ひょんなことから始まった店
「お店を開くために場所を探していたわけではなかったんです。タイミングと成り行きで、突然やることになっちゃって」と笑うのは、夫のきんちゃん。
この古民家が『のんびりや』になる前は、日替わり制のシェア空間だった。夕やけだんだんでのベーゴマつながりで仲良くなった友人とよく一緒に飲みに来ており、その頃ちょうど土曜の枠が空いたこともあって、本業のイラストレーターの息抜きにと週1日店主をすることに。
物件を探し歩いていたところ、「その1年後に他の曜日も店主がやめることになって、自分たちの店を本格的に取り組むことになりました」。
料理が好きだったとはいえ、飲食店経営は初挑戦。オープンが決まってから、きんちゃんは西日暮里『鳥のぶ』へ、もしゃさんは駒込『百塔珈琲』へ数カ月間修業に行ったのだそう。
また、建物の老朽化という課題もあった。壁が剥がれて落ちてきてしまったり、水道管も飲食店として耐えうるものではなかったりと、補修が必要な箇所がちらほら。しかし、直しはしても極力変えないことを心がけているという。
「以前、昭和期にお住まいだった方が遊びに来てくれたことがあって。『昔の雰囲気のまま使ってくれてありがとう』と言ってもらて、とてもうれしかったです」と妻のもしゃさん。
キッチンとお茶の間を隔てる壁は骨組みを新たに作ってから元あった板をすべて元通りに戻してあるほか、元の住人の方が残していったブラウン管のテレビや掛け時計もそのままにしている。
カウンターテーブルも自分でDIYしたといい、「先日、とうとう丸鋸と鉋を買いました」ときんちゃん。「もともとイラストレーターということもあるんですけど、ものづくりをしていれば幸せなんですよ。料理も大工仕事もものづくりなので」。
常連さんの無茶振りから生まれた人気メニュー
そんな空間でお昼に腹ごしらえをしたいと思ったら、まずは人気の一皿をぜひ。オムライス(黒)というメニュー名が気になるが、「黒」の名の通り、イカスミを使った黒いご飯のオムライスだ。
この一風変わったオムライスが生まれたのは、イカスミのパスタがメニューにあった頃、常連さんに「これのチャーハンを作ってみてよ」と言われたことがきっかけだった。実際にチャーハンを試してみたものの全て真っ黒でイマイチ。「じゃあオムライスにしちゃえ」と試してみたら、これがとてもおいしかったのだそう。
「カップルで食べて、歯が黒くなってキャッキャするみたいなのもいいなって、半分いたずら心で作ってました(笑)」
いざいただいてみると、イカスミのコクと旨みに、優しい味の卵が驚くほどよく合う。これはもはやケチャップライスやデミグラスソースを超えた新定番なのではないかと思うほどだ。「歯が黒くなっちゃうなあ」なんて思うのは最初だけで、夢中で食べ進めてしまいすっかり気にならなくなる。
ここにしかない、癒やされる空間に
ランチタイムはごはんのおいしいカフェだが、夜はバルになる。辛党ならば、店先に並ぶ酒瓶や店内の棚に腰を据える剣菱の樽を見て期待が膨らむはずだ。
「研修で剣菱の酒蔵へ学びに伺った際、火入れ前の生酒を試飲させていただきました。あまりにもおいしくて、高い価格帯でもいいので新商品としてリリースする予定はないんですか?と白樫社長に質問したところ、『高いと酔えないでしょ』と笑顔で答えられた白樫さんの一言にしびれました」と、ドリンク担当のもしゃさん。酒蔵やワイナリーとのつながりを大切にし、自分たちの好みを重視しているという。
「お店を始める時、剣菱を扱うって言ったら同業者からは十中八九驚かれたけれど、最近は有名な酒屋さんのレジ横や東京国立博物館にも置かれるようになってきて、時代が変わったなって思います」
「酒場は温泉。仕事帰りに疲れを癒やす場所」と言うきんちゃん。お店に来てくれたお客さんには、谷中のほかの酒場を教えてハシゴ酒をおすすめしているんだとか。
「昼飲みもできるし、夜にスペシャリティーコーヒーも飲める、そんな赤提灯系カフェとしてやっています。外国人も日本人も関係なく、気に入ってくださったらうれしいです」
そんな店を8年続けているおふたりだが、今後やりたいことを聞いてみると、「また修業に出たい」という答えが!
「バイトに戻りたいですね。外で新しいことをインプットしてきて、この店にフィードバックできたらいいなって。素人が一番楽しいんです。永遠の素人がいい」
垣根がなくシームレスで、肩肘張らずにのんびりできる場所。きんちゃんは谷中のことを「人のつながりが濃い街。都心っぽくないというか、東京のここだけ磁場が違う感じ」と評していたが、『のんびりや』はまさにそんな谷中の魅力を凝縮したような空間なのだ。
『散ポタカフェ のんびりや』店舗詳細
取材・文・撮影=中村こより