて足を止めたことで雷雨をまぬがれた話など多くの猫にまつわる逸話が残っておる。

因みに彦根城の人気者・ひこにゃんは彦根藩主であった直孝殿のこの逸話がもとになっておるのじゃ!

時代を遡れば猫を溺愛し猫に官位を与えた天皇もおるで、気になる者は調べてみると面白いであろう!

これよりも戦国のおもしろき話を紹介して参るで、次の話も楽しみにしておると良いぞ!

それではまた会おう。

さらばじゃ!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)